最上川河口史
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最上川河口史

 人間は自然界の一生物であり、水なくしてその生命維持は不可能である。わたくしたちは、先人が遺してくれたきれいな自然環境を大切にしていくことを、最優先課題としていかなければならない。
 最近、最上川は自然遺産と文化遺産を併せもつ、世界複合遺産であるとの声がもちあがり、住民が水辺に親しむことのできる河川空間づくりを目指す方向づけがなされたことは幸いである。酒田と最上川との関りや、酒田市の発展と酒田港の盛衰について、御理解を深められたならば幸いである。

      土岐田正勝
第一部
酒田地図
地図閲覧サービス

最上川ライブカメラ

庄内地方の地図
明治時代の地図
 河口を日本海に求めて 
   ●庄内平野は内湾状態  ●酒田の地勢
   ●鵜渡川原と亀ヶ崎、その地名の由来
   ●鵜川について
第二部
○ 徳尼公(とくにこう)と三十六人衆
○ 義経伝説
○ 酒田三十六人衆の活躍
○ 酒田 豪族の面々
谷家、永田家、加賀屋、上林家、本間家、鐙屋家
○ 氾濫による最上川河道のうつり変わり
第一次開削       第二次開削
○ 明治十二年(1879年)の大洪水
     ●山居谷地締切り   ●下瀬の開発
    ●中瀬への移転    ●山居嶋の開発
○ 最上川・赤川・日向川は、ともに人工河口
第三部
○ 最上川修築、酒田築港のエンジニア四天王
石井虎治郎野村年・坂田昌亮・坂上丈三郎
○ 山形県民の歌“広き野をながれゆけども最上川”
○ 川開き「酒田花火大会」の始まり   ※昭和28年の地図
○ 両羽橋      ○ 出羽大橋
○ 司馬遼太郎作「菜の花の沖」の酒田
○ 最上川憲章
○ あとがき      随想 「教師冥利と世相雑感」    
土岐田正勝 先生
遊佐高校教師時代
土岐田正勝先生

S43.3卒業アルバムから
阿部次郎
 先生は、郷土史研究や庄内文化の向上に大きな功績を挙げたとして、第22回阿部次郎文化賞を受賞しました。また、酒田市史や松山町史など町村史の発行に貢献。郷土史料の発掘と研究、庄内地方の偉人紹介などを通して地域文化の向上に尽くしたほか、ライフワークの「最上川河口史」を17年春出版。この賞は松山町出身の哲学者、阿部次郎の偉業をたたえ、昭和59年に創設。庄内文化の向上などに功績があった団体、個人を顕賞しています。
土岐田正勝 先生
教師当時、「中曽根元総理に似ていることから、“中曽根さん”の渾名が付いた」と笑う。確かに似いてる! H20.1.15撮影
著者紹介
 土岐田正勝先生は、1937年酒田市生まれで、國學院大學史学科を卒業後、昭和38年に遊佐高校に着任しています。最初に担任を持ったのが、昭和40年4月、私たちが入学した普通科1組からで、このクラスを卒業させた数年後には酒田北高校に転勤、さらに酒田中央高校に赴任し退職を迎えております。
 現在は、東北公益大学の非常勤講師として教鞭をとられる傍ら、山形県地域史研究協議会理事、酒田市文化財保護審議会委員、遊佐町文化財保護審議会委員、遊佐町史編集委員長などの要職におられます。肩書きが示すように、70歳の年齢にもかかわらず益々ご活躍の様子です。
 「最上川河口史」等、郷土史執筆のご苦労を質問すると、先生は「一冊の本を書き上げるのには、間違いがあっては大変なので、入念な下調べが必要であり、手間暇が掛かり根気の要ることだ。」と語っておりました。
 また、遊佐町史の編集委員長をつとめておられ、今年春にも、「遊佐町史」を発刊予定だそうです。
 随想「教師冥利と世相雑感」は、教員時代に付けられた渾名の数々をユーモアで紹介していますが、先生の寛大なお人柄と実直さが良く表れ、まだまだお若かった当時を懐かしく思い出されます。

 なお、この「最上川河口史」は、先生から掲載許可を頂いておりますので、できるだけ多くのページをご紹介しようと思いますが、全てを読みたい方は本を購入願います。但し、本は自費出版であり、極めて品薄です。
下段の写真は、クリックすると拡大します。
最上川 写真 写真

