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第三部
    ○ 最上川修築、酒田築港のエンジニア四天王
石井虎治郎野村年・坂田昌亮・坂上丈三郎
    ○ 山形県民の歌“広き野をながれゆけども最上川”
    ○ 川開き「酒田花火大会」の始まり   ※昭和28年の地図
    ○ 両羽橋      ○ 出羽大橋
    ○ 司馬遼太郎作「菜の花の沖」の酒田
    ○ 最上川憲章
    ○ あとがき      随想 「教師冥利と世相雑感」    

5 最上川河口港から海湾港へ
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 (1) 蒸気船の登場と内陸交通の発達
 (2) 陸羽西線・羽越線の開通と最上川舟運の終焉
 (3) 最上川改修工事と酒田河口同盟会の結成
 (4) 最上川改修工事の概要


(5) 最上川修築、酒田築港のエンジニア四天王
 酒田築港や最上川修築史をひもとく上で、忘れてならない四人のエンジニァがいる。
 それは石井虎治郎野村年・坂田昌亮・坂上丈三郎のことである。四人はいずれも中央官庁から派遣されてきた、内務省港湾土木技師である。

 石井虎治郎ば安政三年(1856)千葉県に生まれ、内務省に入ってから石巻湾・野蒜港の建設に携わっている。彼は明治十八年(1885)8月、内務省最上川治水工事のため酒田に着任した。当初の目的は、最上川における航路の確保であった。(同二十年、彼はひとまずこれを完工させ、酒田築港の足がかりを築いた。工事はその後も継続して行われたが、大正五年(1916)10月27日、61歳で没した。明治三十四年(1901)11月、有志らが日和山公園に「石井君治水紀功碑」を建立した。

 野村年は明治六年(1873)名古屋で生まれ、内務省土木技師となり、大正七年(1918)最上川改修事務所の主任として酒田に着任した。彼は最上川改修事務所開設以来、最初の主任技師として活躍した。ところが大正12年6月日、官命によって欧州各国の河川改修・築港工事を視察中、イタリアのポンペイ郊外で自動車が転覆、重傷を負ってそのまま回復することなく、51歳で客死した。

 坂田昌亮は大正六年(1917)8月内務省技師となり、翌7年2月、最上川改修事務所に着任した。
同12年7月、野村年の急死により、最上川改修事務所主任となった。昭和3年(1928)4月に、新潟土木出張所工務部長として転任することになるが、それまで酒田商業会議所特別議員であった。彼は酒田港第二種重要港湾編入に際して、「酒田築港のことは貴地方の先覚者より数十年来その必要を認められ、如何にこれを解決するか、如何にこれを実現するかは、久しきにわたり懸案となっていた。今日に至るまでの努力と苦心とは、ただごとではなかったのである。由来、日本海を彷徨する無限の漂砂と最上川の吐き出す多量の流砂に加えて北海の怒涛は、もの凄い威力を示している。(略)仕事を進めては自然の威力に対し困難を極め、かっ破壊され、なすすべを失うこともあろう。もし最後に至り、貢踏進巡することあらば、それこそこれまで要した莫大な工費を、日本海の藻屑として放棄するに等しい」と、コメントした。

 坂上丈三郎は福島県二本松町生まれで、大正八年(1919)7月、最上川改修事務所に着任した。
昭和三年(1928)4月、坂田昌亮に代わって最上川改修事務所主任・酒田港修築事務所主任となった。彼は酒田商工会議所顧問でもあった。坂上は酒田港第二種重要港湾編入に際して、「酒田港修築は最上川改修工事と併工されて野村技師より坂田技師に移り、諸工事は難工事中の難工事に数えられている。酒田港修築は、未だ骨組み時代である。酒田港が日本海側の枢要港として面目を発揮するには万難に耐え、勇断直進に当たる地方民の協力と力援をまたなければならない」と、コメントした。

 野村・坂田・坂上は、いずれも当時の帝国大学工学部等を卒業した俊秀であった。
 
(6) 山形県民の歌“広き野をながれゆけども最上川・・・・”
 東宮殿下(後の昭和天皇)は、宮城県で行われる陸軍特別大演習統監に先立ち、大正十四年(1925)10月14日酒田へ行啓され、本間家別荘を御泊所とされた。

