
第54話
1、問 江戸で大火事というのは、稀で有ったと申すのは、その通りであろうか。
1、答 大分前に、桶町から出火し新橋迄、町並みが焼けた事があった。
関東御入国以後、江戸で初めての大火事だったので、その時、在国にいた
諸大名方から、何れも御機嫌伺いが有った。
是を桶町火事と言った。
筆者が若年の頃迄は、甚だしい事と申していた。
ところが1657年(明暦3年)の酉年になって、江戸で初めての大火事で、
武家屋敷・町屋敷が残らず類焼した。
(注釈)
酉の年の大火事 明暦の大火。
1657年(明暦3年)正月十八日から二十日迄、江戸城本丸を
初め、市街の大部分を焼失。町数四百町。
死者十万八千人とも言われている。
本郷丸山の本妙寺で施餓鬼に、焼いた振袖が空中に舞い上り、
大火の因となしたといわれ、俗に振袖火事と称された。
災後、本所に回向院を建て、死者の霊を祈った。
1、問 酉年の大火事は、当年から七十年余りも過ぎているので、確かに覚へている
人も稀なので、委細聞きたい。
1、答 大火事の時、筆者は十九才であったが、大方覚へている。
正月十八・九日の両日に大火があり、十八日の朝、食後の頃から、北風が
強くなって、土ぼこりが吹き立ち、五・六間先が何も見えなかった。
その時、本郷の外れに本妙寺という法花寺から出火し、本郷御弓町・湯島
旅籠町・鎌倉河岸・浅草御門の中の町屋が残らず焼失したが、外桜田辺りに
筆者が住んでいた近所では、誰も知らなかった。
というのは、土ぼこりで先が見えない処に、下町から逃げて来る者が言った
ので、初めて知った状況であった
火は霊厳島・佃島を境に通り、町を海端まで焼失し、翌朝になって次第に
鎮まった。
しかし、翌十九日も北風が強く、焼場の灰が交じって、土ぼこりが舞い上が
ったので、諸人が気を付けていた処、小石川から出火して、大火になったが
砂ぼこりで、先が見えなかった。
初めは良く分からなかったが、牛込御門の中へ焼入って、夫から田安御門の
中の大名屋敷が残らず類焼し、竹橋御門の中の堀端にある紀伊大納言殿・
水戸中納言殿の大屋敷が一度に焼失した。
その火が本丸へ移り、金の鯱が上った五重の天守へ燃え付き、夫から次々と
広がり、本丸の中の御殿が残らず焼失して、大手先へ移り神田橋・常磐橋・
呉服橋・数寄屋橋の御門の矢倉が残らず焼けた。
西は、やよす河岸を境に焼けたが、その日の八時過ぎに、再び六番町辺り
から出火して、半蔵御門外の松平越後守殿の屋敷へ移り、山王の社・井伊
掃部頭殿屋敷を初め霞ヶ関辺り・桜田近辺の大名屋敷を焼失した。
更に、虎ノ門・愛宕下の増上寺門前から、芝札の辻辺りの海手を境に焼けた。
江戸中で、西の丸・和田倉・馬場先き・外桜田御門の中だけが、残った様
であった。
その後は、江戸の火事が度々有ったが、その様な時は、風も吹いたけれど、
酉年の、大火の時の様な風では無かった。
(注釈)
紀伊大納言 徳川頼宣。 家康の十子。 1602〜1671年。
水戸中納言 徳川光圀。 頼房の第三子。 1628〜1700年。
1、問 大火の時、御城でさえ類焼した程の事であれば、公儀又は他でも、様々に
変った事であると思う。何か聞かれているだろうか。
1、答 知っての通り大変な時でも有り、広い江戸であれば、定めて種々変った事も
有るが、筆者もその時は若年でもあり、その上、雑事に紛れていた時の事で
あれば、詳しくは知り様も無いが、しかしその際、世間で見た事を少し話を
すると、正月十九日の四ツ時になり、小石川から出火して、燃え広がり田安
御門の中の大名屋敷へ移った時、松平伊豆守信綱殿は、留守居衆を呼び
「この風向きでは、御城も如何かと心許無く思う。
しかし、公方様も立退かれる間、女中衆は、上下共に早々西の丸の方へ
立退かせるようにした。
上方の女中は、表向きの道筋が不案内であるので、通り道に畳を一畳ずつ
裏返して夫を頼りに出られるように。」
との申付けで、その通りにしたので、多くの女中方は、道に迷う事無く
何れも無事に立退いたと申した。
公方様も、いよゝ立退かれたかという以前に、徒目付衆の一人が百人組の
番所へ
「老中方の指図で、此の番所も定めし火の粉が飛んで来る間、組の同心衆へ
