
第44話 島原切支丹成敗の事
1、問 備前国島原切支丹は、初めはさほどの事では無かったが、次第に重要になって
きたと聞いている。
その節、島原守護職方の油断で、不調法の様に申されているのを、如何聞か
れているか。
1、答 島原というのも、程久しい事で、筆者が生前の事なので、知り様も無い。
如何様そなたが申す通り「二葉で爪を切る事をしないならば、斧を用いる」
に至るのだろうかという事も有れば、未だ事が微小である内に、押寄せて
つぶせば早速、事が静まる様になるであろうか。
その時、島原の城主と申すのは、松倉長門守殿であったが、江戸年の事で
留守の内の事であった。
長門守殿に仕えている者に、谷岡次左衛門・松田半太夫・木村弥平次と申した
人々とは、筆者が若年の頃心安く出合っていたので、いつも雑談を聞いていた。
その際、地下の切支丹達が、突然暴動を起したというのは、至って火急な事
であった。
逆徒達が、申し合せて島原の城を乗取って籠城したという噂の通り、寄って
来て、斧・鉞で門前の扉を打ち破ったという様であったが、城中から激しく
防いだので、暴動も早速退散した。
その時、城中で、地下の切支丹達を果したいと、何れも集って相談したけれど、
その時は、肥前の国中が、ほとんど切支丹の様だと噂しているので、城中に
居る下々の奉公人達の中で、切支丹一味の者達が、どのくらい居るか計り
知れない。
もしも、その様な者達が、城外の暴動共に内応して、夜中に火事を出し、
如何様な悪事を企てるのかと気遣い、侍分の者達は、油断無く昼夜の巡回を
して城を堅く守ったが、分別に計りに掛かり、城を離れて外へ大勢が出る
事では無い。
そこで、留守居達の油断ばかりとも言っていられ無いので、その折、鍋島殿
の家老に、鍋島安芸と申す者が大勢連れて、領分の境界迄繰り出したけれど
私には、他領へ押入る事が出来ないので、目付衆へ、使者を以って伺ったら、
目付衆が申されるには
「指図をする程ならば、自分も、向かわなければならない。
しかし、この様な時に、警備のためというが、本役の勤めを欠くという事は
仕方がない。」との事で、はっきりしなかった。
その後、長崎政所へ伺ったが、この様な時は、此の方の守りが一層大切との
事で是もはっきりしないので、夫から京都所司代へ達する事になり、江戸表
へ、お伺う事になる。
数日を経る内に、有馬原の城の要害を構え、切支丹達も多く集まり、籠城の
給物を、思うように支度をしたので、難しくなった。
その時板倉周防守殿から、日時指定の飛脚で江戸表へ言上したので、老中方
何れも迎合して、朝五ツ時に登城した。
七ツ時に下った時、下乗橋で、土井大炊頭殿が、松平伊豆守殿へ申すには
「各位は、定めて明朝も早く登城する様に。自分は、明朝宿元へ達しなければ
ならない御用向があるので、少し遅刻する事がある。
先程も話した通り、奉書の事も申付かり、判形を調へて、自分が上り次第
判形をして、早々、奉書を渡すようにしたい。」との事で帰宅した。
翌朝、大炊頭殿が登城したら、残っていた老中方は、先達って登城された
伊豆守殿が申すには
「昨晩申された通り、奉書が出来たので、何れも判形をする迄。」
と差出されば、大炊頭殿が披見して、何ともいえぬ思案顔に見えたので、
伊豆守殿が申すには
「何かそなたの思いも有れば、お聞きしたい。奉書の事を調へ直させ申す。」
と言えば、大炊頭殿が申すには
「文書などの事は、残る処も無く、各位の判形で済む上の事であるが、この
様な時の奉書は、諸大名方の手で、今後も残るという事があるが、暴動を
起こすというのは、少し御仕置にも障る心持もあり、只今、有体に切支丹
の暴動が起きると有っては、如何であろうか。」
と申せば、伊豆守殿を初め、その他の老中方も
「まことにそなたの仰せの通りである。その事については、何れも、忠告申
さない。」と言って、御書を直したのである。
(注釈)
島原 長崎県南東部の市。 島原半島の東岸有明海に面する。
もと松平氏七万石の城下町。
