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第二部
       ○ 徳尼公(とくにこう)と三十六人衆
       ○ 義経伝説
       ○ 酒田三十六人衆の活躍
       ○ 酒田 豪族の面々
       ○ 氾濫による最上川河道のうつり変わり      第一次開削       第二次開削
       ○ 明治十二年(1879年)の大洪水
            ●山居谷地締切り   ●下瀬の開発     ●中瀬への移転    ●山居嶋の開発
       ○ 最上川・赤川・日向川は、ともに人工河口

2 酒田三十六人衆の活躍
(1) 徳尼公(とくにこう)と三十六人衆、その逃亡伝説
 建保五年(1217)4月15日、最上川河口左岸・向う酒田の泉流寺林の草庵で、87歳の尼さんが亡くなった。

 この方が酒田三十六人衆由緒書に出てくる平泉藤原秀衡の妹「徳尼公」である。しかし秀衡の妹ではなく、後妻の「泉の方」で実際は「ばばさま」と呼ぶ孫もいたらしい。文治五年(1189)、藤原泰衡が源義経の首を頼朝に差し出して平泉は没落、泰衡をはじめ一族が殺された。
 泰衡には万壽という一子がいた。泉の方は孫の万壽とともに、戦火に燃える平泉を逃れ、三十六騎の徳尼公と称された。一行は秋田の久保田からさらに南下をし、羽黒山東麓の立谷沢地内、妹沢に隠れ住んだ。

 どうして羽黒山の近くに来たものであろうかと素朴な疑問は残るが、出羽の庄内は藤原氏の勢力圏であったことと、そのころの羽黒山は、衆徒三千人を擁した修験道の山として、東北一帯にその名が鳴り響き、隠然たる勢力を保持していたので、その袖にすがって頼って来たものであろうと推察できる。
徳尼公
 
 ところが源頼朝は、戦勝の報賽に家臣土肥実衡に命じて羽黒に黄金堂を建立させることになった。そこで頼朝の探索を恐れた徳尼公らは、さらに最上川河口の袖の浦に逃れてきた。子の万壽は10歳に満たないので、元服するまで「ばばさま」のもとで成長し、その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、「牧畑」を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住し た。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、「巻幡(まきはた)」姓を名乗っている。

 羽黒山黄金堂には徳尼公の木像が伝わり、羽黒山斎館には位牌が安置されている。
平泉の初代清衡は、白河から外ケ浜に至る道を開拓しており、二代基衡の子秀衡は、鎮守府将軍となった。基衡は次男秀栄を、十三浦の福島城主安倍氏季の養子にやった。秀栄は十三湊の築港、造船、異国船との交易に力を出した。頼朝が奥州を平定したとき、秀栄は老齢で自ら建立した檀林寺で仏門にあり、その子秀基が継いでいて事件に罪なしと、本領安堵された。

 平泉から津軽十三湖までの道は開いていたし、また受け入れる一族もいた。それなのに徳尼公と三十六騎が秋田から由利・飽海へと南下してきたのは、敵の裏をかく逃亡の道だったのであろうか。いずれにしても、信ずべき史料に乏しく、これらを偽説であると否定する学者も出てきた。徳尼公の家臣三十六人は酒田に土着、それぞれ廻船問屋を営み、そのかたわら町の年寄役として行政にたずさわり、日本海岸きっての湊町として栄えた酒田湊の基礎をつくった。
 平成16年(2004)3月、徳尼公像・天井絵・棟札を内臓する泉流寺の「徳尼公廟」が、酒田文化財に指定された。

(2) 源義経伝説
 源義経は、鎌倉幕府創立期に活躍した武将である。父は源義朝、母は九條院の雑仕(下級の女官)常盤である。
 幼名は牛若、通称九郎。「義経記」によると、義経の生まれた平治元年(1159)の暮れに平治の乱があり、この戦いで平氏と対立した父義朝は、翌年正月、敗走の途中殺された。牛若も母とともに捕われたが一命を助けられ、母の再婚した大蔵卿・藤原長成に養われた。 のち鞍馬山に送られたが、16歳のとき出家を嫌って陸奥の藤原秀衡を頼って奥州平泉におもむいた。

 治承四年(1180)兄頼朝の挙兵を知って、同年10月21日黄瀬川の陣で兄に対面、その後、壇の浦の合戦など、各地において平氏の軍勢を撃破し、はなばなしい戦功をたて、一躍名将としての名を馳せた。

 しかし兄頼朝にとって、壇の浦の戦いで安徳天皇と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺曲玉瓊勾玉)のうちの剣を失ったことは、義経の大きな戦功とは裏腹に、大きな衝撃であった。さらに朝廷が頼朝に無断で義経に官位を与えたことや、頼朝の側近側梶原景時が義経の専断・独断を訴えたことなどがこれに拍車をかけ、ついに義経追討の命が下った。
源義経
 やむなく義経は西海に逃れようとして船出したが暴風にあって難破し、その後、吉野・奈良・叡山・伊勢・美濃などを転々として隠れ歩いた。ついに、義経は奥州藤原氏を頼って越後から庄内へ向かった。
「念珠の関守きびしく、通るべきよしもなければ如何せんと仰せられ」とある。
 そのころ奥州に入る関所は、白河の関と出羽の念珠ケ関の二つであった。弁慶の機転により義経を身分の低い山伏に仕立てて二つの笈を持たせ、大きな若木の枝でしたたかに叩きながら、関守が呆気にとられている間に、無事木戸を通ったという。