 この日殿下は午後1時45分に御着きになり、三浦実生県知事先導のもと、自動車で祖父山下〜寺町〜中町〜荒町〜桜小路を経て、日和山公園に到着された。展望台より酒田築港・最上川改修工事の状況をご覧になり、内務技師・坂田昌亮より説明をうけられた。この後、日枝神社・光丘神社・光丘文庫に立ち寄られ、荒木彦助文庫長より本間光丘遺物や蔵書等について説明をうけられた。さらに東宮殿下は、台町〜荒町〜秋田町〜本町通り〜稲荷小路を経て、山居倉庫を見学された。荒木幸吉酒田商業会議所会頭は中里重吉町長と共に終始殿下に供奉し、歓迎の町会議員・商業会議所議員らも、殿下のご機嫌を奉伺した。なお、内大臣・牧野伸顕ほか16人が随行した。

 大正十五年(昭和元年・1926)の宮中歌会始めで、東宮殿下は酒田の印象を
 と、詠まれた。入江為守侍従長の書になる歌碑が、昭和三年(1928)10月、日和山公園に建立された。同4年には、御製歌が山形県民歌に指定された。

 東宮殿下行啓後の大正15年12月17日、大正天皇の病が急変されたため、酒田商業会議所は臨時総会を開き、議員一同起立最敬礼のなか、荒木幸吉会頭が次の電奏文を以て天機を奉伺した。「天皇陛下御不例の趣を拝承し、恐懼惜く所を知らず、謹みて天機を奉伺し、御平癒の速かならんことを祈り奉る」

 (7) 酒田港が第二種重要港湾に昇格

(8) 川開き「酒田花火大会」の始まり
 酒田港第二種重要港湾編入を祝賀する全町あげてのイべントが、昭和四年(1929)7月25日(『 会議所報』)盛大に繰り広げられた。まず琢成第二尋常小学校体操場では、関係者600人が参列して祝意を表した。

 酒田商工会議所会頭・荒木幸吉は、「歴代の会頭本問題に関し苦辛画策、奔走することほとんど五代30年間に及び、この快報に接し、地下の霊魂、また大いに慰するところあるべし。(略)たまたま明治四十三年(1910)、政府が両羽の沿岸に一つの商港を設定しようとした時、酒田港は船川港秋田県男鹿市とその選を争ったが敗れてしまった。

 そこで本県は150万円の工費を負担し、最上川改修工事の付帯事業として本港の修築を企て、3000トン級汽船の出入りを目標とした。また、酒田港調査会を設置し、海陸連絡の設備を検討してきた。進んで百年の大計を樹立するには、本港を重要港湾に編入する以外にはないことを、しばしば政府や港湾協会に陳情請願してきたところであり、他日、本工事完成の暁には、産業の開発、貿易の拡張に偉大な効果を奏する」と、祝辞を述べた。このあと小幡楼において港湾協会や県関係者らを招いて祝宴が開かれ、芸妓連の手踊りもあって「酒田港昇格万歳」を三唱し、散会した。この日、炎暑焼くがごとき真夏の太陽のもと、有志による仮装行列が市中を練り回り、喝采を博した。夕方から夜にかけて、酒田商工組合連合会主催による花火大会が催され、仕掛け花火や早打ち花火、その他、大小百数十発が船場町対岸の下中島から打ち上げられ、大歓声と拍手のうちに、夜10時花火大会を終了した。この日、市中は夜更けまで、近郷近在から駆けつけた見物客で雑踏を極めた。

 この祝賀花火大会が大好評であったことから川開き花火大会継続の声が一局まり、以後、毎年この時期に、酒田商工業組合連合会主催、酒田商工会議所後援のもと、恒例行事として花火大会が実施されるようになった。真夏の夜空を彩る、光と色と音のページェントの始まりであった。

