
第4話 御城内鎮守の事
1、問 江戸の鎮守というのは、紅葉山に立っていた權現様を指して奉った。
天正年間、御入国された以後も、城中に鎮守の社というのは、無くても済ん
だのであろうか。
1、答 その事を筆者が聞いたのは、1590年(天正18年)8月に御入国された時
榊原式部太輔殿は、御入国準備の御用を承って、その下に、青山藤蔵殿・
伊奈熊蔵殿・板倉四郎右衛門殿、その他各々の、領地の四ヶ国に置いていた
地方の役人衆は、それぞれ江戸表へ参いる様に、仰出が有った。
その節、城内には、先の城主、遠山左衛門の居宅が、そのまゝ残っていたが、
永々籠城していたので残らず破損し、その上、屋根の上を土で塗っていたので
雨漏れのため、畳なども腐れていった。
その修理を仰付け諸役人は、昼夜苦労してやっと、御入国に間に合せたと言う
事を、長崎彦兵衛と言って、甲州代官の手代を勤めた老人が、常に物語っていたのを
聞いたのである。
權現様が、小田原
「城内に鎮守の社は無いのであろうか。」と、尋ねられたので
「鎮守の社でも有ろうか、是から北の方に当る曲輪内に、小さい社が二つ見える。」
との事で、ご覧のため式部殿の案内で入られた。
小さい坂の上に、梅の木が多数植ている中に、宮居二社が有るのをご覧になり
道灌は歌人なので、天神を建立したとの事で、残りの一社の額をご覧になり
ご拝礼され「さても不思議な事が有るわ。」との仰せで式部殿が、お側へ参れば
「江戸城に鎮守が無ければ、坂本の山王を勧請しようと思っていたが、前か
ら山王の社が立っていたとは。」
と、仰しゃったので式部殿は「仰せの通り奇妙な事で、偏にお城の長久・お家のご繁昌と
目出度い前兆であられる。」と、ご挨拶申上げれば
「如何にもその方が申す通り。」と、あって殊の外、ご機嫌良かった様に見受けられた。
(注釈)
鎮守 その地を鎮める社。
宮居 神が鎮座するところ。
坂本の山王 日枝神社(比叡山の東麓の地名)。
勧請 神仏の来臨を乞うこと。
1、問 宮居の両
江戸城普請の始まりと言うのは、本丸から始まったのであろうか。
1、答 開祖の道灌といってもその後、遠山丹波守・遠山左衛門と言う者は、何れも
上杉家・北条家に於いて小身なだけの士大将だけの居城であれば、関八州
守護職をもされた權現様のご在城になるので、御入国後万事を差置いて本丸の普請に
取掛かり、古来は本丸と二の丸との間に、巾十間にも見えた空堀が有ったのを埋めた。
その普請の時、北の丸に有った山王の社を紅葉山へ移す様に仰付け、宮などは、
霊妙な所へ建立された。
天神の社は、何んの指示も無かったので,普請の邪魔にもなり、平川口御門外の堀端へ
持出して置いた。
両社の跡には、梅ノ木が多く有ったので、梅林坂といった。
その後、秀忠公のお子様方が誕生されて紅葉山の山王へ参詣され、ご機嫌良く
成長されたので、諸大名・旗本・町方迄も紅葉山へ氏神詣りをするようになり
次第に下々も繁昌し、特に秀忠公から社殿を結構に建立仰付けられ、その社は上野に
残っている。
(注釈)
普請 建築。 寄付を集める。
秀忠公 徳川家康の第三子。第二代将軍。 1575〜1632年。
1、問 平川口の堀端へ持出した社は、どこへ行ったのだろうか。
1、答 筆者が聞いているのは、御入国の時迄は、下町といっては一町も無い平川御門の外に、
平川町と言っていた。
平川町の内に、薬師堂が有り、御門の外の平川町は、今の麹町へと続き、甲州街道と
言っていた。
平川町の薬師堂の別当天神の社で、預かりたいとの願いで、薬師堂の脇に移して置いたが
その町屋も御用地になり、麹町辺りへ移った。
平川天神社も移ったが、その近辺に氏神が他に無かったので、次第に繁昌し、今は平川町の
天神として、かなり繁昌した。
上野御門主の支配になり、古来からの薬師堂も社内に有った。
1、問 紅葉山に、秀忠公から建立仰付かった山王の社は、今は上野地内に有るが、
いつ頃、どのような子細があったのだろうか。
1、答 筆者が聞いたのは、家光公の幼名を竹千代様と言い、駿河大納言忠長卿の童名を
国松君と言った。
兄弟同腹といえど二男の国松君は、殊の外 御台様の愛児であったので特に
二男であるが、嫡子になられるのではないかと下々でも噂をし、上っ方の
衆中も、国松君の事を特に尊敬した。
部屋も、本丸の中に向合い、近習衆は、誰でも夜番は、両若君様の話に伺っていた筈で