 それから海岸の細道を通って三瀬の薬師堂に着き、出水のため2〜3日滞在した。
田川の豪族・田川太郎の一子が悪病に悩まされていた折柄、熊野山伏一行が三瀬にいると聞き及び、一行に祈祷を頼みに来た。義経たちは止むを得ず出かけ、数珠押しもんで祈祷し、首尾よく悪病をなおしたという。
それより大梵寺・鶴岡を通り、北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させ、清川の五所王子の前で一夜を明かし、最上川を遡った。

 なお、清川の斎藤家系譜(清川八郎の生家の系譜)に、次のことが書いてある。
 「義経潜行して清川に至るとき、斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待す。義経、弁慶をして羽黒山に代参せしむ(そのころの羽黒山表参道は、立谷沢村蜂子よりとした)。去るに臨んで佩る所の刀を解て寄贈す。刀はすなわち鬼王丸の作なり。今なお保存して家宝とすると。」

    最上川岩こす浪に月さへて よるをもろしき白糸の滝    義経
    最上川瀬々の岩なみ早ければ よらでぞ通る白糸の滝  北の方

 以上の歌が遺っているところを見ると、日中の人目を避け、夜に最上川を遡行したものと思う。文治三年(1187)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたが、頼りにしていた秀衡が死ぬと、翌四年2月、義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)が下り、京都・鎌倉からの藤原氏追求がきびしくなった。

 同五年閏4月30日、義経は藤原秀衡の子・泰衡のために、妻子とともに衣川館で殺され31歳の生涯を終えた。鞍馬山から奥州平泉の秀衡を頼っていったのは、行商人金売吉次のすすめと、その案内によるところが大きかったという

 
(3) 酒田三十六人衆の活躍
 酒田商人の中心として
 酒田は廻船問屋を中心とした商業交易都市として、江戸時代に飛躍的な発展をみせた湊町である。その背景に、三十六人衆による政治的・経済的・文化的諸活動があったことについては、これまでしばしば解説されてきたことである。

 ここでは、今に残るありし日の三十六人衆の活躍をしのんで、その精神文化的なものを含めた具体的事象についてたずねてみることにしよう。まずその一つに、戦国時代は大永年間(1521〜1528)ころ、向う酒田といわれた袖の浦地区から当酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本町を中心とした市街地づくりにはげみ、そこに居を構えた三十六人衆屋敷街の誕生をあげることができる。そこには現在国の指定文化財になっている旧鐙屋家をはじめとして、本間家・加賀屋(二木家)・西野家・後藤家・根上家・上林家などの廻船問屋や豪商たちが軒を連ねていた。
 二つ目は、今に伝わる旧町名の一部に、三十六人衆の氏名に由来するものがあったことである。その一つが、本町六丁目と七丁目の間にあった粕谷小路(粕谷源次郎の屋敷があった)であり、いま一つは、本町四丁目の横丁にあった和泉小路(上林和泉の屋敷があった)である。

 三つ目は、酒田町組の公用記録簿「三十六人御用帳」が現存していることである。この御用帳は、町年寄であった二木家から本間家に受け継がれて保存されてきたものであり、長期にわたる膨大な酒田の近世記録はたいへん貴重であり、注目を集めている。この御用帳によって、酒田町政と庄内藩との関わりや、三十六人衆そのものの役割を知ることができる。そのほか、三十六人衆の一員であった永田家・二木家・鐙屋家・上林家・尾関家・本間家などの古記録類が残されており、それらは酒田三十六人衆の活躍を書き留めている。

 四つ目は、三十六人衆を中心とした廻船問屋連中が、干石船や川舟を駆使して日本海や最上川を縦横に往来も、北陸・関西・関東方面や、内陸との物資交易を行った記録が残っていることである。
近世における酒田湊は、出船・入船の拠点として、まさに帆穏械立(帆柱が多く、林のように見えること)時代を迎えたのであった。

 ちなみに、河村瑞賢によって西廻り航路が開発されたころの元和三年(1683)には、毎月三百隻以上の出船入船があった。また、元禄十年(1697)の記録によると、酒田の川船有高は、合計三百六十艇であった。
酒田から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都・大阪・堺・伊勢の木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部・津軽・秋田の木材などがあった。

 また集荷場近くには、物資保管のための倉庫群が建てられた。代表的なものとしては、現前田製管本社付近に材木蔵、酒田商業高校グラウンド付近に庄内藩上蔵、実橋付近に山形蔵、日和山東南下に庄内藩下蔵、日和山西方に江戸幕府御用米置場(城米置場)、すなわち瑞賢庫などがあった。なお、これらの蔵々に何らかの関わりをもったであろうと推測される酒田の総問屋数は 安永二年(1773)において97軒であった

(4) 豊臣秀吉時代からの廻船事業
     

(5) 豪商の面々 粕谷家、永田家、加賀屋、上林家、本間家、鐙屋家

粕谷家

 平泉藤原氏の従臣で、地侍的存在であった粕谷家は、酒田三十六人衆のなかでもきわめて古い方であるo 記録によると、豊臣秀吉が最上義光をして庄内を仕置させていたころ、義光の御用商人をつとめていた粕谷源次郎は、酒田湊の警備を命じられている。
 また、天正十五年(1587)、粕谷は義光の命により、酒田湊収納米の受払いを担当している。そして自分の持船四般と、他家の船六寂艘を加えた、つごう十艘の船団を組んで上方に帆走し、物資の売払いをしている。秀吉による小田原征伐の際に、粕谷は五奉行から東国における船舶動静の監視役を命じられている。