島原の乱 1637〜1638年(寛永14〜15年)、天草及び島原に
起った百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞を
首領とし、その徒二万数千人が原城址に拠り、幕府の上使
として派遣された、板倉重政(昌)はこれを攻めて戦死。
ついで老中松平信綱が、九州諸大名を指揮して、城を攻略。
益田四郎時貞 寛永十四年十月、湯島の談合で、天草四郎時貞に命名。
寛永15年2月28日、細川藩士・陣佐左衛門に切られる。
1621〜1638年(元和7〜寛永15年)。
二葉 物事の初め。
肥前の国 一部は今の佐賀県。 一部は今の長崎県。
板倉重政 板倉重宗周防守の弟。 1588〜1638年。
鍋島 藤原秀郷七世の孫秀清に初まる。
政所 政務・庶務をつかさどる所。
京都所司代 京都に在勤朝廷・公家に関する事をつかさどる所。
奉書 上意を奉じて、侍臣・右筆らが下す、命令の文書。
御仕置 幕府・諸藩の下す刑罰。
1、問 その時、江戸に居る九州衆へ、早速、お暇を下されと伝わっている。
如何聞かれているか。
1、答 筆者が聞いているのは、奉書を調へた四ツ時頃、九州大名衆は、何れも御前へ
呼ばれ、島原表の事を仰せ渡し、各自支度を調へ次第、出発する様にとの事で
お暇を下さった。
その時迄は、諸大名方に、勝手をすっかり使い果したというのも、少なくない
ので、早々に支度を調へて、各自、取りあえず発足されたい。
中でも用意が出来ない二人も居て、殊の外迷惑し、世間でも、その時あれ
これと噂をした。今後共に、遠国大名方の家では、心得る事である。
大名衆へお暇を仰出られ、同日、在国の九州衆の家来達を呼んで、例の奉書
をお渡した。
(注釈)
勝手 生計・家計。都合・便利。台所。くりや。
1、問 切支丹の成敗を仰出られた時でもあろうか、酒井讃岐守殿宅で堀田加賀守殿と
内藤帯刀殿が、何事か口論に及んで、最早、事件になりそうな時、讃岐守殿が
仲裁に入ったので事が済んだと、世間で噂をしているのを如何聞かれているか。
1、答 その事を筆者が聞いているのは、島原表へ遣わした板倉内膳守を初め、その他
目付中から毎回事件を、急いで報告の趣を、寄せ手方諸大名の家中で、負傷・
討死の者が多く、落着がはかどらないとの事で、或る日、公方様は讃岐守殿を
呼んで
「島原表の事を、内藤帯刀は如何知っているか。
古者であれば、その方が対談して、聞いてみる様に。」
との上意で、讃岐守殿は、御城から帯刀殿へ手紙で
「少々聞きたい事があるので、七ツ時から来られて、宵の内にお話をしたい。」
と書いてやった。その時、加賀守殿も呼び
「今晩、讃岐守方へ帯刀が参ったら、その方は行き掛りのようにして来て、
帯刀が、物語るのを聞く様に。」
との上意で、加賀守殿も来られ夜に入った後迄、雑談していたが、何事で
あったか、加賀守殿が申す事を、帯刀殿が聞かれ
「そなたのような若い衆中が、承知する事ではない。」
と申したので、加賀守殿が申すには
「そなたは、若者を取り立てて言うことでは無い様に申すが、大坂の陣の時は、
そなたより、かなり若い年であった。」
と言ってから、互いに、あれこれと言い合ってたら、帯刀殿は
「千も万も、聞き耳持たない。」
といって、早くも脇差しの柄に手を掛け、加賀守殿の側へ寄って申されたので、
加賀守殿も、脇差しの柄に手を掛け申された時、讃岐守殿は帯刀殿を押え付け
ながら、加賀守殿の方へ振り返り
「そなたは、御上の御厚恩を忘却したのか。」
と激しく申せば、加賀守殿は聞くや否や
「誠にその通りです。」と両手を付かれて
「さて々、御老人に対し不調法な事を申し近頃迷惑している堪忍して下さい。」
と言えば、帯刀殿も
「そなたが、その様に申される上は、自分も言い分が無い。」との事で済んだ。
その後、讃岐守殿が、小姓を呼んで、酒肴を取り寄せ
「今迄、及ばない事であったが、主人の身となり、安心するためにも互いに
盃を取交わしたい。」と申せば、加賀守殿が申すには、
「讃岐守殿の御指図ではあるが、その様には出来ない。
