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司馬遼太郎作『 菜の花の沖』 の酒田 |
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(1) 本間光丘全盛期に高田屋嘉兵衛誕生 |
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司馬遼太郎作『 菜の花の沖』 は、淡路生まれの廻船業者・高田屋嘉兵衛の生涯をたて糸にして、日本の海運・物流史、ロシアとの外交史をテーマにした壮大な海のドラマである。『菜の花の沖』 には北前船のことは勿論、酒田湊や佐渡の小木湊、秋田の土崎湊も登場する。NHKは平成十二年(2000)秋、『菜の花の沖』をテレビドラマ化し、翌年一月、これを再放送した。一局田屋嘉兵衛役を竹中直人、おふさ役を鶴田真由が演じた。
高田屋嘉兵衛は明和六年(1769)1月1日、淡路島の西海岸、津名郡都志本村で生まれた。幼名を菊弥と称したが、田舎誰りは、“キャキャ”であった。貧農から身を立て、豪商・廻船業者として成功した嘉兵衛は、安政十年(1827)4月5日、生まれ故郷の淡路島で、59歳の生涯を閉じている。
高田屋嘉兵衛が生まれた明和六年ころ、酒田では、今時「公益の人」といわれ始めている本間光丘(富豪・大地主)の全盛期であった。光丘は明和七年(1770)庄内藩から五百石の士分に取り立てられ、ピンチに立たされていた庄内藩の財政を立て直すための改革、「安永御地盤立」「天明御地盤立」に参画している。 |
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(2 ) 酒田湊での第一声は、「気をつけろ!海が浅いぞ!」 |
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『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛が五百石積の「薬師丸」で酒田湊の沖合いに着いたのは、夜明け早々 になっている。
小説にその年代は記されていないが、嘉兵衛が船持船頭になる前のことなので、それは
寛政四、五年(1792〜3)のころと推定できる。『 酒田市史年表には、寛政七年(1795)嘉兵衛27歳の時、和泉屋伊兵衛の沖船頭として酒田へ来航したと記されている。光丘63歳の時である。
酒田市に寄贈され、現在光丘文庫に所蔵されている薬種問屋・西田家文書には、和泉屋伊兵衛の船が6〜7回酒田湊へ入っており、それは寛政期ころではないかと推測される。
高田屋嘉兵衛が酒田元湊の際に放った第一声は、「気をつけろノ海が浅いぞノ」であった。酒田湊は最上川の吐き出す大量の土砂によって浅瀬が多く、陸までたどり着けるのは、せいぜい百石(15)程度の船までであると嘉兵衛は聞いていた。司馬遼太郎が嘉兵衛に代弁させているように、最上川河口に形成された酒田湊は浅瀬が多く、大船の入湊には危険が伴っていた。大船は舵を上げて水戸教船(水路案内船、濡教船)に誘導され、ようやく湊に入り停泊することができた。
明治・大正・昭和期における酒田築港史を振り返ってみると、それは最上川が吐き出す土砂堆積との闘いの歴史であり、いかに酒田港を最上川から分離し、海湾港としての機能を高めるかという課題を引きずった、苦難の連続の歴史になっている。
最上川が日本海に吐き出す土砂の影響から酒田港を守るためには背割堤によって河口を分断し、堤防を海上沖合まで築くことであった。すなわち、現在の堤町→市営体育館→下瀬→ 赤灯台に至るまでの堤防がそれであり、防水・防砂・防波の大きな役割を果たしてくれている。 |
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(3) 樽とラッキョウで出迎え |
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日和山の見張りの者が、遠眼鏡ではるか沖合いを航行する船の帆印を識別すると、「オーッ!船が入るぞ!!」と、大声を響かせた。関わりのある廻船問屋の主人はさっそく羽織袴に着替え、番頭を従えて般船に乗り込み、沖合いに停泊している北前船に乗り移って、船頭をはじめとする乗組員に航海の労をねぎらった。その際、廻船問屋の主人は酒樽とラッキョウ漬を持参した。ラッキョウ漬は疲労回復のための一局級食品として、大切に扱われていた。
北前船から桟橋を渡って上陸した乗組員一同は、日和山の金毘羅神社に航海の無事を報賓(お礼参り)した。また、「薬湯」といわれる風呂屋が日和山近くにあり、旅の汚れを洗い流した。キリシタン弾圧や密貿易防止のため、酒田町奉行所や船番所の役員による船改めが行われ、異常の有無を裏書きした手形を発行した。 |