 その任務終了後、粕谷は飛島産あわびの塩辛や鷹の羽根を土産に上坂伺候し、五奉行からふたたび廻船守護の命を受けている。慶長六年(1601)、庄内における最上、上杉攻防戦では、粕谷源次郎が年寄役の上林・永田らとともに吹浦に出陣し、仙北由利軍と戦って戦死している。粕谷家にみられる東国船団の監視や酒田湊警備の任務、さらには年貢収納米の受払い業務などは、三十八人衆の始祖が、単なる問屋業を営むだけにとどまらず、武力を保持する地侍的性格を合わせもつものであったことを裏付けるものである。
それとともに、郷村支配に懸命であった戦国大名と豪族との提携が、酒田においても存在していたことを示している。

永田家
 粕谷家と同じく、永田家は三十六人衆のなかでも古参の方であった。永田家の出自については明らかでないが、向う酒田時代、すなわち永田茂右衛門の代に、上林七郎左衛門や村井理兵衛とともに、年寄役をつとめていたといわれている。
 永田家は、粕谷家と同様最上家の命により、年貢取立て役を請負っていた。「最上家古筆巻物」には、永田家あての亀ケ崎城主志村伊豆守光安からの書状や、酒井家入部元和八年(1622)の際に立ち会った、亀ケ崎城兵具類引継ぎ書類が含まれている。

 酒井家入部以前に全盛をきわめていた永田家は、元和五年(1619)に町年寄を一時退役している。そしてこの後に加賀屋・鐙屋が台頭してくるのであり、本間家もこれに続く。なお、本町西突きあたりの現市営駐車場付近に、永田家の屋敷があった。

加賀屋
 さて次は、NHKテレビ「おしん」で一躍有名になった加賀屋についてである。
 加賀屋は屋号であり、その苗字を二木と称した。その名のとおり、加賀国二木庄から来たといわれている。しかし、いつごろ酒田に来たかについては不明である。戦国時代から廻船問屋を営んでおり、三十六人衆の上林・鐙屋とともに、はやくから町年寄をつとめていた。

 加賀屋は諸藩の蔵宿として、遠くは南部・加賀・松前藩、近くは庄内・松山・新庄・山形・上ノ山藩の御用をつとめていた。三十六人衆のなかの廻船問屋では、屈指の方であった。寛文年間(1661〜1673)、幕府の命により西廻り航路開拓のため河村瑞賢一行が酒田にやってきたが、その時の投宿先が加賀屋・二木九左衛門宅(伊東家文書)であった。

 瑞賢による西廻り航路の改良と、それに連動した最上川舟運の隆盛は、湊町酒田を一層活性化させ、全国に酒田の名が知られるようになっていくのである。廻船問屋加賀屋の屋敷は、現酒田市役所のところにあった。

上林家
 次に上林家は、村井・永田家とともに、向う酒田時代からの町年寄であり、明治初年までこの役をつとめていた。上林家は本町四丁目の現産業会館のところに、広大な屋敷を構えていた。酒田町組の高札は、この付近に立てられたといわれている。タブの大木が一本高くそびえており、当時をしのばせてくれる。

 ところで三十六人衆全体に関わることについて述べてみると、三十六人衆全員がつねに酒田町政に参加していたのではなく、まずそのなかの重立三人が町年寄として町政のリーダー役をはたしていたのであり、これにつづく月行事三人ずつが、交替しながら十二カ月を乗り切っていた。酒井家入部後の三十六人衆には、城米の輸送や参勤交代、巡見使などの公儀役人通行の際の本陣・脇本陣、人足・伝馬・御用船の割出しなどの任務があった。

 近代になって鉄道輸送が行き渡ってから、これまで活気をみせていた三十六人衆を中心とする廻船問屋は、急速に翳りを見せはじめた。

本間家
 酒田の大商人本間家は始祖を村上天皇とし、弾正大弼顕定の代に、奈川県愛甲郡本間村に住し、本間姓を名乗った。後、越後の佐渡を経て、室町時代中期ころ季綱の代に、出羽国大泉庄下川村に移り住み、武藤家の幕下に入った。光重の代になって酒田の廻船問屋と合流し、永禄年中(1558〜1570)酒田本間家の祖になった。この頃、平泉からの落武者粕谷・上林。永田家が、廻船問屋を営んでいた。

 天正・文禄のころ(1573〜1596)忠光の代に酒田本町二丁目に移り住み、油屋・豆腐屋を営んでいたともいわれる。元和二年(1616)綱光の代からの過去帳が、菩提寺浄福寺(浄土真宗)に保存されている。

 元禄初期(1688〜)原光(久四郎)の代に、本町一丁目の現在地に分家として「新潟屋」の暖簾をかまえた。
この原光を、本町一丁目本間家の初代としている。原光は宝永四年(1707)、父・九左衛門に代わって酒田町長人、酒田商人の中堅になった。
 なお九左衛門のとき、三十六人衆入りをしている。原光は、大阪商人の小山屋吉兵衛、京都の小刀屋太兵衛等がいた。扱い物に米・古手・古着・染物・金物などがあった。商いの余剰金で田地を購入した。原光の代に上余目組・西野村の田地20町歩を買入れて、初めて地主になった。
二代目光壽の代に、子の光丘(四郎三郎)を播州姫路の奈良屋権兵衛へ見習い奉公に出し、修行をさせた。三代目光丘は勤倹力行、経営手腕を発揮し、非凡な才能で多くの人々 や困窮している藩を救った。光丘の業績には砂防林の造成、飢謀に備えての二万俵勝探、庄内藩の財政建て直しや他藩への支援、貧民救済などがある。また海船5〜6隻を駆使して、全国各地と交易を盛んに行った。物流交易についての光丘の考え方の基本には、「有るところの物は無いところへ、無いところへは有るところから」がある。
 
