霊厳夜話
 
 

第45話 慶長五年以後天下統一の事
  1、問 そなたは、1600年(慶長5年)関ヶ原以後、百三十年に及んだ兵乱という
         事は無く、続いた平穏な御代(みよ)というけれど、去る、慶長19年から元和元年
         (1614年〜1615年)迄、夏・冬両度に及んだ大坂の陣と言う両御所
         様も御出陣され、日本国中の諸大名方も出陣され、城方はいう迄もなく、
         寄合((注釈))衆の方も夏・冬両度に掛けては、戦死者も多かった事でもあれば、天下の
         騒動と言うに及んだのを、兵乱で無いとは言わなかった。
         この事は、心得難い事である。
  1、答 そなたが申す事も、一応は知られているけれど、その様な道理では無い。
         子細を申すと、例へどれほど無病・息災で長寿を保った者もその身一生の間に
         一度や二度は大病をしない事でも無い。
         しかしながら、(それ)は長生きの傷には無らない。
         どれほど平穏な御代(みよ)と有っても、天下の国論に於いて、不意の騒動と言う事は
         無くならないし、その騒動を指して兵乱とは言わない。
         去る、大坂両度の陣は、反逆の諸侯御誅伐(ちゅうばつ)の絡み合いとも言う。
         子細は、大坂夏陣の兵乱の時、秀頼((注釈))公は幼年であったが、淀殿((注釈))は、逆徒方
         一味というのは(まぎれ)もない。
      そういう事で、反逆の(やから)の追討の時、秀頼公も身上を果され、どなたでも
         五十三万石(ばか)り下され、平大名になっても、そのまゝであったが、五十万石余
         の国持になった。父親の秀吉公の居られた大坂の城は、そのまゝにして置いて
         大臣職に仰付けの上、孫婿にされたとの事は、秀頼公の身にすれば、一族従類((注釈))
         幸せという者である。
         それでどうかというと、秀頼公の父親秀吉公は、尾張国中村という所の土民
         の子であったが、織田信長公の仲間として身上を士官し、その身が利発で
         あったので、信長公の心に(かな)い間もなく立身され、丹波助太郎・大鏡藤八
         ・岩巻市若という三人の仲間頭達の同役となった。
         夫から次々と信長公に取り上げられて、羽柴筑前守に任命され、播州姫路
         の城主迄なった矢先き、明智日向守((注釈))が逆心して、信長公が不慮に果てられ
         た時、秀吉公は備中の陣場から、直ちに駆けて登都、山崎表で一戦を遂げ
         逆臣の明智を討果たした。
         その後、柴田勝家((注釈))滝川一益((注釈))と合議し、一度は信長公の跡の相続を掛わり
         合いしたけれど、心の奥底では、自立の望みを含んでおられたので、左右
         に事を寄せて、主の子の織田三七信孝((注釈))へも腹を切らせ、織田信雄((注釈))卿も既に
         打果さなければならないという事を、父親の信長公と、御入魂があったので
         權現様が、尾州小牧表へ御自身が出馬して信雄卿を救われたので、信雄卿
         追討は、秀吉公の心に任せ難く、一度は和睦を調へて置いた。
         1590年(天正18年)、北条家を攻め滅ぼし、その後、信雄卿の事も
         身上を果し流罪を申し付け、その跡の領地を、我が甥の近江中納言秀次((注釈))
         与え、信長の嫡孫中納言秀信へも、次々と岐阜の城地を十万石与え、、自分
         (いみな)の字を授けて、秀信と名乗らせる様な事をしたというのは、すべて、
         世間の人が知っている。
         權現様の事は、元来、清和源氏の家筋と言い、その上、参州・遠州・駿州・
         甲州・信州と合せて五ヶ国の守護でおられた。
      秀吉公と再び御入魂の時、浜松中納言((注釈))殿、又駿河大納言((注釈))殿が、江戸内府((注釈))公と
      申された。

      秀吉公は、公卿仲間の御出合という迄の事で、臣下((注釈))幕下((注釈))という訳では無か
         った。
         しかし、秀吉公の厚恩に、御預かりになったという事でも無かったけれど、
      秀頼公の事を、如何様な配慮になされても、そのまゝである。
         そこに、父親秀吉公と、心安かった家柄の程を、思召され、結構な扱いに
         なったのを、(それ)(かたじけ)ないという勘弁もなくいわれない不足を言い、(あまつさ)
      御当家に対し、敵対の逆意と言うのは、言語に絶する((注釈))無分別という者である
      右にも申した通り、父親秀吉公が、信長公の厚恩に、預かったというのは
      勝手か添え難い((注釈))事であったが、その厚恩をも忘却し、信長公の子孫さえ情け

