
第53話 楠由井正雪の事
1、問 以前、由井正雪と申した浪人者が、徒党企てたら、告訴した者がいて露見し
同類が尽く御仕置に仰付かったのは、如何様な次第であろうか。
1、答 その事は、大猷院様が御他界の年と覚へている。
筆者が、若年の時であった。
正雪は、同類の者に、尽く言い含めて置き、自身は駿府へ上り、梅屋町と
いった所に忍んでいて、種々の悪意を企てている内に、江戸で発覚し、駒井
右京殿へ仰付けて駿府へ遣わし、町奉行の落合小平次殿と打合せ
「正雪は、何卒、生け捕りにして、江戸へ引き連れたい。」
と言ったが、
正雪並びに、同類の仲間達が残らず旅宿に閉じ籠もって、自害して果てた。
その時、江戸では、丸橋忠弥という浪人を召し捕られ、数日、審議の上、
品川表で同類が残らず磔、又は、打首の刑を仰付けた。
右の罪人達を、引き回された時、筆者も、井伊掃部頭直孝殿の屋敷の前で
見物していたら、丸橋は先頭で、その後に次々と続き、妻子も引き回され、
中にも幼児達は、切縄を結んで首に掛けさせ、手には風車人形を持たせて
穢多達が抱き、母親の乗った馬の脇に付き添って行った。
その時迄、外桜田御門外は、今の馬だまりになっていた処は、上杉殿の向う
屋敷といっていた。
その門前まで、丸橋忠弥の馬の先頭の幟が行き着いたけれど、後の紙幟は
未だ、麹町の土橋辺りに見える程であった。
前代未聞であると、見物していた諸人が申していた。
(注釈)
由井正雪 軍学者。 1605〜1651年。
楠流軍学者門人・五千人といわれる者と倒幕を企てる。
徒党 ある事をたくらんで集まった仲間を組む。
言い含める 詳しく言い聞かせて事の次第をわからせる。
切縄 罪人をしばるために用いる縄。
穢多 江戸幕藩体制下では、士農工商より下位の身分に固定。
一般に、居住地や職業を制限された。
馬だまり 城門の内外に、多くの馬を、立て並べるために設けた空地。
幟 細長い布の横べりに、竿を通して立てるもの。
1、問 正雪と申した者は、名字を楠木と名乗り、先祖は、楠木判官正成からの、伝来
との事で門弟を集め、兵学の指南を致し、その頃世間では、広く人にも知られ
ていた者である。
その人となりの、次第を如何聞かれているか。
1、答 筆者が聞いているのは、楠木正成が正統といわれている事は、全て作り事で
元来は、駿河国由井という所の、染物屋の息子というのは紛れも無く、幼少
の頃から、同国清見寺へ遣わせて置き、学問をさせた後は、出家をしたいと
いうのは、親達は知っていたけれど、自身は出家を嫌い、江戸へ下り、転々と
歩き回り、牛込辺りに住んでいる内に、次第に子細が有って、勝手宜しく、
浪人を輩下にしていたが、下町辺りに、楠木正成が楠木流であるとの一巻の
書と名付けて、家伝の巻物を、所持していたと言っていた。
年取った孤独の浪人者が、居るのを聞き出して、正雪は懇ろにし、朝夕の事
迄も世話をしたので親密になり、後には、父子の契約を、近所辺りの者達へ
その広めをしていた内に、例の浪人者が病気になり亡くなった時も、忌服を
着て、仏事の営みを懇ろにした。
夫からは、楠木正雪と名乗って、楠木と号して書物を編み出して、門弟を集め
指南をし、世間広く歩き回って知られるようになった。
自身も差し当たって利発にしていたので、才智がある様に人に思わせていたが、
結局、武士道も本意とは違い、正義・正法の本道を弁え無いので、大罪無道を
企てたので、自分の身を失うだけでなく、多くの人を損なって果ててしまった。
悪党達のお仕置が済んだ後、江戸で急いで吟味が有り、駿河の久野御宮付と
して、榊原越中守殿へ、新しい与力同心の預かりを仰出になった。
(注釈)
与力同心 江戸時代、奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などに属し、同心
を指導して補佐した。