哀れスネークの恋


定時制高校といっても,いろいろな高校がある。

普通思い浮かぶのは夜間部の高校であるが,小生の進んだ高校は昼間部の定時制高校である。

他ページでも述べることになるが,村上市の全日制普通科高等学校の分校という形の学校であった。
正式には「新潟県立村上高等学校朝日分校」という。
定時制なので4年制であるが,1,2年は週4日登校3,4年は週3日登校で残りの日は休みになっている。

会社に勤めてもよし,家の手伝いをしても良いのである。
女子は家の手伝いをするのも多いが,男子はアルバイトするのも相当いた。


その頃のアルバイトで多かったのは何といっても土方である。


小生も1,2年の頃は単発的によくやった。
道の工事,橋の工事などのいわゆる土木工事である。道具はスコップ。
これで土をほじくり砂利を一輪車で運ぶ,トラックに積み,またトラックから落っことした砂をスコップで一輪車に積み,運ぶ。


そんな仕事があっちこっちにあった。
若くてがむしゃらに働くし,大人と違ってサボらないから結構勤め先は見つかった。
当時の日当500円が相場であったが,所によっては750円という特殊な所もあった。


なかにはトラックの助手なんていい仕事にありついてる奴もいて,小生達の現場へ来りした時はうらやましく思ったものだった。


土方で一番嫌だったのは,雨の日である。


ゴムの合羽を着てスコップを持つと,汗はかくし,その汗が合羽を着ているので発散しないもんだからべとべと体にまとわりついて気持わりいことおびただしい。


そんな理由から雨の日は仕事を休む事が多かった。2,3回休むと次が行きにくくなりそれっきり行かず,3日ぐらいでやめちゃったこともある。


2年と3年は営林署のアルバイトをやった。


村内に国有林があり,任命された担当区が一人いてその人の元で何人もの人が働いている。
ランクづけがあり,一番上のクラスは会社でいう正社員みたいなもので月に何日以上でると契約した人で,10人くらいいた。


その下にある程度自由出勤契約で年配の人(老人に近い)がいて,一番下が若いアルバイトである。
もちろん一番下に小生も入っていたのである。


一緒に行っていたのは友人のHで,同じクラスの一風変わった雰囲気を持つ青年である。


ちょっと見ると哲学的な顔をしていて,秀才みたいに見えるがそんなに頭は良くなかった。(ゴメン)


でも考える事が,普通の人と違っていて「飯を食うのが面倒くさい」とか「ソクラテスがどうのこうの」と訳もわからないことを言って,小生を困らせた。学校でも彼の話を完全に理解できる人はいないようだった。
親父さんは郵便局の保険の担当をしていて,ずいぶん貫録があった。


朝,Hの家へ寄ると彼の親父さんが「山はまむしが多いから気をつけろよ」とよく声を掛けてくれた。

ところで営林署の仕事だが,一年の季節毎に仕事がいろいろと変り,おもしろいこともあった。

最初に働きだした頃は春だったので,苗木の肥料くれ。
植林してまだ何年もたってない杉の木一本一本のすぐ側をくわでほじくり,顆粒状の肥料をひとつかみずつ施し,また土を掛けておく。

この動作を山の斜面の下から上まで登ったり下ったりするのである。上から下まで200〜300mあろうか。一日繰り返すと結構な距離を歩く事になり疲れるが,晴れた日などは気持ちいい。
一年の中でも気分がいい季節である。

それが終わると,根刈りが始まる。草がだいぶ伸びてくる6月から7月頃。朝現場へ着くと最初に鎌を研がなければならない。

自分用に10センチ位の小さな砥石があり,それを30センチはある鎌の刃の上をこするのだから結構危ない。
ちょっと手をすべらすと指をグサッと切ってしまう。小生も一度切ってしまい,いまでも傷あとが指に残っている。

ペッペッとつばを砥石につけて研ぐのも汚らしい。真っ黒い顔をしたおばさんがペッペッつばを吐くんだから。

研ぎ終わると,やおら大きな根刈り鎌を振り回し,苗木の回りに生えて伸びている草を切り払うのである。
鎌の柄は2mもあるから,前の人との間隔も5m位開けなくてはならない。またあんまり遅れると後からあおられるので一生懸命やらなければならないのよ。

急ぐあまり苗木をちょん切ることもしばしばあった。(申し訳ない)


