栄光のHITCAP

職場の皆さんが復帰を祝って会を催してくださいました。
となりの女の子も小生の復帰を心から喜んでくれました。
いえいえ、ただの同僚です。ハイ。



休んでいる3ヶ月の間に、OAセンタでは少しずつ変化がありました。
HITCAPにKさんとNさんが加わり、先輩のTさんが退職することになりました。
先輩のTさんは、小生が入院中にも辞めたかったらしいのですが、小生の復帰まで待ってもらっていたのだそうです。
結果的に小生、Yさん、Kさん、NさんでHITCAPは新しくスタートすることになったのです。
4月、本社のビルがとなりに完成しました。
OAセンタは新ビルの4Fに増設され、旧ビルの3Fと二つに別れることになったのです。
部署としては一緒なのですが、これが後々微妙な意識を生むことにもなりました。


HITCAPは新ビルのOAセンタに移り、台数も3台増設、ファイルサーバ、プリンタサーバを構築したLANでハイテク化していきました。
プリンタサーバを使うと、プリンタに印刷データを送ると出力を待っていなくても次のデータを作業できるというので、当時としては優れたシステムでした。
会社見学に見えるお客様にも得意げに説明をしたものです。
またHITCAPを6台ももっている会社は、当時全国的にも少なかったと聞いています。
逆にいえば、CANONのEZPSなどと違って、いまいち売れてなかったのかも知れませんが。
でも、当社のお得意先からマニュアルの仕事をいただくには、おおいにポイントになり仕事はその後いっぱい入ってきました。
営業もこの編成をアピールして、技術のレベルアップとともににどんどん仕事をもらってきました。
このときから、伝説HITCAPの怒涛の4年間がスタートしたのです。


とにかく忙しいの一言でしか、いいようがありません。
部長の横の机の上に、HITCAP作業の原稿が積まれているのですが、その原稿がなくなることがないのです。1冊終わる前に1冊入稿、また入稿と納期の厳しい作業が続きました。HITCAPを備えている外注さんもないので、全部社内でこなさないといけない状態なのです。
残業は、ほんとに冗談でなく10時11時が当たり前になりました。
電車バス通勤の女の子を帰りよく駅まで送っていきました。
10時過ぎるとタクシーを使うことも許されていました。


受注先の会社は3月と9月が決算の締めになっていました。
その関係もあり、1月から3月、7月から9月と大きな山がありました。
そのほかにも、機種の発売などの関係でも大きな山があり、なんとかほっと一息つけるのが正月明けの2週間、6月前半くらいだったと思います。

HITCAPの作業をしているところです。

特に悔しかったのは、毎年9月にある社内旅行にそれから2年間参加できなかったことでしょうか。
これは毎月徴収されている会費で行くもので、社員は無料でいけるものなのです。
バスで一泊、現地のホテルに集合して一泊と2つのパターンがあり、ほぼ1年ずつ交互に行われました。
仕事の関係で、間に合わず旅行を欠席し、なおかつ休日出勤してHITCAPの作業という最悪の状態が2年連続して続いたのです。(注意:最悪というのはあくまで小生個人の問題で、会社にとってはうれしいことなのですが)
このページを会社のえらい方が読まないことを希望します。



次回「栄光のHITCAP<part2>続く。