 翌、昭和五年(1930)7月24日の花火大会では、打ち上げ開始前に最上川改修工事や酒田築港関係者らが、三隻の艀船に分乗して修政式を挙行し、最上川修築・酒田築港工事の竣工と安全を祈願した。当夜は近郷近在から集まった見物客で、市内はもちろん、日和山公園や船場町川岸、大浜海岸一帯が埋めっくされたという。しかし、9時頃に驟雨到来して花火を中止、翌日再開し、盛況裏に終了した。 昭和六年(1931)7月24日の第三回花火大会では、同じく下中島から花火が打ち上げられた。雨上がりの港内には遊覧船70余般が浮かび、美観を添えた。昭和十年ころには芸者を乗せた屋形船や遊覧船、ある旨囲以乗って見物する者も現われ、港内はいっそう賑わいを見せた。

 降って平成八年(1996)8月3日の花火大会では、シンセサイザーに合わせて、夜空をダンスさせたり、「オーロラ幻想」「花火ファンタジー」「炎のシャワー」「水上スターマイン」などのタイトルもよろしく、コンピューターを駆使した演出もあって、見ごたえあるものとなった。
平成十五年(2003)8月2日、出羽大橋四車線化工事に伴ない、花火大会の会場を、両羽橋〜出羽大橋間に移動し、「酒田花火ショー2003星の火祭り」を、盛大に繰り広げた。
       (平成9年12月刊行『 酒田商工会議所百年誌』 の著者執筆部分より
6 東禅寺沼・権吉沼・逆水門
   (1) 東禅寺沼
   (2) 権吉沼
   (3) 逆水門
7 中瀬渡船
   (1) 中瀬渡船 白鳥パーク←→飯森山線
   (2) 鵜渡川原村・袖浦村漁村組合による共同経営
8 宮野浦渡船

9 最上川への架橋

(1) 両羽橋
 最上川を挟んでの川北・川南を結ぶ架橋に関する陳情は、明治十六年(1883)ころから早くも始まっていた。しかしその実現は、かなり遅れた。明治二十六年(1893)、川北遊摺部〜川南新堀間に、木橋が架けられることになった。工費12万3,322円の県営事業として着工し、翌27年9月に架橋工事は竣工した。この工事費の一部に、ワッパ騒動返還金が充てられたといわれている。

 鵜渡川原村史料「明治26年告示公用書類綴込」によると、当初の工事費は2万9,240 円28銭8厘で、庄内三郡に5,000円の寄付割当があった。その内訳によると、飽海郡に3,500円であり、そのうち郷村に500円、酒田町に3,000円であった。東田川郡には900円、西田川郡には600円の割当があった。鵜渡川原村には1円98銭割当てられ、明治24年10月10日、村長新関弥惣吉は各区長に、寄付通達があった旨の連絡をした。
工事請負者は、飽海郡北俣村大字鹿島の浅井市郎・同銀吾父子であった。この橋梁工事では、機械考案家・中村太助の水中穿孔機が役立ったといわれている。

 「両羽橋」という橋名の由来は、羽前国と羽後国を結ぶ掛け橋という意味からきており、これと類似している例は、武蔵国と下総国を結ぶ「両国橋」がある。最上川に架けられた橋としては五番目となる両羽橋(木製)は、幾何学的な美しさが評判であった。

 明治27年10月22日の大地震でも被害を受けず、この後、大正3年(1914)に架替工事を行った。昭和の初めころになると橋の破損がひどくなり、自転車で通ると橋板が浮いて「カタン、カタン」と音がするようになった。ところどころ橋板の無い箇所もあり、危険になっていた。川南へ行くバスは最上町を通って、大宮・遊摺部・新堀を経由していた。当時は「乗り合いバス」といい、ツバメ自動車の青い旗を家の軒端に立てておくと、バスが止まってくれた。バスは手を挙げると、どこでも停止して乗せてくれたという。

 木製の両羽橋は、昭和八から十年(1933〜35)ころに橋の中ほどが大きく落ち込んで下がってしまい、バスの通行は不可能となった。新両羽橋は、総工費76万8848円を以て昭和五年(1930)橋脚工事に着工し、同11年(1936)8月に竣工した。架橋位置については異論もあったが、結局、現在の両羽町〜広田間に決定した。全長714メートルの鋼鉄製新両羽橋は、当時日本で第6位、東北で第一位の長さであった。
架橋工事の人夫等は、上方方面から来た気の荒い鳶職が多く、いつも喧嘩がつきものであった。工事人夫等の中には、鵜渡川原村に民泊する者もいた。