      無く当った(あかし)もあったが、その様な思召しもなく、秀頼公にも若気の無分別
      を申されても、家老の大野修理を初め・木村・服部が仲間心を合せ、面と向
         かって忠告し、制止させる様な物の道理を(わきま)えた、家来達が無いので、結局
         上下共に競り合い、秀頼公の無分別を増長させ、惜しい身上を滅亡させると
         いうのは、残念であるが、仕方が無い次第である。
      その時、大坂城中へ閉じ籠もった浪人達の中でも、毛利豊前守・長曽我部・
         宮内少輔・真田左衛門尉は、去る関ヶ原の乱の時も逆徒方として敵対の者
      達で、種々謝罪を申上げたので、助命にして置いた者達が秀頼公へ味方し、
      その他浪人達が多く集まり、既に志し籠城したと、板倉伊賀守殿から言上
      申上げたので、諸大名方へ出征する様にと仰付かった。
      両御所様も、冬・夏共に出陣され、大坂表の御仕置を仰付ける迄に、この様
         な事は、今後も無いとは限らない。
      子細は、今でも秀頼公の身上向きに替る事は無い、諸大名と言うのは多くいた。
         大名方の中で、無分別な人もいたか、又は乱心者もいて公儀を恐れなく、勝手
         気まゝ江戸参勤を止め、居城に引き籠もっていては、呼んでも上意に応じなく
         益々、気まゝに働くのでそのまゝになった。
         参議も無かったので、諸大名方へ仰付け城代を加へられ、脇役になる事が有る
         時には、その時の様子によっては、出陣しなければならないので、その時の
         入用のためという事でも有った。
         当時旗本では、武役も心掛けて置く方々の中にも、もしも怪我などした時は
         その後役を、早速仰付かった。
         公儀の武備では、方式の様に調へ何事であっても、申さないという程の事は
      無かった様に聞かれた。
      万一出陣という時は、旗本に先立って出征という奉公も励まなくてはならない
      諸大名方は、猶更(なおさら)その心掛けが専一である。
      もしも、御治世を頼みにして、武備の心掛けが薄い衆中がいて、早速の出征
      が出来ないとか、又は、曲り(なり)にも出征をしても、諸事に心が合わない事が
         多く見苦しい様では、その場の外聞を失うばかりでなく、權現様の時代に忠軍
         を励まれた先祖方の、武名迄も汚す道理であれば誠に重要な事である。
         公儀でも天下泰平の御代というのは、勘弁の上ながらも治世に乱を忘れない
         という事を守られ、更に秀頼の様な無分別大名が出来ない者でも無いという
      賢明な考えの方々で、武備の時では、少しも疎略されない、という作法でも
      あったのか、と恐れ入った。
         「上を学ぶ下もとこそ」と言う様に、公儀の武備に於いて、少しも油断無く
         という処へ、目を付けて言う事は、肝要な所である。
  (注釈)
     寄合(よりあい)(しゅう)     旗本のうち祿高三千石以上の非職の者。若年寄の支配に属し
                    寄合肝煎が監督した。
    豊臣秀頼      安土桃山時代の武将。 秀吉の子。  1593〜1615年。

    淀君        豊臣秀吉の側室。 浅井長政の長女。
              母は信長の妹お市の方。      1567〜1615年。
    従類        一族と家来。
    明智日向守光秀   安土時代の武将。織田信長に仕える。 1528〜1582年。

     柴田勝家      安土桃山時代の武将。尾張の人。
                    織田信長に仕える。        1522〜1583年。
     滝川一益      安土桃山時代の武将。近江の人。
                    織田信長に仕える。        1525〜1586年。
     織田三七信孝    安土桃山時代の武将。信長の第三子。 1558〜1583年。
     織田信雄      安土桃山時代の武将。信長の次子。  1558〜1630年。
    近江中納言秀次   安土桃山時代の武将。三好一路の子。

                    母は秀吉の姉。秀吉の養子。    1568〜1595年。
    内府        内大臣の別称。
     臣下        君主に仕える者。 家来。
    幕下        階級の下。

    言語に絶する    言語で言い表せないほど甚だしい。
    参議        朝議に参与する。
    城代        主君に代って城を守護し命令を伝えるもの。
     武役        武士としての役目(武家役に同じ)。
     上を学ぶ下もとこそ 上にある人を学べば下も付いてくる。


  1、問 そなたは秀吉公在世の時、權現様御一人の事を旗本という訳でもなく、御客
         扱いにし、公卿仲間で、参会をされたというのは、何か確かな手掛りの証拠
         でもあるのだろうか。
         他の記録の中で、見当たる事があれば、詳しく聞きたい。
  1、答 その事で、筆者が聞いているのは、尾州長久手((注釈))の戦いの頃、權現様の軍事上

