
①隼人直英の具足・甲冑
左のメニューは「賀状昔ばなし」の記載年度の目次表です。
sub90_21.htmlの下線にマウスをクリックすると、令和4年の
昔ばなしの写真などの詳細説明があり理解可能となります。
賀状の記事の文字サイズが小さいとのご意見をきっかけに
この画面を追加しました。
「友山」「霊巌夜話」「先祖人」「3人の壁偉人」の予備知識を
前説2話のsub90_01とsub90_03にて述べます。

大道寺家先祖の説明書「霊巌夜話」
sub90_01
賀状令和目次
大道寺家先祖大道寺家先祖の説明の前に、
「霊巌夜話」 作者名の大道寺友山の概略説明です。
写真①は大道寺隼人直英の具足・甲冑です
1590年代に隼人直英が身に纏った甲冑である。
隼人直英は異父兄弟7人の長男だ。
豊臣秀吉による小田原北条攻めで敗戦責任で義父の大道寺政繫は
黒田如水の立会のもとで自害させられた。
隼人直英も、敗戦責任の1人であって高野山に配流させられたが
1年後に戻された 。
大道寺家の子孫は北条と姻戚関係の徳川家康の預りの身となった。
異父兄弟の母親は、遠山金四郎の6代先祖の遠山綱景の娘である。
初婚は舎人親王の末裔の舎人恒忠で、長男の隼人直英と二男大学が
生まれた。
しかし、第二次国府台の戦いで父の綱景や夫の恒忠など戦死した。
急遽、北条の家臣に懇願して大道寺政繫との再婚ができた。
5人の弟が生まれた。
3男は直繫 4男は直重 5男は弁譽上人 6男は直次 7男は直好である。
7男の直好は18歳で松井田城で戦死した。
令和7年の「賀状の昔ばなし」の主役は18歳で戦死した直好である。
彼の嫡男は3歳で嫁と伊賀の忍者の里へ移って、10代に渡って
「橘家」を起こした。
令和6年の賀状に一部を紹介した。
橘家系図は大道寺家系図のメニューを選択し検索します。
横に広い系図が2頁に亘っています。
印刷すると「A4」用紙が2枚になります。
下の頁で左側の位置に確かに確認できます。
スマホの時はタッチが多くて大変ですがパソコンをお勧めします。
話が変わって写真②は大道寺家の現在の墓所です。
青森県弘前市の貞昌寺にあり
左側の五輪塔は義父の政繫の墓で
右側の五輪塔は隼人直英の墓である。
五輪塔は院殿が戒名に付き城主の意味を示す。
埼玉県の川越城の初代城主の政繫と、2代目
藩主の隼人直英だ。
1980年代に川越城を見学した。
平城の屋敷に2個の木簡の名が
「大道寺政繫」「大道寺隼人直英」と並んであった。
小田原攻めから約283年を経ており五輪塔は
何度かの地震などで倒れ修理されたのだろうか?
特に左側の政繫の方は背丈は半分くらいに
縮小したと思われます。
とても貴重な墓群です。
高野山に配流された五輪塔などの映像を見ると
破損したような五輪塔は皆無で
新品に即,差替えられています。
監修者が、初めて政繫の五輪塔を見た時に
名前の赤字彫刻を辛うじて
読み解く事が出来ました。
50年以上前の事ですが劣化が凄くても
200年以上現存している五輪塔の偉大さと
末裔である喜びを感じながら祈願しております。
政繫の五輪塔は以下の3か所にあります。
青森県弘前市の貞昌寺
埼玉県川越市の常楽寺(川越城主)
群馬県安中市の補陀寺(松井田城主)
中央の墓は幕末以降の現代への代々墓です。
撮影したのは最近で父の27回忌と
母の7回忌の記念日でした。
2代目以降の墓は弘前市茂森新町の
耕春院宗徳寺に個々の墓が並んでいます。
大道寺家の系図には
年齢と埋葬寺も明記されています。
政繫の五輪塔から
小田原北条64城の
総大将の威厳を感じます。
北条と姻戚関係にあった徳川家康とは
鎌倉の関東菅嶺から
家康と政繫は共に
「関八州役人」に任命されていました。
豊臣秀吉はそんな家康の背景の
軍事力を恐れ政繫の子孫まで
抹殺は出来なかった。
徳川家康は、天下普請(てんかぶしん)で
各大名に指示して
尾張名古屋城の築城を計画した。
しかも大道寺家の異父兄弟を優先して
縄張役として採用した。
4男の直重(新四郎玄蕃)は完成後に
家老職5千石が与えられた。
尾張名古屋城を築城後には関ヶ原合戦や
大阪の冬の陣などを経た後、津軽藩主の
信枚公は築城技術をみて
弘前城の築城を5百石で
隼人直英に依頼した。
築城完成後は津軽藩家老2千石と
城代家老を与えられた。
政繫の曾孫の大道寺友山は隼人直英の
甲冑を製作した。
①の写真がそのものだ。
大道寺友山は文武両道に長けていた。
友山の「友」は右筆の「右」を
捩(もじ)ったと思われる。
「霊巌夜話」の古文書は
大道寺友山による著作であるが
徳川将軍3代の家康・秀忠・家光に
亘っての事績について
64話の質問形式で
書籍にまとめ挙げた。
友山は甲州流軍学者の
門弟人でありながら
頭脳的な軍師だった。
当時2刀流で有名な宮本武蔵が
「五輪の書」を書き上げたという
熊本県の霊巌洞窟に准(なぞら)えて
「霊巌夜話」と名付けた。
当初は「落穂集」などの
別名で記していた。
現在でも「落穂集」の知名度が高い
徳川将軍3代の個々の事績集なので
落穂拾い的な要素な構成はやむを得ない
現代のスマホやパソコンのHPで分かり易い
古文書を広めたい一心である
歴史は立派な文化である。
②大道寺家の墓所
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