PC98での大活躍

一太郎でマニュアル作成の仕事が入った来ました。英文のマニュアルでシリーズ(10数冊)総頁2000という大きな物件です。
今ではあんまりすごいとも思わない物量ですが、当時はワープロで2000ページは大変なものでした。文字入力からで、「一太郎」の当時最新バージョン4.0で作成することになりました。


「一太郎」というワープロソフトは、日本のワープロの代表的なものでした。3.1バージョンが多く出回っており、マニュアルなどを作る時に機能もついていました。連続印刷などはその例で、ファイルを複数設定して連続で印刷をしてくれるのです。設定の仕方次第でマニュアル1冊分くらい平気で出力できてとても便利でした。(今のバージョンにあるかどうか不明ですが)
反面、「なんでできないの?」というような点もありました。文字の装飾などは駄目でした。袋文字とか斜体とか・・・。余談ですが、その頃自分がもっていた「ピーワン(P1)」というワープロは文字装飾は充実してました。一太郎の場合は、ページ物の作成を考えたワープロなのかもしれません。
作成する4.0バージョンは発売されたばかりで、「斜体」ができるといって、随所に「斜体」の指示があったのを覚えています。


社内の機械はPC98(NEC)が2台、当然のごとく在宅外注に頼らざるをえない状態でした。文字入力を依頼し、データを受け取って社内でレイアウトすることにしました。在宅のパワーもあまりなく、1日20から30枚くらいだったと思います。このバージョンをもっている在宅の方が二人くらいしかいなかったのです。
納期も客先から厳しく言われており、営業担当からも催促が頻繁にきました。
毎日夜10時ころまでやることが続きました。残業の時間数が多くなり、幸いなことにそのことが会社からいい評価をもらったと思います。遅くまで残業をやるということが、仕事が多く来ていて売り上げも上がるという評価だったのです。


もちろん休日出勤もしないと間に合いませんでした。1冊できあがったらすぐにお客さんのところへ校正にもっていくというような、自転車操業のような段取りで予定は未定!多分輸出の予定が決まっていたからでしょう。お客さんも必死のようでした。納期の交渉に営業担当も随分苦労しているようでした。もちろん、それ以上にこちらも必死です。
外注さんへの受け渡しで主任もあっちこっちと走り回りました。一太郎のそのバージョンをもっていて、入力をしてくれる人を紹介してもらったり、新しい機能のわからない点を教えに行ったり。


ある暑い日、OAセンタのメンバーが近辺の河原でバーベキュー大会をやったときも、夕方終わってから主任と二人で会社へ来て、夜遅くまでやりました。まだ酔いの抜けない状態でも、やらなきゃいけない責任感はすごいものがあったのです。(我ながら)
今にして思えば、電算写植からPC98に移ったいきさつと、頑張り屋の主任に引っ張ってもらったのかも知れません。主任には本当に感謝しています。
7月の第1土曜日、わが社の夏のボーナス日。午前中は役職者(主任以上)と営業部だけが出席する年に2回しか行われない「営業会議」です。
役職でない小生は、上からいわれて出席させてもらえたのです。

社内の有志が集まって記念撮影。
印刷・営業・OAのメンバーが集まりました。みんな若かったです。といっても、ボカシてたんじゃわかりませんね。スミマセン。

マニュアルの作業は夏休み頃まで続きました。1冊1冊と校正出し・戻っての修正と進み、やっとなんとか峠を越し、先が見えてきた頃。
8月の終わり頃だったと記憶しているのですが、ある日突然主任のほうから「一太郎の方は自分が見るから、HITCAPを覚えてくれないか。」と言われたのです。
「なんでだろう、マニュアルはまだ終了していないのに」と、疑問もあったのですが、日頃から「全部の機械を覚えるつもりで頑張ります」と言っていたので、それ以上は聞きませんでした。
PC98の大仕事はわずか2ヵ月ちょっとであっけないような幕切れとなったわけです。
ただ2ヶ月あまりのこの作業は小生のOAでの存在感を充分にアピールできたように思います。



でも、なぜ?
PC98の大仕事の途中で・・・(先が見えたとはいえ)


以下 次回



次回「運命のHITCAPとの出会い」に続く。