 最上川河口は、氾濫と治水の歴史だ。江戸期には7年に1度の割合で洪水が起こり、そのたびに流路が変わった。

最上川河口史
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1 河口を日本海に求めて
 (1) 庄内平野は内湾状態
 (2) 酒田の地勢 
 (3) 鵜渡川原と亀ヶ崎 その地名の由来

第一部
その一 河口を日本海に求めて

最上川河口は、氾濫と治水の歴史だ。江戸期には7年に1度の割合で洪水が起こり、そのたびに流路が変わった。

写真提供/国土交通省 酒田港湾事務所提供
 1 庄内平野は内湾状態
 
 わたくしたちの住んでいる庄内平野は、かつて海の底であったことが最近の地質学分野の研究から明らかになってきた。

 それでは庄内平野はいつごろ、どのようにして海底から陸地へと変わってきたのであろうか。そもそも、わたくしたちが生活しているこの地球は、今からおよそ四十五億年前に誕生したといわれている。
 その後地球は、地質学上の壮絶なドラマを展開してきた。今から五億年前ころにも地殻の大変動があり、火山活動が活発であった。そのころ庄内地方も三回の沈降と隆起による地殻変動があり、大陸→ 大海→ 大陸→ 大海をくり返していたらしい。

 さて、日本列島はアジア大陸の中緯度東縁に位置し、弧状の島弧群をなしている。列島は千島弧、東北日本弧、小笠原弧、南日本弧、琉球弧の五つの島弧からなり、走向に沿ってそれぞれ火山の密集帯をもつとともに、海底に並走する齢海をもっている。

 これは日本列島が環太平洋造山帯の北西部をなし、太平洋島が大陸地塊にもぐり込む変動帯にあたるためである。6000万年前から2000万年前ころにかけての4000万年間は、東北地方は陸地であったと考えられている。さらに1700万年前から1400万年前ころの東北地方は大規模な海水の浸入を受け、最上川もほぼ全域にわたって温暖な海の底にあった。

 1200万年前から1000万年前ころには、最上川流域を覆った海がしだいに浅くなり、堆積物も泥質から砂質に変わってきた。このころ地殻変動が激しく、隆起運動や火山活動が活発であった。

 1000万年前から700万年前ころには地盤隆起にともなう日本列島の陸化現象により、南方からの海流とのつながりが切れて、北方からの寒流が主流を占めるようになった。700万年前から500万年前ころには、最上川中流域で陸化が始まった、現在の庄内平野一帯は、まだ海底にあった。500万年前ころ、脊梁山地はさらに隆起し、陸地化がすすんだ。そして海退にともなって、米沢盆地は湖沼化していった。
 このころ庄内平野は、浅い海が一面に広がる内湾であった。また出羽丘陵などの山地も存在していなかった。200 万年前ころ、地盤隆起と海退により、陸地化・湖沼化が進んだ。しかし、庄内平野は、まだ海底にあった。

 200万年前ころになって最上川中流域はほば陸化し、あちこちに海退による湖沼が誕生した。このころ海底であったことを実証する貝の化石が、平田町や八幡町、鮭川村などから出土している。200万年前から150万年前ころ(第四紀洪積世)には出羽丘陵も隆起して、最上川流域全体が、はじめて陸地化した。
 やがて地球は水河時代に入り、気温の低下と降水量の減少がみられ、海水面も変動した。氷河期は四回あったが、最後のヴュルム氷期後、ふたたび地球は温暖化し、海水面が上昇した。庄内平野は山形県の北西部にあり、平野部を北から月光川・日向川・最上川・赤川などの大小河川が日本海に注いでいる。
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 庄内平野は南北50キロメートル、東西幅は南部が16キロメートル、北部が6キロメートルである。
その面積は、砂丘部を除いて約530平方キロメートルであり、海抜高度も5〜15メートルという、きわめて低平な海岸平野である。