 昭和八年(1933)に鶴岡〜酒田間の新国道工事が開始され、同十七年(1942)9月に完成した。昭和二十年(1945)8月10日の連合軍による酒田空襲の際、両羽橋も爆撃の対象となった。しかし通行人への機銃掃射や爆強投下はあったが、なぜか命中せず、両羽橋東側堤外地の畑に爆弾が二、三発落とされ、十数メートルの穴が空いただけであった。アメリカ軍は日本の敗戦が間近に迫っていることを察しており、終戦後の進駐・駐留のことを配慮して、両羽橋などの重要施設をわざと破壊しなかったものとみられている。事実終戦直後、進駐軍は現在の鳥海自動車学園前の旧国道七号線を利用して、飛行機の離着陸を盛んに行い、その際に送迎用ジープが両羽橋を何度も往復した。

 その後、鉄製両羽橋も老朽化が激しくなり、昭和三十九年(1964)床板の大修理を行った。同五十一年(1976)には、国道七号線および国道四十七号線交叉点で、年々増加する交通量を捌き切れなくなり、総工費129億円を以て両羽橋東側に鋼橋新橋を架橋し、同51年11月2日、新両羽橋が竣工した。これにより、新・旧橋ともに一方交通となり、一日平均三万台を超す車両が両羽橋を往来するようになった。両羽橋は昭和四十七年(1972)6月に「出羽大橋」が竣工するまで、山形県下最長の橋としてその端正な美しさを誇っていた。

 交通量の増加により、平成三年(1991)11月、川南から川北への下り二車線が竣功し、上り二車線(東側線)と合せた両羽橋の四車線化が実現した。

(2) 出羽大
 酒田市の中心部と、海岸線十里塚・浜中・湯野浜・加茂・温海を結ぶ出羽大橋は、約10億円の予算を以て、昭和四十三年(1968)1月17日に起工式を行い、同47年(1972)6月17日に竣工・開通式を挙行した。最上川と京田川を一気に渡る全長817メートルは、県下第一の長橋である。酒田〜温海線の整備とともに、日本海側の主要道になりつつある。一日の車両通行量は、平均一万台を超えている。

 かつて、最上川を挟んだ酒田〜宮野浦間には、県営事業による渡船が往来していた。しかし波浪の高い荒天の日は運航することが多く、東方上流四キロメートルにある両羽橋を渡っで迅回した。出羽大橋完成とともに、長年市民に親しまれてきた宮野浦渡船は、この年その姿を消した。出羽大橋東側の中州には、毎冬シべリア方面から飛来する数千羽の白鳥が羽を休め、市民の目を楽しませてくれている、スワンパークも整備されている。

 夏は酒田港まつり「花火大会」が催され、秋には「いも煮会」が近くの河川敷で開かれるなど、出羽大橋周辺は市民の憩いの場になっている。平成4年(1992)8月には「六七国体」ボート競技が最上川河口で開催され、全国から選手が来酒した。
 平成十五年(2003)から、出羽大橋四車線化工事を施工中である。
  (3) 新小牧川水門

10  最上川河口河川敷の活用
   (1) 萱採取地とし ての活用
   (2) 堤外地の開墾
   (3) 終戦後の堤外地利用
11 最上川と鮭漁
   (1) 鮭漁場の開発
   (2) 漁獲期、漁獲高、漁法
   (3) 「鵜渡川原村漁業組合」の結成
   (4) 「両羽非出資漁業会」から「両羽漁業協同組合」
   (5) 鮭漁にまつわる風習
   (6) 漁場の荒廃
12 北前船と酒田
   (1) 越前敦賀と酒田
     ○「ふくいクルージング・スクール」
     ○ 日本海側への上方文化中継湊・敦賀
  