 やがて本間家は、一千町歩を越す大地主に成長した。文化三年(1806)の全国長者番付表「大日本長者鑑」に、出羽の本間家はべスト16位にランクされている。ちなみに東の大関(東の首位)は三井八郎右衛門であり、西の大関は鴻池善右衛門であった。
本間光丘
光丘(四郎三郎)

鐙屋(あぶみや)
 鐙屋は酒田三十六人衆の一員であり、代々町年寄としての重責を勤めてきた。古絵図によると、旧鐙屋邸は本町通りから松原道を挟んで大エ町まで達しており、『 日本永代蔵』 に、表口30間(50メートル)、裏行65間(120メートル)とある記述も、あながち誇張でないことがわかる。旧鐙屋邸は当酒田への移転以来、本町通りで同一の場所に位置する唯一の廻船問屋遺構である。酒田町年寄として鐙屋家が古文書に出てくるのは、元和五年(1619)からである。このころ村井・永田らが、一時町年寄を退役し、これと交替するかたちで加賀屋・鐙屋が登場してくる。
 安倍親任が著した『 筆濃餘理』 には、
 「安倍惟孝云、酒田の鐙屋惣左衛門三十六人は、文書を多く持ち伝える。おおかた、産物・交易の書通にて、志村時代(志村伊豆守光安)慶長の頃のものにてこれ有り、と云えり。この古文書を、その後焼失して、今更考証を失するを恨む」とあり、酒田の鐙屋が、佐渡の川村文書を多く持ち伝えていたことや、産物交易業、すなわち廻船問屋を営んでいたことを伝えている。元和二年(1616)12月15日から、同5年4月3日までの間に町年寄の永田家が退転し、村井家もこのころには姿を消した。そして両家に代わって、鐙屋・加賀屋が新たに町年寄として登場してくる。

 元和八年(1622)9月、酒井忠勝が信州松代10万石から庄内13万8千石に移封され、鶴岡に居城を構えた。当初は亀ケ崎城を居城にしようとしたが、酒田は三十六人衆の治める自治都市的要素が強かったことから、鶴岡を選んだともいわれる。亀ケ崎城には忠勝の伯父に当たる松平甚三郎久恒を城代としておいた。

 寛永十五年(1638)ころの二木家文書には、加賀屋・鐙屋・上林の名が町年寄として随所に現れる。町年寄三人は重立といわれ、年番であり、苗字・帯刀が免されていた。また年頭の挨拶として、藩主にお目見えすることができた。町年寄の任務の主なものは、 人馬の差配、町方御用銭の割元、8羮詈徳イ僚仭ゾ奉行、じ羮詈討虜脳綫邁爾掘↓ツ甓への遠奉行、 土居薙(堀の俊喋や草刈り)、Ч盪イ侶抔如↓ 夜廻り火消し、 参勤交代時に、仮替船二艘を清川まで仕立てることと、その警固、巡見使や他国の大名が酒田を通過する際、本陣・脇本陣を勤める、町の治安維持、などがあった。また古くから、亀ケ崎城内武器の封印には、町年寄も立合っていた。このことは、非常時における酒田町の警衛、あるいは戦時の際の出兵を意味するものであったと考えられる。鐙屋が米問屋・蔵宿としての地歩を強力に固めていったことを示す一例として、宝暦六年(1756)前後ころにおける広範な蔵宿業務をあげることができる。鐙屋家が受持った代表的な蔵宿としては、 山形藩松平和が守蔵宿、⊃珪曳邑預上総か蔵宿、上ノ山藩松平山城守蔵宿、 米沢藩上杉大妙頭蔵宿、ヅ貂松平大和守蔵宿、Φ噺極拇珍衞麓藺⊇匹覆匹ある。

 鐙屋家の出自については三つの説がある。一つは鶴岡の大宝寺城大手橋渡り初めの際、十人の子福者であった鶴岡の年寄弥兵衛夫婦に、最上義光から「轡屋」という屋号を贈られたが、七番目の子供に「鐙屋」の屋号が与えられ、それが酒田に分家したとする説。

3 最上川の氾濫と治水

 (1) 氾濫による最上川河道のうつり変わり
 山形県の母なる川、最上川は、毎秒200立方メートルの水を日本海に注ぎ、これまで多くの沿岸住民にその豊かな恵みを与えてきた。しかし日本三急流の一つに数えあげられている最上川は、古来から豪雨のたびごとに氾濫を繰り返す暴れ川であった。

 したがってその沿岸地域においては、一夜にして田畑や家屋を流されたりすることがしばしばあった。すなわち最上川は、その周辺住民の生活に、つねに直接大きな関わりを持ってきた。たとえば田川郡遊摺部地区が最上川洪水による災害から免れるため、嘉永五年(1852)一村あげて川北飽海郡の現在地に移転したことは、その典型的な事例にあたる。また大宮の場合、古くは村の位置が最上川左岸は下流に向かって左側)田川郡にあったが、慶安三年(1650)の新川開削によって右岸飽海郡に位置するようになった事例もある。最上川河口右岸に立地する亀ケ崎地区は、その自然の恵みを受けると同時に、つねに洪水の危険にさらされてきた。記録によると、江戸時代の最上川は、ほぼ7年に一度の割合で洪水が発生していた。