帯刀殿は、御老体の上、自分の不調法を言ったのであれば、帯刀殿の盃を
いただけと言うが、帯刀殿も、その様には出来ない。」
と申せば、加賀守殿が聞かれ
「勘当を掛けて迄も、盃を取交す事はしない。」と申されたが、讃岐守殿は
かれこれと挨拶して、帯刀殿の盃を、加賀守殿が呑まれて、事が済んだ。
両人が帰宅した後、讃岐守殿は、用人を呼ばれて
「今夜の客衆一座の次第は、今後演説をしないと、勝手に居合わせた侍二人
達へ、残らず連判の誓文を、させるように。」と申し付けた。
しかしその時、お座敷で争いが有ったが、侍達で無く、下々の者迄も次の
間辺りに来ていたので、その当座から、讃岐守殿の家中は、言う迄もなく
江戸中の噂となり、帯刀殿は、夫程の年寄と言うのでも無いが、老いぼれ
られたか、加賀守殿に対し、その様な振る舞いに及んだというのは、言語
道断である。
島原表の事は、鎮まっているのは良い機会であり、岩城を召し寄せて遠国
へ、所替仰付けたのは明白であると、頻りに噂した。
翌年正月二十四日、増上寺へ仏参に御成りの時、その朝に限って特に余寒が
厳しく、帯刀殿も供奉のために、出勤したのを御輿の中からご覧なり、帯刀
であると言う上意が有ったけれど、程遠く聞きつける事も無いので、お側
より「帯刀を呼ぶように」と伝えたので、参上すれば、御輿近くに呼び
「今朝は、特別に寒さも厳しいのに、余計な事をして参った。早々に帰って
休息するように。」と言う上意で、重ねてお供中を帰され
「只今、上意なされた通り、早々帰って休息するように」と再び上意の趣
を、同列の衆中へも申し、帯刀殿は帰宅した。
この事は、世間にも聞こえたので、夫から岩城の所替の噂も止んだ。
(注釈)
酒井讃岐守忠清 江戸前期の上野廐橋(前橋)城主。 1624〜1681年。
堀田加賀守正盛 家光公と殉死。 1609〜1651年。
内藤帯刀忠興 磐城平藩の第二代藩主。 1592〜1674年。
寄せ手 攻め寄せて来る軍勢。
小姓 主君の側近に仕えて雑用をつかさどる武士。
1、問 切支丹御成敗の時、九州衆だけ仰付けられたとの事であるが、中国衆の中でも
彼の地へ行った方もあり、その上、遠く方角の違う越前福井の家中でも、専ら
支度して大勢で騒いでいるとの噂を聞いているが、如何聞かれているか。
1、答 筆者が聞いているのは、四国・中国衆の家中でも、万が一、島原表の事が決着
しない場合は、追々仰付けられる事も有るので、九州に最寄の四国・中国衆
の中では、その心掛けをしていた衆中もいた。
中国衆の中で、備後の福山の城主水野美作守殿一人だけは、仰付けられ、彼の
地へ遣わされた。
その子細は、老父日向守勝成と申した人は、関ヶ原・大阪両度の陣にも立たれ
武功の人である。
その頃は隠居して、水野宗休と言い、随分達者で居たけれど、島原表の御用を
仰付けられる事も無いので、子息・美作守殿を遣わしたいと仰出られたので、
老父宗休も一緒に参り、松平伊豆守殿・戸田左門殿とも頻繁に会っていた。
次に、越前福井の城下で、陣の支度をしたというのも、その子細が有った。
島原表は、決着しないという噂の時、松平伊豆守殿が申されるには
「今度、島原表の切支丹の御成敗は、未だ、決着しないと聞いている。
この様に長引くというのは、後の代迄も、噂されるのも如何であろうか。
私へ、仰付け下されるならば、早速、急いで行き鎮めたい。」
と申上げれば、その事が君主の耳に入りて
「その趣は、御満悦されたけれど、既に出陣をされたという様な時になって、
御名代として差越すというのは、格別、切支丹連れの御成敗という、その方を
遣わす家柄には、思わない。」と仰出られた。
しかし、お願いを申上げる以前、ご家中の長である侍達へは、内意を申し渡し
たので、人々はその支度をした。
(注釈)
水野美作守 備前福山城主。
水野日向守勝成 隠居して水野宗休と称す。
1、問 島原表は、決着出来ないので、先達って板倉内膳守殿を遣わしたが、猶更老人
方の中で一人を差越し、それ迄に事が鎮まらないのであれば、九州最寄の四国
