羽鳥圭亮 Profile 2009-3-16
編集人:
株式会社ヤマガタ共同 
総務部門所属の女子。
印象 作業衣を着た浪漫詩人風。
経営数字に強い俳人。
山形県に惚れている東京人。
司馬遼みたいな白髪。
いやみのないインテリ。
コーヒー好き。
経歴

俳号・爽洲。1930年(昭和5年)12月、東京に生まれる。本籍東京都港区三田。

大学中退後、倒産した父の会社(商店)の再建の手伝いから始まり、書店外売担当員、診療所事務長などいくつかの職業を経て、最後は電子制御機器メーカーに就職、経理担当。定年後は会社の工場に協力するため山形に移住。現在、株式会社ヤマガタ共同 監査役。

若い頃より俳句を石田波郷(はきょう)、栗林一石路(いっせきろ)らに学ぶ。首都圏の俳句誌「波」および山形地方句誌「ひまわり」同人を経て、現在フリー。エッセイスト。

著書 句集
「椎若葉」(1972年)

エッセイ集
「阿修羅の目」(1982年)

「私の山形」(1993年)
十四、五歳の少年が見た空襲・敗戦時代」(2007年)

その他小句集
「出羽十年」「蒼茫」「吟遊」ほか
2

十四、五歳の少年が見た空襲・敗戦時代
(いちい書房)
最近の新聞記事 2008年2月4日 山形新聞掲載
2008年2月1日 山形新聞掲載 『提言』


著書紹介

十四、五歳の少年が見た空襲・敗戦時代
(2007/11/03出版)

昭和20〜21年に14〜15歳だった著者が実際に綴っていた日記。
戦争という歴史の中に生きた純粋で誠実な日本男児の記録。

「僕はいつでも死ねる覚悟で毎日を生きているつもりだ。」
「墓は靖国神社と決めている」

空襲と飢えの日々の中、恐怖と覚悟が交差する様が、戦争という暗澹の中でありながら、一種、清々しさと潔さを感じ、さらに言ってしまえば痛快さすら感じる不思議。著者があまりにも純粋であまりにも誠実な少年であるがゆえであろう。
読みすすめると、羽鳥少年へと思いを馳せ、応援したくなるのだ。
まもなく終戦を向かえ、平和な国へと向かうから、もうしばらく耐えて…
とそっと教えたくなる。

戦争記録はたくさんありますが、十四歳の少年の赤裸々な記録をご一読ください!
戊辰戦争と会津藩
(2001年2月小冊子)
PDFで公開中!
幕末、会津藩が「京都守護職」に就いてしまう経緯はご存知でしょうか。「竜馬がゆく」しか読んでいない歴史オンチの私なので、この問いは的外れなのかわかりませんが、幕末の会津藩への興味が大いに沸いてきます。悲惨な運命を遂げることとなる白虎隊、薩長の思惑、我が竜馬!最後の将軍…この辺りは一度マスターしておかなければ。

以下引用です。 

会津燦々濠(ほり)一面の花筏(はないかだ)

佐藤鬼房氏評
【燦は、あざやか・あきらか・きらびやかで、目がくらむほど光の色の美しい形容。燦燦は燦然と同じく、鮮やかで美しいさま、きらきら輝くさまを言う。「会津燦燦」となれば、それに加えて、郷土意識のこもる誇らしい高揚の気風が感じられる。作者は、この土地のものではないが、この「燦然と輝くわが会津の美しさ」に共鳴したのだ。折から万朶の桜が散りはじめ、かの荘厳の会津魂に出あったような、鶴ヶ城の歴史的空間に思いを馳せるのも当然であろう。落花は次々に筏を組み濠を埋めんばかり】


俳句の何たるかもわからない私でも、この小冊子の締めとしてのこの句、この評の効果が絶大のこと!悲しき気品。高潔であるがゆえの美しさと孤独。会津魂への憧れ。

 小説
炎の夜
  (1990年) 
頭の上の空気が重くなったように頭が疼き、痛い。息が苦しい。
戦争のむごいシーンに入ると、目と脳で読んでいるはずの活字が、からだ全身を支配し、頭痛を引き起こす。創作だとしても、調べ上げた事実に基づく小説だ。戦争を知らない世代が戦争の感想を言うのは後ろめたい。軽々しく書いてはいけない気がする。戦争物を読んで、観て、覚えておかなければならない。阿鼻叫喚の地獄絵は事実だったということを。


12歳の明子は、父を戦死し、母と妹の3人暮らし。疎開から戻ったばかりの明子は連休前夜、くつろいだ気持ちで床に就いた。その夜、昭和二十年三月十日、東京大空襲の夜のことである。

被災の詳細から敵機の爆撃計画に至り、詳しく調べあげられているので必読です。ご連絡頂ければ本文を提供いたします。

 小冊子は、芭蕉、最上川、樋口一葉、スパイゾルゲ、他多数のテーマで発刊しています。 随時更新中。

 エッセイ一覧






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