司馬遼太郎作『 菜の花の沖』 の酒田
(1)  本間光丘全盛期に高田屋嘉兵衛誕生
 司馬遼太郎作『 菜の花の沖』 は、淡路生まれの廻船業者・高田屋嘉兵衛の生涯をたて糸にして、日本の海運・物流史、ロシアとの外交史をテーマにした壮大な海のドラマである。『菜の花の沖』 には北前船のことは勿論、酒田湊や佐渡の小木湊、秋田の土崎湊も登場する。NHKは平成十二年(2000)秋、『菜の花の沖』をテレビドラマ化し、翌年一月、これを再放送した。一局田屋嘉兵衛役を竹中直人、おふさ役を鶴田真由が演じた。

 高田屋嘉兵衛は明和六年(1769)1月1日、淡路島の西海岸、津名郡都志本村で生まれた。幼名を菊弥と称したが、田舎誰りは、“キャキャ”であった。貧農から身を立て、豪商・廻船業者として成功した嘉兵衛は、安政十年(1827)4月5日、生まれ故郷の淡路島で、59歳の生涯を閉じている。
高田屋嘉兵衛が生まれた明和六年ころ、酒田では、今時「公益の人」といわれ始めている本間光丘(富豪・大地主)の全盛期であった。光丘は明和七年(1770)庄内藩から五百石の士分に取り立てられ、ピンチに立たされていた庄内藩の財政を立て直すための改革、「安永御地盤立」「天明御地盤立」に参画している。
(2 ) 酒田湊での第一声は、「気をつけろ!海が浅いぞ!」
『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛が五百石積の「薬師丸」で酒田湊の沖合いに着いたのは、夜明け早々 になっている。
小説にその年代は記されていないが、嘉兵衛が船持船頭になる前のことなので、それは
寛政四、五年(1792〜3)のころと推定できる。『 酒田市史年表には、寛政七年(1795)嘉兵衛27歳の時、和泉屋伊兵衛の沖船頭として酒田へ来航したと記されている。光丘63歳の時である。
酒田市に寄贈され、現在光丘文庫に所蔵されている薬種問屋・西田家文書には、和泉屋伊兵衛の船が6〜7回酒田湊へ入っており、それは寛政期ころではないかと推測される。
高田屋嘉兵衛が酒田元湊の際に放った第一声は、「気をつけろノ海が浅いぞノ」であった。酒田湊は最上川の吐き出す大量の土砂によって浅瀬が多く、陸までたどり着けるのは、せいぜい百石(15)程度の船までであると嘉兵衛は聞いていた。司馬遼太郎が嘉兵衛に代弁させているように、最上川河口に形成された酒田湊は浅瀬が多く、大船の入湊には危険が伴っていた。大船は舵を上げて水戸教船(水路案内船、濡教船)に誘導され、ようやく湊に入り停泊することができた。
明治・大正・昭和期における酒田築港史を振り返ってみると、それは最上川が吐き出す土砂堆積との闘いの歴史であり、いかに酒田港を最上川から分離し、海湾港としての機能を高めるかという課題を引きずった、苦難の連続の歴史になっている。
最上川が日本海に吐き出す土砂の影響から酒田港を守るためには背割堤によって河口を分断し、堤防を海上沖合まで築くことであった。すなわち、現在の堤町→市営体育館→下瀬→ 赤灯台に至るまでの堤防がそれであり、防水・防砂・防波の大きな役割を果たしてくれている。
(3) 樽とラッキョウで出迎え
 日和山の見張りの者が、遠眼鏡ではるか沖合いを航行する船の帆印を識別すると、「オーッ!船が入るぞ!!」と、大声を響かせた。関わりのある廻船問屋の主人はさっそく羽織袴に着替え、番頭を従えて般船に乗り込み、沖合いに停泊している北前船に乗り移って、船頭をはじめとする乗組員に航海の労をねぎらった。その際、廻船問屋の主人は酒樽とラッキョウ漬を持参した。ラッキョウ漬は疲労回復のための一局級食品として、大切に扱われていた。
 北前船から桟橋を渡って上陸した乗組員一同は、日和山の金毘羅神社に航海の無事を報賓(お礼参り)した。また、「薬湯」といわれる風呂屋が日和山近くにあり、旅の汚れを洗い流した。キリシタン弾圧や密貿易防止のため、酒田町奉行所や船番所の役員による船改めが行われ、異常の有無を裏書きした手形を発行した。
( 4 ) 酒田は大厦軒をつらねる富豪の地
 『菜の花の沖』 には酒田の廻船問屋・加賀屋与助が船宿として登場し、高田屋嘉兵衛の乗る「薬師丸」に漕ぎ寄って挨拶をしている。作者の司馬遼太郎は、酒田の風情を加賀屋与助と高田屋嘉兵衛との会話を通して、次のように表現している。
 与助「船頭様はお若うございますな」
 嘉兵衛「未熟で、このあたりもはじめてです」
 与助「酒田ではわたしども附舟のことを水戸教とよんでおります。水戸とは上方でいう濡(水路)のことでございます。最上川は力強い川でございますから海に出て海水と争いますために、海底の模様がたえず変わります」

