土人と呼ばれて(不適切発言許して)

 
小生の誕生は昭和23年の5月、農家じゃ田植えの真っ最中。

もちろん自分では覚えている訳はない。
あの第2次世界大戦が終わってまだ3年目だから大変な時に生まれてしまったものである。


なにもそんなときにと思ってもこりゃ親のせいだからなんともしようがない。それだけに親は大変な思いをして小生を育ててくれたものと感謝をしなければならない。


6人兄弟の4番目に3男として生まれた。
一番上が姉で,兄が2人。

前輪が壊れて棒をさしてあるんだ。
よく見ると、3輪車の前輪がないでしょ。



小生のすぐ下が妹,最後が弟であったが,小生が小学2年の春に妹が亡くなってしまった。

彼女が翌年小学校に入学するという年であった。小生と一緒に風邪を引いてしまったのだが,学校があった小生のほうに気を使っていて彼女のほうの病気の悪化に対応が遅れてしまったのだと聞いている。


風邪から肺炎を併発してしまったらしい。ほんとうにかわいそうなことをしてしまったと思っている。
母は彼女の柩の中に,彼女が生前何度も欲しがっていた「赤い色の雨靴」を買って入れてやった。

 
ただ1枚残っている妹とのツーショット →



その頃の家は貧しい家庭だった。
周りの家より全然小さい家で,父も建築の仕事を初めてまもなくの頃だったから,欲しいものなんかあってもあんまり買ってもらえなかった。

それでも母は,何度かに一度は家計の中からやりくりして買ってくれたのを覚えている。
 
近所の友達は学校から帰って遊んでるとき,おやつにパンを買ってもらえる。でもわが家はパンはなかなか買ってもらえず,自分で握ったにぎり飯に味噌をつけて食べたものだ

。みそ汁にいれる「焼ふ」を縁側に吊るしてあって,それもよく食べた。
 
味もあまりついてないものだけど,すこし焦げたところがおいしく今でもその味は忘れない。毎日の食事のおかずなども,その当時の農家であるから野菜がほとんどである。


スーパーなんて物はない。毎日午前中に魚の行商人が自転車に積んで売りに来た。平べったい箱に数種類の魚を氷と一緒に入れて積んでくるのであった。だから魚と野菜がおかずである。
今思うと野菜だけは新鮮なものを食べていたわけだ。そのかわりといってはなんだが肉は滅多に食べたことがない。


何かお祝い事とか村の祭とか正月などには,家で飼っている鶏を1羽犠牲にして食べるのが昔からの慣習である。普段食べられないものだから本当にうまいと思って食べた。


骨をお湯で煮て,そこについているわずかな肉をしゃぶるのである。1羽分といっても大きな鍋で,ごぼうやらもやしやら野菜をどっさり入れて煮るのだから食べるときは皿に何個も入ってこない。


それでも鳥のだしが出てて,本当にうまい。いまでも田舎に帰った時には作ってくれるのだが本当にうまいよ。


それと話は違うけれど,小生は好き嫌いが非常に多かった。

みそ汁も中の具に食べれないものが多くて汁だけのむ事が多かった。ねぎ,タマネギ,にんじん,ごぼう,ピーマン,なす,やまいも,さといもなど全部食べれなかったのである。

食べれる物はじゃがいも,さつまいも,かぼちゃ,豆,大根など。農家のくせに野菜が食べられないのだからどうしようもない。食生活のスタイルが野菜中心なのだからほとんど食べれないような状態だった。


そんなもんだから体も痩せてガリガリだった。

小学校に入る当時体重が15kgしかなかったのである。今じゃ3歳ぐらいでもそのくらいはある。

クラスでも前から5番以内で,年1回クラスで撮る写真でも際立って目立った。


小さくて。

毎月1回はくるクラスの体重測定は本当に憂鬱な時間だった。
その頃(小学校)のあだ名(ニックネームなどという可愛い呼び名じゃない)が,「がいこつ!」とか「土人」!色も異様に黒かった。今では不適切用語になっているが,その頃は無邪気な子供たちが平気で「土人」などという言葉を使っていたのである。
 
ああおそろしや。
 

小学校5年のときに家庭科の授業にカレーを作る事になった。それまで小生カレーを食べた事がなかった。
いくら田舎と言っても世間一般では食べていたのだけれど,食わず嫌いという奴で食べれなかったのである。
でも皆んなが食べるので勇気をだして食べたのだ。


以外においしく食べれた。大根おろしもその頃になって食べれるようになった。


朝食のおかずはいつも生たまご。


ごはんに生たまごをかけて食べるだけ。他に食べれるものなし。鶏がたまごを生まないときは,ごはんの前に近所に買いに行かされた(自分が食べるのだからしょうがない)。

小生の同級生の家にも行ったし,1クラス下の女の子の家にも買いに行ったことがある。
 
ちょっと恥ずかしい。学校給食なんて物はなく弁当を持って行くのだが,おかずは「卵焼き」だけと言うのが,多かった。

1品しか詰めれないのではなくて,それぐらいしか食べれるものがなかった(弁当のおかずとして詰めれるもので)のである。


なんとも恥ずかしい話である。


町の食堂で,ラーメンを食べたのは中学3年の頃だ。クラスメイトが怪我で入院し,友達と一緒にお見舞いに行ったときお昼になにか出前を取ろうという事になって,みんなの決定に従った。結構おいしいと思った。


住んでいる村(正確にいうと村の中の部落だが)から一番近い町が村上市という所で,約8km離れていた。

村上市に行くといろんな店があり,本屋もレコード屋もあった。
 
映画館も3つあって,東映系,日活系と松竹系が見れた。 映画もそこまで見に行くなんてのはそんなになく,部落の作業場(秋の取り入れのとき部落の農家が共同で使う作業場)で年に数回出張で映画を見せに来る。1ヶ月くらい前から電柱という電柱にビラを張って行く。


その頃はまだ電柱のはり紙が禁止されていなかった。電柱は貴重な広告媒体であったのである。


当日,夜になると部落中の農民が作業場に集まり,町の映画館で半年から一年くらい前に上映した映画をやるのである。
 
当時映画館で見る場合、子供が150円位だったと思うが,作業場では50円だったと記憶している。


子供の頃なのでもちろん行かなかったが,ストリップの興行もたまにあった。部落の血気盛んな若者たちはこぞって村上まで行ったようだ。


なにしろ8kmはなれた村上市とはあらゆる分野の文化で格段差があった。


そんな世界で育った小生。


幸せだったというべきかそれとも不幸だったというべきか...。



(次回「謎のパンツライダー」につづく)