指図し、極力防ぐように。」と申したが、その日は、横田次郎兵衛殿が当番
で、番所の前に居たので、是を聞かれ、例の徒目付衆に向って
「昨今両日の大火は、只事ではないと思い、我等の組の同心達には、預かっ
ていた鉄砲に火縄を掛けさせ、あの様に門を固めたので、火の粉を払わせ
る者は無いので、その様な事は出来ない。」と申せば、徒目付衆が聞かれ
「松平伊豆守殿の御指図である。」と申せば、横田殿が聞かれ
「老中をなされているならば、その様な馬鹿な事を申されて良いもので
あろうか。伊豆守殿はさて置き、例え上意にもせよ、この次郎兵衛では、
それは出来ない。」
と申したので、徒目付衆も面目ない状態で帰り、横田殿が言う通りを、
そのまゝ上申すれば、側に阿部豊後守忠秋殿が居合せ
「当番は誰であろうか。」と申されたので、
「横田次郎兵衛殿が当番と見え、右の言い分であった。」
と答へれば、豊後守殿が聞かれて
「次郎兵衛ならば、その様でもあろう。」との事で、お笑いになった。
その後、次郎兵衛殿は、組の与力衆に向かわれて
「各位の中で、本丸の屋形内の案内を知っている衆はいないか。」
と尋ねた時、誰も玄関から奥の方は知らないと言えば
「その申し訳は、追って我等がするので、誰でも二人で本丸に参り、座敷の
中に何方かが参られ、老中を見掛け次第申されたい。」
と次郎兵衛が申上げた。
「公方様も追っ付け、西の丸へ参られるとの事であった。
自分は、大手の番であるが、久世三四郎組の者を連れて下乗迄詰めていた。
御門外は、三四郎へ渡し、自分は、蓮池の御門へ加番に行き、御成先を
固めては如何であろうか。」と伺えば
「上申する様に。」と申されたので、与力衆二人が本丸へ参ったが、その時は
追っ付け、西の丸へ行かれたとの事で、老中方も玄関前に入られたので、
その趣を、伊豆守殿へ申上げたら
「一段と良い所へ気付き、出来るだけその様にするのが、最もである。」
と申したので、横田殿は御番所を三四郎殿へ引渡し、蓮池御門へ詰めたら、
間もなく御成りの時、伊豆守殿が申上げるには
「横田次郎兵衛殿は、大手の御番であったが、西の丸へ行かれたので、
御番所は久世三四郎へ渡し、ここに詰めた。」
と披露したら、お言葉を掛けられた。
一つ、浅野因幡守殿の屋敷は、霞ヶ関で今の安芸守の向い屋敷であったが
火事の時、玄関へ出られ、家中の侍達も出て詰めていた処で、留守居役の
者へ申されるには
「昨今の大火と言い、その上、本丸が類焼した事であれば、御機嫌伺いを
したいとの事であるが、この節なので、他へ聞き合せする事も出来ない。
如何すれば、よいものだろうか。」
と申せば、留守居役の者が申すには
「譜代の大名方には、定めて、御機嫌伺いをされるであろうが、外様の衆中は
如何なものであろうか。」と申したら
「御用人達も外様の大名方はこの様な時は、結局差控えた方が良いだろうか。」
と申せば、因幡守殿が申すには
「何れも良く知らない事もあり、同じ外様の中でも、浅野の家は譜代も同様
な訳でもある。
しかし、外様者の身で余計な差し出がましい事をしたとあって、後日、御咎
めがあれば、仕方無い事である。
本丸の類焼で、公方様も何れへか、行かない事は無いが、その落着く先も
分からないという事はない筈である。」
と申して出て行かれ、式台の前へ馬を引き寄せて、乗出したのでその場に
居合わせた侍達が、残らず供をしたのを、馬上から見られて
「振袖の小姓はすべて残るように。」と申され、子供は残ったが、
その他大勢の供回りで、外桜田御門へと馬を早められたら、先頭の徒士が
走って帰り
「あそこに見へられるのは、井伊掃部頭直孝様である。」と申したので
「それならば、供の者はすべて堀端へ整頓して、平伏する様に。」
と申し付けている内に、間近かに掃部頭殿は、渋手拭の鉢巻で供の侍十人
ばかりの人を馬の左右に、連れて近寄り、因幡守殿ヘ向かわれ
「今は、重大な大火であるが、そなたはどちらへ行かれるのか。」
と言ったので、因幡守殿は
「本丸が類焼と聞いたので、御機嫌伺いをしたいと参った。」
と返答申されたら、掃部頭殿が聞かれて
「至極最もな事である。御城内の御殿向きは、残らず類焼したけれど、