 河口は砂丘が発達し、とくに北岸ははるか天につらなるかとおもえるほどの砂の原で、いかにも北の国の浜といったような荒涼とした光景がつづいている。半刻(一時間)ばかり漕いでゆくと、錨地の船場前ハ船場町岸か)に着き、碇を入れた。岸辺からみる酒田の町は、水ぎわに大小の蔵をならべ、さまざまな問屋が瓦ぶきの大厦(大きい家)の軒をつらねて、音にきくこの商都のにぎわいを船上から想像することができた。

 嘉兵衛は酒田の町に三日いた。“畠豪の地だ”とおもわざるをえない。
  『菜の花の沖』は、このあと当地について、
 〆脳綫醂域には、あたかも川というひもに数珠玉を通したように、いくつもの藩を寄生させていること、
 ⊂ι丙酳としての紅花のこと、尾花沢の鈴木清風(八右衛門)のこと、
 青苧(麻)に関わる蚊帳や奈良晒製造のこと、
 ざ畊松人のこと、
などを、七ページにわたって書いている。
( 5 ) 北前船は、買積みしながら動く船のマーケット
 
 高田屋嘉兵衛は貧農の家に生まれたが、寛政二年(1790)には樽廻船の船子となり、のちには船頭として活躍している。寛政七年(1795)には千五百石積みの「辰悦丸」を建造し、翌八年から船持船頭として上方〜箱館間の海運輸送を開始している。かつて「辰悦丸」は酒田で建造されたという話題もあったが、同船建造に関する史料は酒田に残っていない。『菜の花の沖』 では、同船を秋田の土崎湊で建造したことにしている。その費用は船体一千両、船具三百両、その他百両で、合計一千四百両であった。
 嘉兵衛は大坂や兵庫で積み込んだ日常生活必需品の塩・砂糖・木綿・酒などを酒田で積み下ろし、酒田からは米穀を買い入れてこれを松前町箱館へ運び、同地で売り捌いた。帰りは箱館・松前から魚・昆布などの海産物や魚肥(干鰯・練)を仕入れ、日本海沿岸の湊で再び販売・買積みを繰り返しながら南下し、下関から瀬戸内海を航行して上方へ物資を運んだ。

 さて「北前船」という呼称は、一体何にちなむものであろうか。私は素直に「北を前にする船」「北国を前にする船」「北国松前船」などの解釈でいいと考える。「北」とは北海道・蝦夷地のことであり、北国を指している力すなわち「北前船」の意味は、北国を目指して買積み・販売という商いをともなった海運経営形態船のことである。
寛文十二年(1672)の河村瑞賢によって開発された酒田湊を始発とする「西廻り航路」が安定期に入ったころ、近江商人等による北海道・蝦夷地の漁業権獲得もあって、北国の漁業は活発化の兆しを見せていた。これに加えて商品作物栽培の全国的な奨励や農地の拡大とともに、魚粕肥料の消費増もあずかって、北海道の干鰯や練は増産の一途をたどっていた。
 江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)ころには、これまでの近江商人等による北海道・蝦夷地の流通独占が崩れ、廻船運漕業者によって、海運経営の一形態である北前船(買積船)時代の到来をもたらすのである。高田屋嘉兵衛が蝦夷地御用定雇船頭として三人扶持・苗字帯刀御免の身分になり、彼の活動がいっそう膨らんできた32歳のころ、酒田の本間光丘は」早和元年(1801)6月1日、満69歳の生涯閉じている。2001年(平成13年)が、「光丘メモリァル2001年」に当たる所以である。
 