  日本海の海岸線に沿って発達している庄内砂丘は、南北の構造線上にある。また、砂丘南端の加茂地塊から、漸次高度を減じていく地累状の第三紀層山地がある。この地層と、庄内平野北端から南へ発達している第三紀層地累を基盤とする砂州によって囲まれた時代は、外海から遮除された潟湖(海の一 部が砂州や沿岸州などのために外海と分離してできた浅い沼や湖)の形を示していた。
 すなわち庄内平野は、内湾のような状態であったといってよい。このような内湾、あるいは潟湖(せきこ)の時代に、ここへ注いだ諸河川が三角州を形成していった。その後、地殻変動によって土地が隆起したり、海流の変化や季節風によって砂州を形成して、湾口をせばめることもあった。
 洪水による氾濫によって土砂が堆積し、入江はやがて狭くなり、ついには平野に変貌して、今日の庄内平野ができたものといわれている。近くでは新潟県の新潟や、秋田県の象潟(きさかた)や八郎潟、青森県の十三潟(じゅうさんかた)などに、その例を見ることができる。

2 酒田の地
 酒田の地勢については、昭和54年(1979)3月、山形県企画調整部土地対策課から「土地分類基本調査、酒田」が発行されているので、その中から引用させていただくことにする。

 酒田は山形県の北西部に位置し、日本海に面している。地理上の範囲は、東経139度45分から140度40分、北緯38度50分から39度0分までである。その面積は、およそ300平方キロメートルである。
 酒田市の北端集落は千代田、西端は飛島の勝浦、南西端は浜中、東端は生石(おいし)である。東部には本県を内陸と庄内とに二分する出羽山地があり、西部には広大な庄内平野が位置し、最上川がそれらを貫流して日本海に注いでいる。この山地と平野の間に地塁状の丘陵があり、平野の西縁に河口港以外は良好な港湾に恵まれていない。
 離島飛島は、酒田市より北西37キロのところに位置している。出羽山地には、北部に標高2236メートルの鳥海山がその勇姿を見せており、南部には1980メートルの月山が聳えている。
 この出羽山地を源流として、日向川・新井田川・相沢川の各河川が平野部に流れ込んで、それぞれ中小の扇状地や河岸段丘を形成している。本地域の土地利用状況は、田畑、採草放牧地、林地、都市集落、その他に区分される。本地域の約40パーセントを占める低地の土地利用は、水田・畑・都市集落と、高度に活発な利用がなされている。
 特に本地域においては農地の割合が大きく、県平均の17パーセントに対し、30パーセントと高くなっている。
本地域は平坦地(傾斜度0度〜3度、40パーセント)にも及んでおり、県内随一の自然条件に恵まれた庄内平野となって展開している。それらの平坦地は広大な水田として利用されており、本地域の水田率は85パーセントと、県平均の75パーセントよりも高い。西縁の砂丘地では、独特の耕地形態を示している。すなわち最上川を境にして北部の砂丘地では主に普通畑が、南部では果樹園との組み合わせで農地がそれぞれ南北に帯状に延びており、メロン・スイカ・いちご・柿・桃などが栽培されている。

 最近では北部砂丘地においてもメロン・スイカをはじめとする園芸作物が盛んに栽培されるようになった。庄内平野東縁の丘陵地では、開墾された果樹園、普通畑が散在している。最上川河岸の土地利用は、牧草地・畑地・都市公園と多様に活用されている。
本地域において、耕地は平野部・鳥海山麓・丘陵・砂丘地などに分布している。平野部にはグライ土壌(地表面近くで地下水位が変動することによって青灰色ないし灰色を呈し、赤褐色または黄褐色の斑紋をもったり、もたなかったりする土壌)を主とし、泥炭土壌、黒泥土壌、灰色低地土壌および褐色低地土壌が分布し、そのほとんどが水田として利用され、穀倉地帯を形成している。砂丘地には砂丘未熟土壌が分布し、畑地として利用され、スイカなどの栽培が盛んである。鳥海山麓地および周辺丘陵には、黒ボク土壌および褐色森林土壌が分布し、普通畑・果樹園、および牧草地として利用されている。