 最上川洪水との苦しい闘いの足跡を書き留めて置くことは、流域に住むわたくしたちのだいじな務めの一つであり、最上川河口付近における現在の流路の大部分が、掘削工事や締切工事によって形成された、人工河川、であることも、これまた後世に伝えておかなければならないことである。

 ところで「最上川」という河川名は、出羽国最上郡を流れる川、という意味に由来しているといわれる。江戸時代までは、左沢より上流を「松川」と云い、左沢〜清川間は「最上川」、清川〜酒田間は「酒田川」と称していた。「最上川」という呼称に統一されたのは、明治九年(1876)の山形県成立後からである。

 さて、最上川下流における河道(河身) 流路の変遷は、どのようであったろうか。
まず、江戸時代安倍親任が書いた『 筆濃餘理』 には、「むかし最上川は、四ッ興野前、五丁野、仁助谷地、鷺谷地から東禅寺裏、大田(多)、、古荒、泉、吉田、西野、東野、田村を経て、小湊(現在は古湊)に落ちたる一筋の流路有り」と、記されており、さらにこの村々 は天正時代(1573〜1592)以来の最上川跡に、新しく開墾もた新田地に立地した村々である」と述べている。

 安倍親任説によると、かつての最上川は、現在の酒田第三中学校付近にあったとされている東禅寺城東側を北西方向に向かって流れ、四ッ興野付近を通って古新井田川と合流し、豊川筋から古湊へ流れ落ちていたということになる。しかし、この事実を証明する古記録はきわめて少ない。ちなみに四ッ興野付近から古湊にかけての国道七号沿線には、谷地や荒瀬と名のつく標高わずか2〜3メートルの低湿地帯が続いている。

 吉田東伍が編集した『 大日本地名辞書』 (明治四十年発行)には、「元来、最上川の河道は幾多の変更をなして、ついに今日の銚子口に落ちるに至った。その初めは鵜渡川原の東をめぐり、酒田の北を流れ、小湊で海に流れ落ちていた。しかし、中古の大洪水によって酒田の中央を貫通するようになり、酒田を川南と川北に分離するようになった。向か坂田(袖浦地区)という名称も、このことから生じたのではないか」と、記されている。

 ところで最上川が酒田の北方のみならず、宮野浦南方を銚子口にしていたことを示す絵図が、酒田海洋センターに所蔵されている。この絵図は「酒田港概図」といわれるもので、明治二十六年(1892)内務省の役人が酒田港を視察した際に、資料として作成されたものである。この絵図は文明年間(1469〜1487)ころ、最上川が宮野浦と飯森山の間を流れていたことを示している。最上川・ 赤川・京田川(藤島川)の合流水は洪水の際にドッと袖浦地区(向う酒田)に押し寄せ、氾濫によって最上川左岸に停泊していた船舶や、市中沿岸に被害を与えることがしばしばあった。向う酒田(袖浦地区)から当酒田(現在の右岸一帯)へ移転した原因の一つに、このような最上川と赤川との合流水膨張による氾濫があげられる。

 「泉流寺縁起」には「明応(1492〜1501)の頃、大川筋自然この地に向かい、海船着場となれり」とあり、室町時代中期ころから最上川の銚子口が固定するようになり、いわゆる袖浦地区にあった向う田から、当酒田への移転気運が高まるのである。この明応元年(1492)を起点にすると、ちょうど平成四年(1992)が向う酒田から当酒田への移転五百年目に当たるので、「酒田開港五百年」と銘うったイべントが開催された。

  (2) 近世中期までの最上川洪水と、第一次・第二次新川(あらかわ)開削
第一次新川開
 第一次新川開削記録に残されている最上川洪水の最初は、文正年間(1466〜1467)の「白鬚水洪水」である。白鬚とは琵琶湖畔高畠町字鵜川にある白鬚神社のことであろうか。
御神体は白鬚老人である。「白鬚水洪水」では水位が平水より六メートル高くなり、耕地五三町歩を流失し、三八町歩が河身に変じた。
 この白績水洪水によって東禅寺城が破壊されたため、文明十年ころ(1478)、遊佐太郎繁元が禅寺城を現在の酒田東高校のところに移転したと伝えられている。
この洪水では七日間水が引かなかったといわれており、洪水後に東禅寺沼ができたとも考えられる。近世は江戸時代に入ってからの慶安元年(1648)5月15日の大洪水によって新井田蔵が浸水し、濡れ米三千俵を出した。このため庄内藩は慶安三年(1650)本格的な治水エ事に着手し、落野目〜大宮間の鼻崎を掘削、三ヵ年かかってようやく「新川」が竣功した。慶安三年ころからの開さく治水工事によって「新川」が登場し、これまでの流路が「古川」として遺るようになった。
 この新川掘削によって、これまで川南に位置していた田川郡大宮は飽海郡川北に位置するようになり、新川が大宮の南側を流れるようになった。庄内藩による大規模なこの慶安新川開削工事を、最上川河口治水史上の「第一次新川開削沼水工事」と命名しよう。
第二次新川開
 第二次新川開削このあと庄内藩は、郡代高力忠兵衛を中心にして、新堀から日本海に直行する、長さ3,000メートルの「第二次新川開削治水工事」を計画し、寛文十年(1670)これに着手、延宝二年(1674)に完成した。これが「広野谷地掘切」といわれるものであり、近代における木橋旧両羽橋付近から、現在の両羽橋下流八番沈床付近までが真っすぐになった。
 この「広野谷地掘切」工事が完成してから五年後の延宝七年(1679)に、新川の「川ざらい」(浚渫)がおこなわれた。この時は一日平均1,600人が動員され、13日間かかって川ざらいを終了した。「大泉紀年」は、このときのことを次のように記している。「最上川の急流、漸く御城に遠ざかり、百数十年の今に至って追手の南の土地大いに開け、有毛の地夥し(おびただし)」
この中の「南の土地大いに開け・・」とは、鵜渡川原の内川原と的場が耕地化されたことを意味している。
天和(てんな)二年(1682年)の大洪水
(3) 天保(てんぽう)四年(1833年)の大洪水
(4)  明治十二年(1879年)の大洪
 明治十二年(1879)6月から7月にかけての霖雨によって、最上川が7月4日より10日まで、未曾有の大氾濫を起こした。水かさは平常より6メートルオーバーした。