(3) 北前船についてQ&A
     ○なぜ北前船が歴史上に登場したのか。そのポイントは
     ○北前船はいつごろ始まり、いつごろまで続いたか
     ○「場所請負制度」「「場所請負人」とは何か
     ○北前船の船体の大きさと、舟形の特徴は
     ○北前船のコース例と寄港地の移出品例は
     ○北前船の乗組員数と船内生活は
   (4) 北前船がもたらした文化の具体例は   
     ○雛人形の伝来と普及
     ○木目込み人形
     ○調理の出汁に焼き煮干しや煮干しを使用
     ○京・上方言葉の伝播
     ○歌謡・俗謡・昔話の導入と伝播
     ○石材・石造文化の普及
        越後石
        御影石
        出雲型狛犬
        船玉大明神
        千石型船形・准胝観音
     ○船箪笥の制作
     ○焼物の伝来
        萩焼
        有田焼(伊万里焼)
     ○船絵馬
     ○屋根瓦製造技術の導入
     ○書幅・軸物・書籍の導入
     ○樹木の導入
   (5)「西田家文書」に見る北前船(あるいは廻船)の酒田入港
     ○「西田家文書」
     ○貴重な出船年月日と酒田船宿の記録        
        
13 川村瑞賢と港都酒田の発展
   (1)酒田の息吹
   (2)酒田市制50周年記念に川村瑞賢を顕彰
   (3)「西廻り航路」の始発湊を酒田に決定
   (4)川村瑞賢の来酒
   (5)幕僚米置き場・瑞賢庫の創設
   (6)「西廻り航路」初出帆は寛文十二年5月2日
   (7)酒田港のピンチ脱出と今後の課題
川村瑞賢
日和山公園
北前船
14 今、最上川
     (1)“「最上川」のあなたへ”小林功


 
(2)「最上川憲章」  土岐田正勝
 私たちの共有財産であり、これまで人々 の心を育んできてくれた自然資源となる海岸砂丘や河川、平野、田園、森林などが、知らず知らずのうちに侵食・汚染されていることに気付く。かつて日本の砂丘海岸は「白砂青松」という言葉で代表される存在であったが、現在は江線を波消ブロックが占め、「白砂青松」という言葉は死語に近くなってきた。今年は平野部の田んぼも、なぜかその面積を極端に狭めたように感じられた。

 三割減反政策の影響であろうか、大豆を植えた田んぼが目立ち、「田園まさに荒れんとす」という景観を一部で示していた。木材の低廉化により、人手を加えての森林整備が遅れていることも心配される。松くい虫被害が山形県から秋田県の海岸線に広がっており、その光景は想像を絶するものである。即席の通用しないことが森林造成の特徴である。後世のために、植樹・間伐作業をおろそかにしてはならない。

 今から77年前の大正末期に山形県を訪れた昭和天皇(東宮時代)は「広き野をながれゆけども最上川うみにいるまで濁らざりけり」(県民の歌)と、とうとうと流れる最上川を賛頌された。しかし、現在の最上川下流は濁流一歩手前の感があり、「濁らざりけり」は一 昔前のことになった。
最上川河口右岸に並流する形で酒田港に注ぐ川幅十メートルの小牧川は、生活排水の流入もあって、2年前まで県内で一番汚れている川というレッテルを張られてきた。

 私は今から50年前ごろ、最上川河口ではもちろん、小牧川でも泳いだことがある。多少濁ってはいたが、泳げない川ではなかった。現在の最上川河口では、真夏でも泳いでいる人を見かけることはない。
現状の最上川で泳いだ場合、肌に泥土や油性の皮膜のようなものがくっついている感じを、川から上がってから味わうはずである。小牧川は私の居住地から50メートルと離れていないところを流れているので、これまで山形県内汚染河川第一位という不名誉に関心を持ってきた。
小牧川をワーストワンから脱出させるための取り組みが、自治会などを中心に展開された。「小牧川をきれいにする会」が結成され、小牧川の一斉清掃をはじめ、浄化作戦も始まった。国や県当局のてこ入れもあり、木炭による浄化実験も行われた。微生物が酸素を使って水中の有機物を分解するときに必要とされる酸素量・BOD (生物化学的酸素要求量)も低下し、平成十二年、ついに河川水質ランキング、ワーストワンから脱出することができた。