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( 4 ) 酒田は大厦軒をつらねる富豪の地 |
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『菜の花の沖』 には酒田の廻船問屋・加賀屋与助が船宿として登場し、高田屋嘉兵衛の乗る「薬師丸」に漕ぎ寄って挨拶をしている。作者の司馬遼太郎は、酒田の風情を加賀屋与助と高田屋嘉兵衛との会話を通して、次のように表現している。
与助「船頭様はお若うございますな」
嘉兵衛「未熟で、このあたりもはじめてです」
与助「酒田ではわたしども附舟のことを水戸教とよんでおります。水戸とは上方でいう濡(水路)のことでございます。最上川は力強い川でございますから海に出て海水と争いますために、海底の模様がたえず変わります」
河口は砂丘が発達し、とくに北岸ははるか天につらなるかとおもえるほどの砂の原で、いかにも北の国の浜といったような荒涼とした光景がつづいている。半刻(一時間)ばかり漕いでゆくと、錨地の船場前ハ船場町岸か)に着き、碇を入れた。岸辺からみる酒田の町は、水ぎわに大小の蔵をならべ、さまざまな問屋が瓦ぶきの大厦(大きい家)の軒をつらねて、音にきくこの商都のにぎわいを船上から想像することができた。
嘉兵衛は酒田の町に三日いた。“畠豪の地だ”とおもわざるをえない。
『菜の花の沖』は、このあと当地について、
�〆脳綫醂�域には、あたかも川というひもに数珠玉を通したように、いくつもの藩を寄生させていること、
�⊂ι丙酳�としての紅花のこと、尾花沢の鈴木清風(八右衛門)のこと、
��青苧(麻)に関わる蚊帳や奈良晒製造のこと、
�ざ畊松�人のこと、
などを、七ページにわたって書いている。 |
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( 5 ) 北前船は、買積みしながら動く船のマーケット |
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| 高田屋嘉兵衛は貧農の家に生まれたが、寛政二年(1790)には樽廻船の船子となり、のちには船頭として活躍している。寛政七年(1795)には千五百石積みの「辰悦丸」を建造し、翌八年から船持船頭として上方〜箱館間の海運輸送を開始している。かつて「辰悦丸」は酒田で建造されたという話題もあったが、同船建造に関する史料は酒田に残っていない。『菜の花の沖』
では、同船を秋田の土崎湊で建造したことにしている。その費用は船体一千両、船具三百両、その他百両で、合計一千四百両であった。 |
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嘉兵衛は大坂や兵庫で積み込んだ日常生活必需品の塩・砂糖・木綿・酒などを酒田で積み下ろし、酒田からは米穀を買い入れてこれを松前町箱館へ運び、同地で売り捌いた。帰りは箱館・松前から魚・昆布などの海産物や魚肥(干鰯・練)を仕入れ、日本海沿岸の湊で再び販売・買積みを繰り返しながら南下し、下関から瀬戸内海を航行して上方へ物資を運んだ。
さて「北前船」という呼称は、一体何にちなむものであろうか。私は素直に「北を前にする船」「北国を前にする船」「北国松前船」などの解釈でいいと考える。「北」とは北海道・蝦夷地のことであり、北国を指している力すなわち「北前船」の意味は、北国を目指して買積み・販売という商いをともなった海運経営形態船のことである。
寛文十二年(1672)の河村瑞賢によって開発された酒田湊を始発とする「西廻り航路」が安定期に入ったころ、近江商人等による北海道・蝦夷地の漁業権獲得もあって、北国の漁業は活発化の兆しを見せていた。これに加えて商品作物栽培の全国的な奨励や農地の拡大とともに、魚粕肥料の消費増もあずかって、北海道の干鰯や練は増産の一途をたどっていた。
江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)ころには、これまでの近江商人等による北海道・蝦夷地の流通独占が崩れ、廻船運漕業者によって、海運経営の一形態である北前船(買積船)時代の到来をもたらすのである。高田屋嘉兵衛が蝦夷地御用定雇船頭として三人扶持・苗字帯刀御免の身分になり、彼の活動がいっそう膨らんできた32歳のころ、酒田の本間光丘は」早和元年(1801)6月1日、満69歳の生涯閉じている。2001年(平成13年)が、「光丘メモリァル2001年」に当たる所以である。 |