 四ツ興野の堤防が破れ、水は田村から能登興野方面に流れた。この洪水による流失家屋は439戸、落橋875カ所。実生小路橋や新井田川橋も落橋した。河身の破壊、両岸の欠損甚しく、口港の酒田港は埋まってしまった。

 鵜渡川原村の記録には、次のように書いてある。
 「明治十二年七月、、暗霧膝騰、森雨数十日、加うるに大風あり、水面平水より高きこと二丈二尺(約7メートル)、(怒涛両岸に溢れ、堤防を破壊すること三カ所、本村(鵜渡川原村)全く水面と相成る。就中本村にて大破壊を来したる所洛東禅寺沼付近、ことごとく皆破壊し、およそ120間、(約200メートル)に及び田畑浸水し、故に畑地一八町五反歩余を埋没、また該沼(東禅寺沼)は、いっそう積面と相成りて今存在せり。かつ荒畑は、今も原形に復せず。実に未曾有の洪水にして、人畜はかろうじて生命を免れたり」

 そして、その復旧治水工事については、
「字権吉沼上、及び字東禅寺沼の二箇所と字初瀬堤防の三箇所、各々120間(約200メートルソ以上大破壊している。(中略)明治二十二年(1889〉 より堤防に二尺(約六○ センチ)土盛工事を施し、明治二十六年完成の予定である」と、記している。

 明治二十二年、新関弥惣吉は鵜渡川原村長就任と同時に堤塘取締規則を設け、明治二十三年より五カ年計画で2346間(4,200メートル)の盛土工事をして洪水から免れる対策を立てた。明治十二年の大洪水のあと、字草刈谷地・字竹藪・字中瀬(現両羽町・若原町・若竹町・堤町)が追々開発されていった。)当時は観音寺(正法会館のところ)の東側と丸の橋への旧本道との間に、「観(音)山濠」があった、東禅寺沼の東側、字仁助谷地の南から鷺谷地・扇谷地にかけては、、萱場(「ヨシ谷地)が広がっていた。鵜渡川原村の東南方面の字草刈谷地には細長い沼地があり、その周囲はヨシ(葦)谷地で、萱場となっていた。

 当時、最上川は大きな三つの流路を示していた。
(1)現在の両羽橋下流の七番沈床の付根付近から、字竹戴(現若竹町)の所を流れる最上川。これは山居近くで二つに分かれ、中に島をつくった。これが中島で(現・山居町二丁目)である。中島の西対岸にも洲ができた。そこが小中島(現入船町)である。
(2)中瀬島と下瀬島の間を流れる最上川。
(3)下瀬島と宮の浦の間を流れる最上川。

 鵜渡川原村の松原南から山居に至る堤塘の管理については、前述のとおり町村制施行後の明治二十三年(1890)、「山形県飽海郡鵜渡川原村堤塘取締規則」として同村会が議決した。

4 酒田港との分離をめざして最上川河口改修工事始まる
  (1) 最上川改修工事と洪水予防策
  (2) 予想水害反別と水防規程
  (3) 酒田港を最上川河口から分離
     「最上川下流の主な洪水と治水年表」


(4) 山居谷地締切り
 山居谷各地の締切りは、寛政八年(1796)に始まった。
 文政十一年(1828)に嚇翻潮を締切り、蕊貸ど山居堤防の修繕が、行われた。この工事の普請掛は本間光暉であった。船場町が繁昌したころには、最上川の本流は鵜渡川原村の西川原(現在の千石町)から最上川左岸へ遠のいていった。蛇行・分流が激しかったために、この上川原締切工事となったのである。この工事から21年後の嘉永元年(1848)に、山居から鵜渡川原を囲むような大堤防工事が始まったのである。

 山居には、明治六年(1873)、初めて七軒の家が建てられた。なお、山居倉庫は明治二十六年(1893)の創設である。最上川新川開削によって、古川跡は埋めつくされ、田畑に変貌していった。かつて四ツ興野・大町・亀ケ崎東側を流れていた古川跡両側の古堤防は、終戦前(昭和20年)までその一部が残っていた。
最上川新川完成前に古川敷であったことを示す地名・内川原は、現在東両羽町や亀ケ崎六〜七丁目になっている。