 平野部に分布する水田土壌は、最上川下流右岸農業水利事業をはじめとする農業基盤整備事業が進んでいるため、生産力は一段と高い。しかし、さらに高生産性稲作地帯形成のために、排水機能の充実による地下水位の低下、および水田土壌に適応する養分補給を実施するなど、土壌条件の改善が望まれていた。日本海沿岸に分布する砂丘未熟土壌は粗粒質土壌であるため、保肥力、保水力がともに低いので、地力的には低い。また、鳥海山麓および丘陵に分布する黒ボク土壌、褐色森林土壌は、養分状態がやや劣っている。わが国有数の「コメ」どころである庄内地方は、農地に恵まれ、県農地面積の33.7パーセントを占めており、かつ、農地としての土地条件は、県平均に比べ高ランク地が多い。このため、質・量ともに県内随一の優良農地を有している地域である。
 ちなみに、優良農地が80.1パーセントを占め、県平均の60.9パーセントを大きく上廻っている。
酒田地区の優良農地の比率は、庄内平均をさらに6.4パーセント上廻り、86.5パーセントとなっている。これは、本地域が庄内平野の中心地に位置し、長年にわたって最上川下流域の濯概排水事業を中核とする農業基盤整備が、着々と実施されたことによるといってよい。かつてその中心部に、亀ケ崎地区は所在していた。

 庄内平野は、日本海に沿う海岸平野の特性を良く示しており、低く平坦な平野面と、海岸に沿って伸びる庄内砂丘とが特徴的である。最上川はこの平野面を刻み込むように緩やかな曲流を示しつつ流下し、日本海に注いでいる。
 最上川をはじめ、各河川は人々の力によってその姿を変え、両岸の堤防によって河道が固定されているほか、かつて最上川最大の支流であった赤川や、北方の日向川は大きく流路を変えて流れている。庄内平野に扇状地の発達はあまり良く見られないが、月光川・日向川扇状地は、わりあい明瞭である。

 三角州性の低地は広く分布し、平野の主部を占めている。最上川はこの三角州性低地を開析し、より低い氾濫原地帯を形成している。最上川氾濫原は最上川に沿う低地であり、三角州などを側方侵食している。したがって最上川の旧流路は、至るところにその痕跡を留めている。旧流路はいずれも曲流の跡であり、そのループ(輪、円)の中や外側に、自然堤防を残している。

 日本の沖積平野は、(1)扇状地帯、(2)自然堤防〜後背湿地帯、(3)三角州帯と三区分されるが、一般的に庄内平野は自然堤防の発達が劣っている。後背湿地の明瞭なものは、生石ほかにみられる。
 酒田北部三角州は海抜高度5〜6メートル以下であり、いわゆる縄文海進期に海進を受けたと推定される。この酒田北部三角州の西縁に、日向川のかつての流路があり、酒田北港付近で砂丘地を横断していた。
酒田南部三角州は最上川左岸にあり、酒田北部三角州とほぼ同様の性格を有している。
 酒田周辺の水系は、北から順に月光川水系・日向川水系・最上川水系・赤川水系の四つに分けられる。このうち日向川水系は、上流において日向川本流と荒瀬川とに分かれる。最上川水系には、右岸に相沢川、左岸に京田川が合流する。赤川は、昭和の初めまで最上川水系に属していたが、砂丘地を切り開いた新川によって、直接日本海へ流下するようになった。
        (昭和五十四年三月、山形県企画調整部土地対策課『土地分類基本調査、酒田』 )
3 鵜渡川原と亀ケ崎

  鵜渡川原

 「鵜渡川原(うどがわら)」という地名は、かつて「鵜渡川原」「鵜殿河原」あるいは、「鵜渡河原」とも書かれていたが、現在は、「鵜渡川原」に統一されている。
 地名としての鵜渡川原という言葉がいかなる意味をもつものであり、いつごろからそれが使用され始めたかについての解明は、まだ充分にはなされていない。

 「鵜渡」あるいは「鵜殿」(うどの)の意味については、現在四つの説が考えられる。
一つは「鵜」が棲息あるいは渡来し 、鵜による漁撈が、行われていたとする説である。二つ目は「鵜渡川原」の「ウト」とは「空」のことであり、砂州の内側をウト(空)と称したことによるとする説である。

 三つ目は 篳篥(ひちりき)に用いられる葦の特産で有名な淀川(琵琶湖に源を発し、大阪湾に注ぐ)、中流の集落「鵜殿」を、最上川に叢生する葦に見立てて鵜殿川原と名付けたとする説である。四つ目は、矢戦のあった場所(アイヌ語)からきたとする説である。