この頃からまむしも頻繁に出てくるようになる。

小生は怖くて捕まえたことはほとんどない。

ところが、あるときそいつとパッと目と目があったことがある。

その相手は動かずジーッと小生を見ている。その距離1m位はあったが,小生少し怖くて本のちょっと視線をそらした瞬間。


サッといなくなった。


忍者みたいな奴で,いなくなってからゾーっと背筋が寒くなった。
それでも一度だけ捕まえたことがある。

捕まえたと言うよりは恐怖でめっためったにぶったたき,頭もつぶしちゃって胴体と尻尾だけ持ち帰った。
家に帰ってから皮をはいで,30センチくらいになった胴体を竹に巻いて焼いて食べた。「元気の素」と言うことで、あちらでは皆んな食べちゃうのである。

慣れたおじさんは上手に素手で捕まえて,その場で皮をサーツとむき内蔵も大切に持って帰る。皮をむかれて,すっ裸になってもくねくね動きやがって..随分未練がましい奴だ。
皮はがれてもし逃げてもどうしようもないだろうに。

毎日一匹や2匹は捕まった。
でもあれだけいるのにかまれる人がいないのはたいしたものである。


根刈りの次の除草剤散布もつらかった仕事である。

これはまず晴れた日にしかやらない。
晴れた日イコールこの時期だから当然暑い。

汗をかく。除草剤なのでマスク着用。とにかく暑い。汗が乾燥してズボンが塩を吹いたように白くなってしまう。そこに除草剤がくっつくからかゆくなる。これも大変な仕事であった。

ある日,除草剤を散布して終わりそうになった時間ににわか雨に降られたことがある。いい天気だったので当然誰も雨具は持ってこず,全員ずぶぬれになった。

雨はすぐにやんだのだが葉が濡れてしまうと除草剤ができないのでもう終わろうということになり,その帰り道。川の所まで来たときだった。

いきなり,おばさん連中が気持ち悪いからと上半身裸になり川の水で体を清めだしたんだとさ。
その同志5,6人。

当人たちは「いまさら恥ずかしがる年でもないわい。見るなら見るがよい。こわっぱものめ。」と大胆であった。

確かにもうだいぶ使用した後(何に?)だけに,するめのなんとかという状態ではあったが,それはそれとしてしっかりと拝見させていただいたものであった。


蛇に関してはもうひとつ貴重な経験をした。

というか貴重な状態のところを見たのだが...。
ここまで書くと勘のいい人はピンとくるだろうが,そうです。

蛇のニャンニャンのところです。その真っ最中のところだったものですから,2匹共青筋を立てて(そんなことはない!)頑張っておりました。

といっても人間様のようにシコシコ動く訳でもなし,ただジーッと落ち着いて行っていたわけです。

蛇のそこは胴体と尻尾の境目ぐらいの腹側にあり(どの動物も大体その辺だろう)そことそこを結合させておりやした。

まさかこんなとこへ人間が大勢来るとは思っていなかったのだろう。
「でも始めちゃったのはしょうがない。最後までやってしまおう」ってんで,離れようとしない。

見ている我々はそう落ち着いてゆっくりやっていられてもつまらない。

全然動きもないし。棒で突っつき始めた。最初は「うるさいなあ。見たらもういいかげんにどっかへ行けよ」とおとなしくしていた彼と彼女も身の危険を感じ始めた。

こんなところで棒で叩かれ,死んでもつまらない。と動き始めた。結合部分は強くつながれており,離れずそのまま引きずっていく。
蛇というのは後に動けないから引きずられて行くのである。
後ろ向きになっている彼女が前をむいて並んで逃げればいいと思うのだが,疲れもあるのかも知れない。

人間達はこりゃまた逃げられたらこの先どうなるか見れないと,意味もなく叩き始めた。相当叩かれ我慢しきれなくなった哀れスネークのアベック。

とうとう離れ離れの西東。

逃げながら一句
「他人の恋路を邪魔する奴は車に引かれて死んじまえ」。(意味不明)

ある種の罪悪感も残ったが貴重な体験ではあった。


秋になると,仕事はあまりなくなり小生は行かなくなったが友人のHは根気よく通い,測量のアシスタントや枝落としなどをやったと聞いた。
おじさん連中と結構話が合うらしく,Hは4年の卒業まで3年間山で働いていた。


 さすがに雪の積もる12月〜3月は仕事がなく,年末は親父さんの口利きで年賀状の配達をやっていた。


 小生は高校の2,3年と山で働いたが,4年生の時は担任の先生に頼み込み,先生の知り合いの楽器店で1年間働く事になる。




(次回「せつない元旦マラソン」につづく)