(5)下瀬の開
 山居嶋は最上川右岸と陸続きになり、耕地として開拓されていった。明治十五年(1882)ころ、最上川河口寄り河川敷に位置する下瀬は、1〜2メートルの砂泥が堆積し、草木生い繁る原野になっていた。

 当時、飽海郡中平田村字土崎の小松挑治が、六カ村の代表として下瀬開墾計画を立てていた。その後、明治十八年(1885)になって、鵜渡川原村の横山作兵衛が下瀬作業場見張りとして移住してきた。鵜渡川原村からは、多数の開墾耕作者が下瀬に入っていた。同二十年(1887)ころには15町歩ほど開拓され、そこには西平田村字遊摺部菅井吉次郎所有の土地が多かった。

 明治三十年(1897)には西平田村字遊摺部より斎藤七右衛門が、同三十三年には東田川郡八栄里村吉田より兼古三治郎が、また、酒田町より小川兵蔵・後藤倉蔵が下瀬に移住し、耕作に当たった。

 明治三十五年(1902)には酒田町船場町の田村善太郎が、地主菅井吉次郎よりこの地を買取り、土地権利は田村善太郎のものになった。耕作者として鵜渡川原村並びに西田川郡宮の浦の者が入り、開墾畑地は20余町歩に増加していった。

 明治37年(1904)には鵜渡川原村より兵藤三吉が移住してきたが、横山作兵衛は家事都合により帰村し、酒田町の小川兵蔵・後藤倉蔵も酒田に帰った。

 明治四十年(1907)には斎藤七右衛門が鵜渡川原村に帰った。この年、東田川郡広野より加藤辰之助が移住、耕作に当たった。同四十三年には中野久左衛門・鈴木三之助が東田川郡栄村字杉の浦から移住してきた。翌四十四年(1911)には東田川郡新堀村板戸より堀清九郎が移住してきた。

 大正元年(1912)には酒田町より本間藤助が、同三年には東田川郡新堀村落野目より山木馬之助が、同四年には鵜渡川原村より佐藤金作が移住してきた。また、同六年(1917)には東田川郡新堀村落野目より山木興作が、翌七年には鵜渡川原村中瀬より斎藤」畠太郎が移住してきた。

 大正五年ころは、下瀬の地主田村善太郎が酒田町伊藤四郎右衛門に畑地20余町歩を売渡し、残り15町歩を支配していた。

 大正八年(1919)における下瀬開墾畑地は35町歩、原野は70町歩で、耕作者70名の出身地は鵜渡川原村・袖浦村・宮の浦などであった。このころ、下瀬に居住していたのは兼古三次郎・兵藤三吉・加藤辰之助・佐藤末治・本間藤助・山木馬之助・山木興作・斎藤富太郎らであり、そのほか田村善太郎の出張所、および同氏経営の牛乳店などがあった。居住者は1〜6町歩内外を耕作し、漁業・養蚕などを副業とし生計を立てていた。
下瀬の農産物の主なものは大豆・小豆・大麦のほか、野菜類であった。また、養蚕用桑樹も植えており、大きな収入源であった。

 明治三十五年(1902)ころの下瀬の地主は田村善太郎、大正五年(1916)ころは伊藤四郎右衛門であった。
大正八年(1919)、内務省による最上川改修工事のため、工事区域に入る下瀬の土地全部を国が買収することになった。買収の目的は下瀬の位置が、ちょうど最上川本流掘割工事の場所と重なったためであった。このため、これまで開発してきた100町歩余りの耕地・原野が皆無になることになった。
(6) 中瀬への移転
 大正5〜6年ころからようやく農作業が軌道に乗りはじめて裕福になった下瀬の住民は、ついに中瀬に移転することになり、大正十年(1921)7月、それを完了した。その記念碑が堤町稲荷神社境内にある。移転者は、兵藤三吉・加藤辰之助・佐藤末吉・山木馬之助・斎藤富太郎・兼古三左衛門・本間藤助・山木興作の8名であった(『 城下町亀ケ崎』『 漁業組合のあゆみ』 )。

 また、旧最上川河川敷の外川原は現在の両羽町に、西川原は千石町に、それぞれ変貌していった。
最上川河口に発達した中州「山居嶋」は、北岸との間の埋め立てにより完全に陸地化し、その周辺地域を含めて、中島・小中島・栗林瀬・若竹町・中瀬・下瀬となり、さらに入船町・山居町・堤町などの町名に変わっていった。山居嶋の「嶋」という用字も、やがて「島」の字に変わった。

 これらの各町は、江戸時代中後期からの最上川締切り工事によって陸地化してできた地域であり、田畑に開拓されたあと、さらに住宅地に開発・変貌してきた地帯である。
現在の最上川堤防のうち、初瀬堤防(県立日本海病院南方)は大正八年(1919)から工事が始まり、同十三年(1924)それが完成し、大宮堤防につながった。この年から酒田港に注ぐ小牧排水が、現在のように流れた。若原会館から下流の中瀬堤防は、やや遅れて昭和七年(1932)に完成した。
(7) 山居嶋の開
 最上川河口のデルタ・三角州の一部が「山居嶋」として古絵図に登場するのは、明暦二年(1656)からである。「嶋」は島の本字であり、鳥がよりどころとして休む海中、あるいは川中の山という意味を持つ。このサンキョを漢字で綴ると、山居・散居・三居などと書くことができる。それぞれの意味するところは、「山の中に住むこと、やまずまい、山中の住居」「集落を作らず、互いに散らばって住むこと」「散りうせることJ などであり、「三居」の場合は『 大漢和辞典』 によると、「流刑の三等の居」とある。