 最上川は日本で7番目に長い川であり、しかも沿川各市町村を縦断する形で日本海に注いでいることから、山形県の「母なる川」と称されてきた。この日本でも有数の名川・最上川を水質汚染から防ぎ、川を大事にする意識を県民に普及することをも兼ねて、次のことを考えた。それは県内を縦断して流れ、県民生活に密接な関わりを持っ私たちの最上川であるという自覚から「最上川憲章」なるものをつくり、治水・利水・生活環境の総合的な面から県民にアピールしてみてはどうであろうか、ということである。

 自治体名の入った「○○憲章」は各地に見られる。しかしこの際、山形県民を最上川で結束した形での「最上川憲章」制定は、いかがなものであろうか。来年は全国から大勢の方々 を招いて、県内各地で国民文化祭が繰り広げられる。国民文化祭は、山形県の文化を全国に紹介・発信できる絶好の機会である。当然のことながら、全国に知れ渡っている「最上川」に関心を寄せられる方々 がたくさんおられることは間違いない。

 山形県民の心が、最上川で一つにまとまっているという心意気を全国に示すためにも「最上川憲章」をつくり、自然保護と心の豊かさの増幅に努めていることをアピールしたいと考えた。
                (平成14年「2002〕12月8日、『 山形新聞』「日曜随想」欄掲載文)

  (3)地図と写真に見る現在の最上川河口
15 最上川と酒田港 その歴史と文化略年表
  
あとがき
 幼年のころ、今のスワンパーク付近で水泳や鯊(はぜ)釣りをした筆者にとって、最上川は絶好の遊び場であり、心身を育んでくれた、正に、母なる川、であった。

 そのころ、一度最上川洪水が発生してそれが治まった後は、小河川の淀みに鮒や鯉、鯰がたむろしていて、それをバケツ一杯になるまでタモ網でつかまえた話は、もう遠い昔の語り草になってしまった。
 現在の最上川河口では、真夏でも泳ぐ人の姿を見かけることはない。代わってマリンジェットなるものが、威勢よくしぶきを立ち上げて、猛スピードで出羽大橋を潜り抜けていく時代になった。

 ところで環境保全の問題が、地球規模のテーマになってから久しい。平成14年(2002)、最上川の環境を後世に引継いでいこうと、「美しい山形・最上川100年プラン」が策定された。
 きれいな最上川の水を維持できるかどうかは、山形県民の生命保持に直接関わることであり、その成否は、わたくしたち一人一人の力量にかかってきた。人間は自然界の一生物であり、水なくしてその生命維持は不可能である。わたくしたちは、先人が遺してくれたきれいな自然環境を大切にしていくことを、最優先課題としていかなければならなくなった。最近、最上川は自然遺産と文化遺産を併せもつ、世界複合遺産であるとの声がもちあがり、住民が水辺に親しむことのできる河川空間づくりを目指す方向づけがなされたことは幸いである。

 私はこれまで御依頼を受けて、最上川河口や酒田港の歴史について、『 亀ケ崎史』『酒田市史上・下巻』『酒田商工会議所百年誌』『酒田港繁盛史』『宮海の歴史』『庄内の歴史』 などに述べてきた。今回了解を得て、それらの中から必要項目を抽出し、さらに補足しながら一冊の本にまとめてみた。

 とくに酒田と最上川との関りや、酒田市(町)の発展と酒田港の盛衰について、御理解を深められたならば、筆者にとって幸いである。執筆にあたって御協力をいただいた国土交通省東北地方整備局酒田港湾事務所、同酒田河川国道事所、山形県酒田海洋センター、鶴岡市郷土資料館、本間美術館、酒田市立図書館光丘文庫、酒田市立資料館、酒田商工会議所、山形新聞社、コミュニティ新聞社、元酒田市亀ケ崎農家区長阿部藤吉氏、藤景子氏、糸谷聡氏、佐藤昇一氏、小林功氏、JA 庄内印刷に、深甚の謝意を表する次第です。
             平成16年(2004)11月3日  土岐田正勝
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