中国衆も遣わさなければならなく、その様な思いに至っては、御名代の重要な
衆中を一人仰付けるのであれば、家柄と言い、身体の格好と言い、保科肥後守
殿より他に無い、と江戸の諸人が差し迫ったような噂をしていたら、噂の様に
老中方からは、松平伊豆守殿の譜代衆の中から、戸田左門殿を、仰付けられた
ので再度「肥後守殿で有るべきである。」と諸人が申されたが、急にお暇を遣
わされ、羽州最上へ帰城仰付けられた事を、その頃、諸人が不審を立てると
言った事を、如何聞かれているか。
1、答 筆者が聞いているのは、その頃、下々で噂をしているのは
「今度、島原の城に閉じ籠もっている切支丹達の誅伐として、九州大名衆も
黒田・細川・鍋島の三家を初め、その他何れも出征され、殊更、江戸よりは
遥かに遠国でもあれば、御名代として、連枝方の内一人を遣わす事であるが
責めては、老中方の内一人は行かれる事である。」と申された。
その様に、内膳守殿で決着がつかないので、再度、老中方の内一人を仰付け
たと言う時、阿部豊後守殿に決まった様に申されたので、豊後守殿の家中の
者がその心支度をした。
よって豊後守殿の心底にも、その様であったのだろうか、伊豆守殿から島原
表の御用を仰付けられた日の夕方、御城下りの時、家老達が豊後守殿の前で
「今日は、伊豆守殿から、島原表の御用を仰付けられたのであろう。」
と申せば、豊後守殿が聞かれて
「伊豆守殿には、武家の名利に適い一段の事である。
夫について、自分の家中の者達は、この豊後守の様な、役に立た無いのもその
通りで、主にすると思う者は格別平穏な代であれば、今度程出来る事では無い。
島原表の様子を見たいと思う者は、望み次第、暇を遣わし、例へ譜代の家柄
の者であっても、少しも遠慮無く願い出る旨申渡す様に。」と申した。
そして又、保科肥後守殿も、今後もしも、御名代が御入用とあれば、差し迫
った様に、世間で専ら噂が数日なので、江戸屋敷はいう迄もなく、最上で
も家中一同に支度を調へ待っていたが、或る日の夕方に
「明け四つ御用があるので、登城する様に。」との奉書で、
さては世間の噂の通り、島原表に御用を仰付けられたので有る、と何れも推量
して下がっていたら、最上へ帰城の御暇を仰渡されたので
「定めて、肥後守殿は心外の思惑であったのか。」
と家中の積りとは大いに違い、出来るだけ機嫌良く、早々支度を調へて帰城
した。
この事は、權現様の御在世の時、台徳院様へ仰しやるには
「奥州辺りで何事か有る時は、上方筋への心遣いを専一にされ、又、西国筋に
何かの事が起った時は、奥州辺りを肝要に心遣いをされる様に。」
との上意された事が有るので、最上の城地は古来から、奥州押への場所でも
有り、懇意の上意で、御暇を下されたので、特に有難く思った。
その時、最上へ帰城という家老達へ、肥後守殿が雑談申されたのは
「今度、島原表の切支丹の暴動は、最初に、至って軽い事であった。
その時、押し掛けて、尽く追い散らし決着したのは、何事も無事に
鎮まったのを、兎や角と手遅れにして置いた内に、古城の要害を構へ
同じ仲間も集まったので、事が難しくなったとの事である。
夫というのも、つまり、九州の内でしっかりした、譜代大名がいなかった
からである。
事が微小な内に決着し万一軽率な致し方をすると、上からお咎めが有れば、
夫迄の事で仕方が無い。
領地を取上げられ、身上を潰されるという、覚悟を決めなければ、思い掛け
ない御奉公は出来ない。」と申された。
ところで、羽州内の白岩という所の百姓達が徒党して、代官衆に反抗して
手代達を打ち殺すという企てが露見したけれど、人数が多いので代官衆の
手に及ばないので、最上に行き、その趣を申したので、肥後守殿が聞かれ
保科民部という家老に委細言い含めたので、民部が白岩へ行き、例の百姓達
を集め、吟味を遂げたら、先達って代官衆から達せられた趣が相違無く、
百姓達の不届きが極まったので、民部が百姓達へ言うには
「その方達が言うのはいちいち、最もである。
