新しい年を迎えて

新しい年を迎えて数日たちました。
病棟から見える大山方面の景色は
小生の心にひとときの安らぎを
くれました。


相変わらずベッドの上での毎日点滴の注射をさす腕の部分が固くなって、うまく刺さらないこともしばしばです。
あらら、刺しなおし。おお、いてえ。
看護婦さんもうまい人、そうでない人いろいろです。
なかには「○○さんごめんね。あまり上手じゃなくて。」とあやまる若い看護婦さんもいます。でも、そんなときには「大丈夫だよ、何回でもいいよ」と、見栄をはることもありました。
おかげで右手も左手も注射をブチブチ刺されました。
それでも、特に症状は悪いこともなく、過ぎていきました。
ところが。

ある日突然のように、熱が上がりだしました。
午後からだったと思います。見る見るうちに40度近くまで上がってしまいました。
個室から大部屋に移ってまもなくのことでした。
熱があがると、体はだるくなるし、汗はかくし、とにかく心配でした。
看護婦さんが氷枕を2個準備してくれて、一個を脇の下に、一個を股にはさみました。解熱用の座薬もお尻に入れてもらいました。
汗をびっしょりかいて、パジャマは1日5,6着取替えなくてはなりませんでした。

翌朝になり、ようやく熱は下がりました。
しかし、昼が過ぎ、しばらくすると又、どんどん熱が上がっていくのです。
同じように、氷枕、座薬、着替えの毎日です。
熱が上がると、頭もボーッとなり、このまま寝て永遠に目がさめないんじゃないかと思うこともありました。
そんな繰り返しが1週間も続きました。


担当医師の診断によると、肋骨を折ったときに、折れた骨が肺を傷つけて、そこからウィルスが入り肺炎を起こしているということでした。


肺炎で死ぬ人は結構います。
大変なことになったものです。
いろいろ薬や注射で処置をしていただくのですが、だめなようです。
そこで、最後の手段というわけではないのですが、内視鏡を使って肺の炎症部分に直接薬を流し込む方法をとることになりました。
「ちょっときついけれど、頑張って」と、プレッシャーとも励ましともとれない言葉をかけられ緊張は高まりましたが、良くなるためには頑張らなくてはなりません。
悲痛な気持ちで治療台に乗りました。
詳しい手順など覚えておりませんが、内視鏡を口から差し込まれいろいろ調べられる間、とにかくとっても苦しかったのは覚えています。
息を吸い込もうとして「うーっ」と詰まるのです。
息を少しずつ吐いて、吸っていればいくらか楽なのですが、そのときは初めてでそんなことは全然知りません。
息が止まると何回も思いました。
やがて、その管を伝わって薬が肺に流し込まれた瞬間、またまた「うーっ」と息がつまりました。

ぐったりとなりましたが、なんとか終わったようです。
「もう二度とやりたくねえな、内視鏡だけは。」と思いました。

ところが、その内視鏡が功を通し、熱が収まったのです。
その日から2日、3日たっても熱は上がりません。
担当医師もほっとした様子で、「もう一度内視鏡をやれば完璧だな」と低い声で一言つぶやきました。
「えーっ、もう1回やるのかよ。勘弁してもらいてえ。」心で叫びました。
でも、それ以後熱がでることはなくなり、ひそかに心配していた内視鏡はやることはありませんでした。あの後、1回でも熱があがったら、絶対やっていたでしょう。
本当によかったと思っています。
あの内視鏡が入院中で一番苦しかった治療です。



やがて、ベッドから起きれる日がやってきました。
それに備えてコルセットも出来上がってきました。
腰をぎゅっと締め付けるもので、腰椎の骨折箇所を保護するものです。
今まで、恥ずかしい思いをして用を足してきたのですが、やっとこれで自分でトイレにいけると思うと嬉しくてたまりません。
ベッドから立ち、コルセットをつけて、よろよろとトイレまで歩きました。
昨日と全然違う世界に来たようでした。
トイレの中にはいり、1人で座ったあのときのお尻の感触はこれから先も忘れないでしょう。

この頃になり、いろんなものを食べてもいいことになり、早速カップラーメンを買ってきてもらい食べました。これも感激でした。
人生にはいくつかの忘れられない味があると思いますが、まさにこの時のラーメンの味もその一つです。

肺炎の回復が入院中の一番の山であったような感じで、それ以後は骨折箇所の回復、後遺症に関する検査、それと肝臓の機能回復が課題のようでした。
「肝臓の機能がよくなったら、点滴も終わるよ」と言われました。
朝起きて、1回目の点滴を30分くらいで、その後夕方までは何もなし、夕方2回目の点滴をやり、1日が終わります。
よくなるに比例して、退屈さは増していきます。

ちょうどその頃、地球上ではあの湾岸戦争が勃発しました。
部屋に有料のテレビがあり、皆んなテレビを見ていました。
有料ということはお金がいるのですが、誰が考えたのか知らないのですが「魔法の針金」というのがありました。

コインの挿入口に曲がった針金を差込み、うまく中のレバーに引っかかるとテレビのスイッチが入るのです。
100円で1時間だったのでしょうか、2時間だったのでしょうかわかりませんが、その技術を修得してお互い助け合っていたのです。
小生は前任者から、退院していくときに引継ぎ、同じ部屋の皆さんのために頑張りました。
やがて小生の退院の際は、次の方に引き継ぐことになるのです。


2月26日、約3ヶ月の入院生活にピリオドを打つことになりました。
心配してくださった周りの方や励ましてくれた方、そして家族に感謝の気持ちで一杯でした。

半月ほど自宅療養で過ごした後の3月16日、約4ヶ月ぶりに会社へ復帰することができたのです。





次回「栄光のHITCAP」に続く