 第一番目の鵜の棲息と渡来、あるいは鵜による漁撈説であるが、鵜殿川原を文字通り解釈するならば、この説が一番妥当である。
 江戸後期から明治初期にかけての博物学者松森胤保(たねやす)は、最上川で鵜の棲息があったことを記している。参考のために、全国地名辞典によって「鵜」という字のつく市町村名を調べてみると、それが意外に多いことに驚くとともに、鳥類の鵜に関連する場合と、そうでない場合とがあることに気付く。

 次に第二番目の「ウト」(空)とは砂州の内側のことであり、「ウト」を 鵜渡と書いたという説である。この説は、溝手理太郎著『市町村名語源辞典」に出てくる。彼は、「ウト」とは崩壊地形のことを言い、「ノ」とは野のことであると述べ、さらに砂州の内側をウト「空」といったことによるのではないかと指摘し、三重県南牟妻郡鵜殿村の例をあげている。

 三重県鵜殿村は熊野川河口にあり、新宮〜大阪間の「鵜殿廻船」で活躍したところである。
 明治22年における鵜殿村の戸数は322戸、人口は1282人であった。ここは南北朝期に鵜殿荘や鵜殿城があったところで、鵜殿氏を名乗る有力豪族がおり、新宮社家の末流になっている。なお、鵜殿を名乗る氏は、鳥取県下池田光仲の家臣にもおり、鳥取市の妙要寺は、鵜殿氏の菩提所となっている。

 隣りの秋田県には、鵜殿川がある。この川は、大戸川・百曲川ともいわれた。この鵜殿川は横手市近郊平鹿郡を流れている。覚書には、「鵜渡川、大戸川と誤り唱う。此の川本と空川(うとかわ)ならん」とあり、鵜渡川はウト(空)川の意があったことを伝えている。
 その昔、亀ケ崎一 帯が日本海沿岸に発達した砂州の内側にあり、内湾状態にあったことはほぼ事実であり、「ウト」・空・鵜渡と変化していったとみる説は、真実味を持っているとみてよい。

 第三番目の説は、淀川中流大阪府高槻市にある葦の特産地「鵜殿」に見たてて、わが最上川河岸が葦の群生地であることから「鵜殿河原」と名付けたという説である。

 上方との海運隆盛のころ、酒田・大阪・京都を往来した廻船問屋が名付けたものであろうか。高槻市大字鵜殿は、昭和35年(1960)における世帯数が85、人口が390人という小さな集落である。かつての鵜殿村は、平家都落ちの際に宿泊の舞台になったところである。鵜殿村は、木管楽器篳篥(ひちりき)の吹き口に使用する葦が特産であった。葦は水ぎわに生えるイネ科の多年草であり、茎は乾燥させて、すだれや筆の軸として使用された。鵜殿の葦のように、特上のものは篳篥の吹き口として使用された。

 鵜殿村は、毎年鳥丸家(室町時代の公卿)にこれを献上していた。この葦は貴重品であったらしく、謡曲「龍砥王」「江口」「鵺(ぬえ)」にも鵜殿の葦として謡われている。

江戸時代初期の名筆家であり、和歌をよくした鳥丸光広は、その歌集「耕雲千首」に
    世の中よ うと野に葦の よしとても ほに出けなり 秋の夕ぐれ
と、詠んでいる。

また、謡曲「江口」には
  都をばまだ夜深きに旅立ちて まだ夜深きに旅立ちて
  淀の川舟行く末は 鵜殿の葦の ほの見えし
  松の煙の波寄する 江口の里に着きにけり
  江□ の里に着きにけり
と、鵜殿の葦のことが記されている。

 事々しく日本紀等を引用しても、わが亀ヶ崎地区の村だちを彼此あげつらう何等の助けにもなるまいから、ごくぎりぎりの所から始めようと思う。

 というのも、第一、亀ヶ崎という名も、慶長八年に酒田の港に大亀が這い上がったのを。当時の庄内を領有していた最上義光に酒田の役人が注進したところが、大いに縁起がよいと悦んで、東禅寺城を亀ヶ崎城、大梵寺を鶴ヶ丘城、尾浦を大山と、それぞれお目出度く改名して、御代万歳と悦に入ったのがはじまりということである。