公方様は一段と御機嫌良く、西の丸へ行かれ、安泰である。
そなたは、外桜田御門迄、来られたのは最もである。
本御番は相馬・長州で、岡野権左衛門を加番に仰付けられ、詰めて居たので、
権左迄、御機嫌伺われるのが筋である。
権左の組与力同心達を土橋へ出向いて、曲輪内へは人を通さない筈であったが
掃部頭へ断ったと言う事を申し、供中を門外に残して置いて通られ、少数
だけでも、通られのが最もである。」
と言って、自分の屋敷の方へ帰られたので、因幡守殿は外桜田御門番所へ
参られ、権左殿へ御機嫌を伺って帰宅し、玄関で右の次第を用人達と雑談
していたら、表門の屋根の上に居た、足軽達が声を上げ
「番町辺りから出火している。」と叫んでいるのを、因幡守殿が聞かれ
「この風で、番町辺りの出火と言うのは心配である。
良く見るように。」と言った。そうしている内に
「松平越後守様の屋敷へ燃え移った。」と言ったので
「さては、この辺りにも来るに違いない。家中は、何れも立退くように。」
と、因幡守殿自身も世話をやかれている処に、屋根の上から
「井伊掃部頭様の台所から燃え上がっている。」と叫んだので
「是は、隣りの家だ。」といって、夫から大騒ぎになり、因幡守殿も立退
かれ、家中の者達も久保町の方へ避難した処、虎の門の枡の形をした地形
の中に、大いに込み合い、侍の身分達も殊の外、怪我をして、小供など
仲間の者の死者が七・八人いた。
因幡守殿も落馬したが、異状無く枡形の中を通り抜けた。
一つ、阿部豊後守殿の用人に、高松左兵衛という者が、その日、外桜田御門
へ参り、岡野権左衛門殿へ申されるには
「もし、御殿回りが出火したとあっては、麻布屋敷に居た家来達が、皆んな
駆け付けるように。」と、豊後守が前もって置いたので侍達は次々と参った。
「今日、当御門から中へは、通行出来ないので、私儀は、是に居る一人ゝを
改めて通すので、その様に心得下さりたい。」と申して、御門外の土橋に
出向き、権左衛門殿の与力中へ話し、自分は人数を改め、残らず通すので、
以後、御番所へ行かれ、豊後守の家来達は、大方行ったので上屋敷へ行かれた。
その後、、豊後守の家来達であると断った者達がいれば、一人も通さない様に
といわれ、自身は上屋敷へ行かれた。
一つ、正月十九日の夕方になり、西の丸で、保科肥後守正之殿が、松平伊豆守
信綱殿へ申されたのは
「今日の大火で、御三家方を初め、千代姫様・両典厩様方の安否は、如何聞
かれているか。」と申せば、伊豆守殿が申すには
「今日の取り込みで、その様な処迄は、手が回らなかった。」
と申せば、肥後守殿は再び申されるには
「公方様が昼前、西の丸へ行かれ、安泰であり別条も無かったので、今にも
御前から尋ねられたら、各位に如何仰しやる事であろうか。
早々に聞き届けて置くように。」といえば、伊豆守殿も
「如何にも、仰せの通り最もである。」と、夫から徒士衆を、方々に
遣わしたので、その一座の衆中は、肥後守殿へ
「今日の火事では、そなた様の築地の屋敷も、定て類焼されたであろう。
御家内、何れも支障なく立退かれたのか、身辺を聞かれているか。」
と申せば
「如何にも推量の通り、定て屋敷は類焼したと思う。
しかし、今そなたが聞かれた通り、御三家方・両典厩様方の安否さえ、分か
らない時であれば、この肥後守の妻子達の事はなるが儘にする。」と申した。
一つ、正月二十四日は、毎年増上寺へ御成りなされるけれど、大火事になった
ので、御成りは中止になり、名代として保科肥後守殿が参られ、帰宅した時、
京橋へ回り、十八・十九日の両日に焼死した者達の、死体を一所に集め、
山の様に積まれていたのを、見届けられて、供の侍も、浅草橋御門外にも
焼死者の死体を積んでいたとの事である。
この死体と較べて、何れが多いか見届けて帰るように。」
と申されたので、夫から侍達が参ったので、帰宅したら、その者が帰り、
「良く見届けたら、(浅草橋御門外のほうは)京橋にある死体の三分の一程も
あった。」と申したので、その事を登城された掃部頭殿並びに、各老中方へ
肥後守が申されるには
「自分は、増上寺の代参を勤め帰宅の時、京橋へ参り、今度の焼死者を
見届け、浅草橋へは、家来を遣わして見せた処、京橋にあった死体の