しかし、公儀の代官衆を相手にしての事であれば、江戸表からのご裁許の程も
如何であるかも計り知れない。
幸いこの時、肥後守殿の帰城の事であれば、連判の者達だけ申し合せて、出来
るだけ隠便な態で最上へ行き、目立たない様に、二・三人ずつ別れて旅泊し、
その内に、人数も残らず揃ったので、連判の目安を認め、肥後守殿へ直訴する
事である。必ず我等の内意という事については、処分しない」
との申し合せで、悪党達は大いに喜び、民部が帰った後、三〜五人ずつで最上
へ行き、民部が言う通り二・三人ずつ宿を取っている内に、人数も残らず揃っ
たと言う事を知ったので、各宿へ押し入って、残らず召し捕ったと言う事を
上申した。肥後守殿が聞かれ
「その百姓達を、残らず河原へ引出して、磔にする様に。」
と言ったので、家老並びに奉行役の者達が出て
「その者達は重罪であるが、すべて領所の百姓達なので、当分は牢屋に入れ
て置き、一応江戸表へ伺った上でお仕置をお仰付ける。」
と申したけれど、肥後守殿が聞かれて
「その様に、遅らせて置くには及ばないので、早々仕置に申し付ける様に。」
と申されたので、その翌朝になって、広河原という所で三十六人の者達を
残らず磔に言い付けた上、白石の仕置をも、指図されて事が済んだ後、
江戸表へ言上した。その後、江戸で諸人の噂では
「今度最上では、肥後守殿が、磔に申し付けた罪人達も、元来は、蔵入り
の百姓達なので、一応江戸表へ伺った上で、仕置に申し付けた事を三十六人
余の罪人を、自分が仕置をしたのは良くない、当分のお咎めは無いが、参勤
された上で、如何仰出があるのか知れない。」と言い触らした。
「肥後守殿が参勤されたら、例年の通り、上使になり下がり、その日の夕方
内田信濃守殿を上使として、今後公儀の政務でも思った事があれば、遠慮無く
申上げる様に。」
と仰せられたので、その事で噂され、磔の事件も評判に無らなかった。
(注釈)
保科肥後守正之 江戸前期の大名。 会津藩の藩祖。 徳川秀忠の庶子。
保科氏の養子。 1611〜1672年。
羽州最上 出羽国の別称。 山形最上郡。
誅伐 罪ある者を攻め討つこと。
名利 名誉と利得。
四つ時 今の午前十時頃。
手代 雑務をつかさどった小吏。
裁許 裁決して許可する事。
連判 二人以上の者が文書に署名や印判を連ねること。
目安 見やすくするために、箇条書きにした文書。
蔵入り 年貢米の納入。
上使 江戸幕府から諸大名などに上意を伝えるために派遣した使者。
1、問 島原表が決着したので、何れも江戸へ帰られた時、石谷十蔵殿は御城へ呼ばれ
老中方の列席で、お叱りの上意があり、「暫く閉居する様に。」
との事を如何聞かれているか。
1、答 筆者が聞いているのは、そなたが申す通り御城へ呼ばれ
「島原表で元日に城攻めの事でお叱りの上、閉居する様に。」
と仰渡された時、十蔵殿は老中方へ向われ
「先達って上意の趣き恐れ入り奉ります。是は、各位へ申し上げる板倉内膳
正殿が、武運に適って深手を受け、その場で果てた。
私は傷が浅かったので、存命でも江戸へ下り、この様な上意を受けた。
偏に、武士の名利に尽き果てたのは、是非も無いと思う。」と述べ退出した。
その顔色に、老中方は何れも安心したのか、堀田加賀守殿が座を立たれて
目付衆へ「十蔵を呼ぶ様に。」
と申したので、中の口まで追掛けて、その旨を申せば
「自分は、お咎めを受け退出した身で、加賀守殿へお目に掛かる事は無い、
無用である。」と言い捨て退出したのを、同役中が追って来て
「例へ、お咎めを受けたにしても、加賀守殿が呼んだのを行かないという
のは、そなたに似合わない、我等へ呼び戻すように言った上、強いて退出
されては、自分も申し訳ない。」と同役中が申されたので、十蔵殿は渋々
戻ったら、加賀守殿は側近くに呼ばれて、何事か暫く話をすれば、十蔵殿は
両手をついて謹んで聞かれた。
夫から退出した時は、以前の通りの顔色で無く、同役方への挨拶も穏便に
して、退出した。
(注釈)
中の口 玄関と台所口との間にある入口。