 それより以前の鵜渡川原(鵜殿河原)こそ、地所相応の名前であったと思われる。

 すなわち最上川の河口近く、幾変化する地形に自然の力がかもし出す生々の気が、日本紀神代巻ではないが、砂州に泥が流れ寄った所に自然に根を張って蔓延するのが葦で(神代巻に、いわゆるウマシ・アシカビ)、この葦原の所に居を定めて住んだ人々を祖先として、幾百先年の間に名詮自称の鵜殿河原ではないかと考える。

 ウド川原とは鵜殿河原で、即ち葦原であったと思う。ここに半漁半農の聚落ができたのがウド川原と見て如何だろうか。尤も、鵜殿河原の鵜殿とは、つまり葦の一名で、即ち今の大阪湾に注ぐ淀河口あたりのものが有名であるところから、この名が出来たと思われる。

 さて、我が酒田でも、また対岸の宮の浦でも、最上川の河口ではデルタの出来る所に萱生の沖(起)上地の生ずるのは自然であるが、その開拓は、またとても容易ではなかった事と思われる。したがって聚落をなして農業を励むという程度には、なかなか骨の折れる事であったろうし、それで手近の漁業の方が、或いは先んじたのではなかったろうか(『 亀ケ崎史話』 )。

 四つ目は、アイヌ語から推して、矢戦があったところという説であるが、真偽のほどは不明である。
吉田東伍が編集した『 大日本地名辞書』 には、「鵜殿河原」という夕イトルで、「今、鵜殿河原」という。一名鵜川、酒田の津市(港市)の東南に連接する大邑にして、川南ならびに松山より酒田へ入るの門戸にあたる。
最上川は村の南より西を続り、海洋に放つ。されば対岸は飯森、宮浦なり」とある。

 以上、鵜渡川原の地名発祥についての四つの説のうち、(1)亀ケ崎の位置が海岸線に発達してできた砂州の内側、すなわち「ウト」(空)にあたることから、ウト・空・鵜渡と名付けられたとする説とり
(2)酒田湊が海運の発達にともない京都・大坂との交易が盛んになり、大阪湾から淀川を北東に遡上したところにある葦の特産で有名な「鵜殿」が、最上川河岸の葦の群生と類似していることから、当地に「鵜渡河原」と名付けたとする説の二つが有力であることを述べ、後証を待つこととする。

鵜川について

 かつて亀ケ崎の東側、旧最上川の流路・古川を含む一帯を鵜川と称していた。これは正しく「鵜の川」のことであり、鵜による漁猟の行われていたところとも考えられるが、その事実については明らかでな
「鵜川」と発音する地名は全国にも数カ所見られるが、鵜川を「うせん」と読む事例はほとんどない。たとえば滋賀県には、竜王町ち高島町に「鵜川」と名のつく地名があり、竜王町の場合は、祖父川で鵜を扱い、漁猟をしていたことによる地名と伝えている。また、「鵜川」と称する川が琵琶湖に注いでおり、その説明に「かつてこの辺にて鵜をつかいしなるべし」とある。
 また、秋田県八郎潟北方に鵜川村がある。現在は八竜町鵜川となっている。この地で鵜川氏を名乗る者もいるが、鵜という鳥との関連については不明である。亀ケ崎の「鵜川」についての語源発祥の解明はまだなされていない。ひょっとすると、鵜による漁猟が行われていたところである可能性もある。あるいは、鵜に似かよった鳥が飛来するところであったのかもしれない。憶測ながら鵜渡川原という綴りから、「渡」と「原」を取り去って鵜川と名付けたのかもしれないと考える。

亀ケ崎

 地名「亀ケ崎」の由来については、よく知られているように慶長八年(1603)、酒田湊より大亀が這上がったのを最上義光が吉事として喜び、東禅寺城を亀ケ崎城に改称させたことによるものである。
 亀ケ崎城と改称されたあとも、本村全体を指す地名としては「鵜渡川原」が使用されてきた。亀ケ崎町という町名は、亀ケ崎城周辺東南側につけられた。亀ケ崎という呼称が鵜渡川原村全体を指す地名としてとり入れられるようになったのは、昭4年(1929)の酒田町との合併時からであり、「酒田町亀ケ崎区」(財産区)と命名されたのが最初である。

撮影機関:国土地理院, 撮影日:1996/10/23, 形式:白黒, 撮影高度:3,900m, 撮影縮尺:1/25,000

つづく
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