 いろいろと説はあるが、サンキョとは「家族増加の場合に、その家族の一部が分離(分家あるいは隠居)して移転居住したところ、あるいはそれにともなって開発されたところ」という意味をもっている。酒田の山居嶋の場合も「分家あるいは隠居した人が開発した嶋」というところであろうか。「山居嶋」という呼称が登場する最古の公式文書は、 元和八年(1622)酒井家入部に際して作成された(「御知行目録」からである。これには「大町ノ内、山居嶋」として、、石高九石五斗七升弐合」(4斗俵で24俵)と書いてあり、この頃すでに作物を栽培し、収穫を上げていたことを示している。

 山居嶋を描いた古絵図には「畑地」と記してあることなどから、恐らく大豆類が植えられていたと考えられる。この島で陸稲栽培が行われていたかどうかについては、知る由がない。山居嶋の石高はその後減少傾向にあり、寛永元年(1624)には四石二斗余りとなり、正保三年(1646)には二石一斗余りとなっている。
古絵図に描かれている山居嶋は広大であり、酒田市街地面積の四分の一くらいを占めている。しかし、実際の広さがどのくらいであったかは不明である。ちなみに明暦二年(1656)の絵図によってその面積を概算すると、大小の島々を合わせて、おおよそ30町歩以上になる。この面積は、酒田町組大庄屋栗林新(信)右衛門が山居嶋に17町7反余歩を所有していたと「飽海郡誌」に記されていることからも、納得できる数字である。

 なお、山居の栗林瀬という地名は、大庄屋栗林氏にちなむ地名であることがわかる。江戸後期に作成された数多くの「最上川締切り工事絵図」には、山居嶋の中にポツンと一軒屋が描かれており、住宅あるいは作業小屋が建っていたことを示している。開発当初、嶋への交通手段として小舟が用いられていたと思われる。
最上川の古川締め切り工事が完成する寛政二年(1790)代になると、山居嶋と鵜渡川原の一部が陸続きになり、その後急速に開発の手が加わっていく。

 
(8)最上川・赤川・日向川は、ともに人工河口
 朝日・月山山系を水源とする赤川は、かつてその河口を最上川下流左岸、飯森山の北東に求めていた。
 しかし、最上川・赤川・京田川(藤島川)の合流水は、洪水時にどっと袖浦地区(向う酒田)に押し寄せ、氾濫によって最上川左岸に停泊していた船舶を流出したり、市中に被害を与えることがしばしばあった。向う酒田(袖浦地区)から当酒田へ移転した原因の一つに、このような最上川と赤川との合流水による氾濫があげられる。当酒田へ移転してからも、慶長年間(1596〜1615)以降、人力による赤川流路の変更や築堤などが、しばしば試みられてきた。

 赤川新川開削による流路の変更は、幾多の苦難を乗り越えて、大正十年最上川氾濫水の逆流を防ぐことでもあった。(1921)10月、最上川改修付帯工事として黒森山を掘削し、庄内砂丘を横切って、赤川を日本海に放流する工事を起工した。そして昭和11年(1927)7月、赤川新川が完成し、通水をはじめた。
 現在、何ごともなかったように静かに日本海に注ぐ赤川新川は、実は人工河口なのである。もちろん、最上川下流域も、人工による流路の変更を行った人工河口である。この赤川新川完成後も、旧赤川は最上川とつながっていた。
 
 旧赤川が完全に締め切られたのは、昭和18年(1952)のことである。赤川河床は、田畑や住宅地として利用されている。今でも往時の赤川流路跡をところどころに忍ぶことができる。
 鳥海山系を水源とする日向川(にっこうがわ)は、酒田市興休(おこしやすみ)東部で荒瀬川と合流し、六ツ新田を経て日本海に注いでいる。実はこの日向川河口も人工河口である。
 かつての日向川は、六ッ新田・上市神・藤塚・田村を経て南流し、さらに西転して小湊から日本海へと注ぐ流路をとっていた。
 現在の旧国道七号線藤塚〜下市神間の道路西側一帯が、旧日向川の河身であった。

ここでも、当時の日向川流路のおもかげをしのぶことができる。

 日向川、荒瀬川が合流して発生する大洪水は、巨岩巨石を容赦なく押し流し、さらに砂泥を運んで被害を増幅させた。このため、遊佐郷住民による日向川新川掘切工事の請願が、庄内藩へたびたび出されてきた。

 ついにその許可が藩から出され、安政5年(1858)1月から通算20万人の人夫を動員して、海抜30メートルの海岸砂丘を切り崩し、長さ2,500メートル、深さ2メートル、川幅200メートルの人工河川を6年の歳月をついやして文久二年(1862)4月に完成した。 
  (『 酒田湊繁盛史』コミュニティ新聞)
(追記、日向川の新川堀切を成し遂げたのは、当時大庄屋であった今野茂作をはじめ、大組頭の渡辺多一郎らだった。旧日向川河川敷地は今野茂作に下賜され、開田して「茂作新田」と呼ばれる) 茂作新田付近の地図
川の流れが南方に大きく向きを変える位置にある、地名の尻地は、臀部の形の地形から付けられたものであろうか。
撮影機関:国土地理院, 撮影日:1996/10/23, 形式:白黒, 撮影高度:3,900m, 撮影縮尺:1/25,000
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