三分の一程であったと申した。
両方の川筋の堀に流れて、浮んでいた死体は、数限りもなかった。
公方様が江戸におられたので、天下の万民が集まり、今度の大変な出合いで
焼死をされたというのは、哀れむ事である。
その上、数万人の中には、どの様な者が居たか、計り知れない。
残らず、外海へ流れ次第というのは、如何であろうか。
願う事なら公儀から仰付けで、所々にある死体を一ヶ所に集め、埋葬する
様にしたい。」と申せば、掃部頭殿、その他の老中方も異議がなかったので
町奉行衆へ仰渡し、穢多弾左衛門・車善七の両人の、手下の者達を責任者とし
その者達へ、公儀から船と費用を下されたので、七日の間に、方々にあった
焼死者の死体に限らず、牛・馬・犬・猫の死体も残らず一ヶ所へ集め埋葬した。
その後、寺社奉行へ仰付け、常念仏堂の建立を仰付けた。今の無縁寺である。
一つ、大火の時、御城を初め、諸大名の屋敷・寺社・町屋共に、一様に類焼
したので、諸方の普請が、一遍に初めるようにしたいという考へで、江戸中の
材木屋達が申し合わせ、焼け残った材木を蓄えて置き、諸方から運送して来た
材木を残らず買い占めたので、材木の値段が殊の外高値になった。
その為、
「御城の普請は、三年の間延期され入用の材木は、山林のものを仰付かり
建築が初まっても、商人からは一本も買わない。」と有って
「諸大名方の屋敷作りも、急ぐ事は無い。勝手次第にする様に。」と言った。
松平伊豆守殿は
「一ツ橋の上屋敷の普請の材木も、川越の知行所から、松丸太を切り取って
利用する。」
との事を伝え聞いた諸大名方を初め、小身の衆中に至る迄、残らず知行所
へ材木を取り寄せたので、江戸中の材木の値段が殊の外下がり、普請も
心安く出来て、町方は間もなく揃った。
井伊掃部頭殿は、瀬田谷の知行所へ行かれ、雑木の丸太・竹・縄を取り寄せ
六尺余りの高さで、屋敷の外回りを囲われ、この塀の雨覆いを丸太にして、
外向きの総長屋が揃う迄は、その塀囲いにして置いたので、是を手初めに
して、江戸中の諸大名の、屋敷の外囲いも簡単になった。
一つ、十九日、本丸の類焼の時、旗本諸役人衆中の、中には、その態度が
良い者もあり、又は、出来が悪い者もいたので、今後の事もあり、吟味の上
で、善悪の区別が、付かなかった者もいたと、専ら噂されたので、諸人が
殊の外、気遣いをしていた衆もいた。
その審議の時、保科肥後守が申されるには
「今後の事としては最もであるが、自分は、最も適当な方法であると考え
られない。子細は天正年間(一五七三〜一五九一年)、權現様が入国されて
以後七十年に及んだが、江戸で、今度の様な大火という事は無い。
それなので、大火の時は、如何様な手段・方法等といった定法は、疎略の
ように思う。
しかし、今度の事はそのま々にして、以後、大火の時の定法を急いで仰せ
出られるようにして好しい。」と申されたので、審議は無事済んだ。
以上、種々話したのは、公儀に関した事なので、実・不実は分からないが、
当時のま々の風説を紹介した。
(注釈)
留守居衆 江戸幕府の職名。老中の支配。主として江戸城本丸の守衛に
当った。諸藩の江戸屋敷に置かれた。
幕府・諸藩の連絡に当った。
表向き 政務を執る所。
不案内 様子を知らないこと。
番所 交通の要所に設けて、通行人などを見張った。
与力衆 所司代・城代・大番頭・書院番頭などに隷属し、同心を指揮
して、上官の事務を分掌・補佐した。
大手 城の表門。
加番 定番を加勢して、城を警衛する役。
定番 一定期間、交代せずに駐在して、警衛する。
御番所 江戸町奉行所。
外様 主従関係を持たない家臣。
供回り 供の人々。
振袖の小姓 元服前に振袖を着た小冠者。
渋手拭 渋柿で染めた手拭。
相馬 福島県北東部の市。 相馬氏六万石の城下町。
長州 長門の国(山口県)。
枡形 敵の攻めを、鈍らせるための地形。
上屋敷 大名が、平常の住居とした屋敷。
千代姫 徳川家光の子。尾張徳川光友の正室。1637〜1698年。
典厩 左右の馬寮とその頭の唐名。
馬寮 官馬を司どった役所。
左馬寮と右馬寮とに別れ、各長官を頭と称した。
町方 町または町人に関すること。