         の策略の程を、秀吉公が念を入れて見届けられ、大いに手ごたえを感じた。
         其の身は、天下統一の大望有りと言うが、今迄の通り、權現様と矛盾しては
         事が行かないという勘弁で、織田信雄卿へ降参を求め、和睦を調へ信雄卿の
         取扱で、權現様と穏やかに話され、三河守秀康((注釈))卿を頼って、養子とした。
         その後、妹の朝日姫を、浜松へ輿入れさせ、縁者となっても、權現様の心を
         解けさせなかったので、三度目になって仕方なく、母の大政所((注釈))を証人として、
         岡崎の城迄任わしたので、權現様もこれ以上はという思いで、大坂へ上られ
         たら、秀吉公は大いに喜んだ。
         到着の日、自身が旅泊へ見回われ、翌日、大坂城中で供応の時、登城したら、
         秀吉公が、玄関の式台((注釈))まで迎えに出られ、御相伴に織田内府信雄卿を出され
         御座敷の次の間に、二腰((注釈))掛けの刀掛けの支度言い付け、權現様の腰物と信雄
         卿の刀を小姓達が、右の刀掛けに置いた。
         供応が終わった後のお茶は、千宗易((注釈))が出られ、秀吉公の代りに()てて差上げ
         るように申付けた。
         その後、天守閣二重目の広座敷へ、お上りになった時、浅野弾正((注釈))は、お話の
         相手に上る様にと秀吉公に指図され、千宗易は權現様の御意で加えられた。
         大坂表の御馳走が済んで、帰国の時、種々の土産物を贈られ
         「そなたが久しく、上京されないので、近寄って楽しまれる様に。」
         といって、京都聚((注釈))での御馴走人には、大和大納言秀長卿を申付け今後折々
         上京のためにといって、聚楽で屋敷を進呈し、普請の事は、藤堂与右衛門((注釈))
         高虎を奉行に申付けるので、屋敷の絵図を調へお目に掛ければ、御覧になさ
         れて、
         「是は申し分ない事である。
         我等今後上京の時は、(しばら)く旅泊迄の事であれば、広く無くても済む事である。
         普請も至って、簡単に申し付ける様に。」
         と仰しゃったので、帰国後その事を申したら、秀吉公の指図で、殊の外丁寧な
         屋形作り((注釈))で有った。
         その上、上京の時、御用が足りる様にといって、近江国で知行を差上げ、その
         他、浜松から京都迄、道中筋の所々でも知行を差上げて、御用聞にといって、
         勘定役の者二人を、御鷹野((注釈))方の御用を聞き入れる様にといって、稲田喜蔵を申付けた。
         中でも母の大政所を岡崎の城迄、人質の様に誠に任わしたという事が、証拠の
         第一であり、御勘弁が最もである。
         1590年(天正18年)になって、小田原の北条家を攻亡し奥州陣と対向の
         時、織田信雄卿の身上を、押し倒して流罪の身とし、出羽・奥州迄も手に入り、
         天下統一の代となり、数年の大望成就というのも、(ひとえ)に權現様の加勢のためと
         大変満足したので、一層の利得を大切にして、官位を執奏((注釈))され、内大臣に昇進
         以後は、時々参内((注釈))され、自身と同じく公家衆と交わりをされる様に取持ったと
         いうのは相違無い。
         そこで、秀頼公の代になり、伏見から大坂の城へ、引越された時に、一度だけ
         見回れた後、続いていた持病のため伏見にばかりおられたが、久々秀頼卿へ
         対面されなかったので、大坂へ下られると仰出られた時、前田徳善院を呼ん
         で仰しゃるには
         「春以来、大坂へ下りたいと心掛けたけれど、持病の寸白((注釈))で保養をしたけれ
         ど、回復しなく不本意にも引延しになった。
         この(あいだ)少々持病も軽く、世間も涼しくなったので、近々大坂へ下向したいと
         心掛けていた。
         久しく参内もしていないので、大坂へ下向前に、参内を遂げたい。」と仰せで
         「貴殿が参り、伝奏衆((注釈))へ話をする様に。」との仰せであった。
         その後、法印((注釈))も兎角考えないで上京して、伝奏衆へこの事を話したら、何の
         支障もなく、参内の期日を仰出られたので参内され、その後大坂へ下向され、
         城内西の丸に着かれた。
         この様な事なので、太閤秀吉公が在世の時から、權現様御一人の事を、他の
         大名方とは格別の扱いをした、との事であった。
  (注釈)
     長久手(ながくて)       名古屋市の東方に接する町。一五八四年(天正十二年)に
     羽柴秀吉の軍が、徳川家康の軍と戦って敗れた地。
    大政所(おおまんどころ)      豊臣秀吉の母。
   
式台       客を送迎する部屋の玄関先。

    二腰(ふたこし)       腰にさげる大小の二刀。
     千宗易      安土桃山時代の茶人。利休と号。   1512〜1591年。
     浅野弾正幸長   江戸初期の武将。 長政の長子。   1576〜1613年。
     京都聚楽(じゅらく)     豊臣秀吉が営んだ、華麗壮大な邸宅。
     藤堂高虎     安土桃山・江戸前期の武将。近江の人。1556〜1630年。
    屋形作り     屋根の型をしたもの。
     勘定役      江戸幕府の諸役にあって会計関係を担当する役。
     御鷹野      鷹狩り。
    執奏       とりついで奏上すること。
    内裏(だいり)       御所。
    参内(さんだい)       内裏に参上すること。
    寸白(すばく)       寄生虫症の総称。
    伝奏(てんそう)(しゅう)      取次ぎ役で武家伝奏といわれた。
    法印(ほういん)       僧侶。

第7巻45話
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