あったが、その内、国松君の部屋へ参ったのは、近習衆だけになったのは、御台様からの
仰付けで、毎晩、種々の夜食を、豊富に下さったからである。
竹千代様の方へは、たまにではあったが、いつも物思いにふけって暮らしていた。
しかし、永井日向守殿一人が、当番であれば、いつも竹千代様のお話にだけ伺っていたので
春日局が、殊の外喜んでいた。
在る夜、日向守殿がお世話に参った時、春日局もお側にいられたが、日向守殿へ
言うには
「最早、若君様のお弘めを、されるのであるが、まだ何んの指図が無いのは
如何なる事であろうか。」と言ったので、竹千代様が、仰しゃるには
「その方の兄の信濃守が知っているか、尋ねるように。」
と言われたので、明朝、参って尋ねると申上げた。
翌朝、御城から直ちに、信濃守殿へ行き
「少しお目に掛かりたい。宿直明けから直ぐに参った。」
と言ったら、信濃守殿が不審に思い
「早々何事であるか。」と尋ねたので
「特別な事でも無いが、竹千代様からのお心の趣きあり、参った。」
と言えば、信濃守殿は聞きもせず、座を立たれた時、日向守殿が顔色を変え
「そなたは、竹千代様のお心を聞かれないのか。」
と小袖の裾を取って言えば、信濃守殿が言うには
「竹千代様のお心を、この身形で聞くことが出来ないので、貴殿も御城から
直ぐに参ったことでもあり、支度をする。」と言って、お勝手に入った。
その後、衣服を改められ、日向守殿を上座に通し
「謹んで仰せを聞き、本日登城して、同役達と相談し、追ってお受け申上げる。」と言った。
日向守殿は、今晩か、明朝参ると言って登城した。
その日の夕方、日向守殿が行かれたら前の様に上座に正し、信濃守殿が言われるには
「御城で御用の席があり、萬民の安堵のためにでもある。若君様のお弘めの事、仰出られたいと
同役達一同に、申上げたら、思案され、追って仰出られるとの上意である。」
とお受けになったで、日向守殿の部屋へ伺って、その趣旨を言上した。
その後、間もなく春日局が見えられないとの事で、老中方から、留守居年寄衆へ尋ねられたら
最近、春日局方からの便りで、女中三人が箱根の関所を通す手形を、調へて遣わしたとの事で
「さては、伊勢参詣に追究し、決まって竹千代様へ間違いなく、お弘めを仰出られる様に。」
と神仏に願いを掛ける志してあったのかと、諸人が推察した。
その時代、世間では《春日局の抜け参り》と言った。
春日局は間もなく下向され、その後、駿河から飛脚が来て近々大御所様がお下りされるとの事で
例の様に、小田原迄お迎えとして老中方を遣し、到着の日になって、将軍家も、品川御殿迄
お迎えとして入られ、ご対面されたが
「今晩は大奥へ行って御膳を召上る。」との仰せで御城へ行かれた。
御台様は、何事も無かった様に、殊の外喜ばれ、待ち受けられていた。
西の丸から本丸へ入り、奥へ通られて、御台様へ対面され、将軍家のご相伴で御膳を
召上られた時、両若君様もご相伴し、御膳を共にしたが大御所様は国松君のお側付きの
女中に向かわれ
「竹千代が相伴するのは最もである。
国松が相伴するのは、無用である連れ出せ。」と言った。
その後、御台様へ仰しゃったのは
「総て、天下を取る兄弟という事は無いので、国松が達者で成人すれば、国・郡主となり、
竹千代の家来となって奉公するより他は無い。
それ故、幼少から仕向けるのが大事である。これが国松のためである。」
との仰せで、将軍家方をご覧になり
「あの人の幼少立ちに、竹千代程似ている兄は無い。それ故、一層我等の秘蔵である。」
と仰しゃれば、将軍家は、「恐れ多い事です。」とご挨拶された。
御台様には、兎角の仰せも無く、赤面され当惑の様子であった。
その後大御所様は、上総国東金辺りへ泊られ、お鷹野をされた跡に竹千代様の
様子を、前とは格別に仰出て、国松君の部屋へ伺う事はしなかった。
春日局が、伊勢参宮の時、駿河の御城へも上ったのは、確かな事で、去る
老人の話を聞いたけれど時も移り、その上、公儀の事故、虚実の事はわからない。
それらの事で家光公は、ひたすら大御所様の御蔭で、天下のお譲りも受けられたという思いで
特に、東照宮様を信仰され、天海僧正と懇談され、本丸の庭で前将軍様が、西の丸から入られ
目障りにならない所に、權現様のお宮を小さく建立され、常に拝礼された。
そのお社は、未だに紅葉山御宮の後ろに残っている。
台徳院様ご他界後、正月の喪が過ぎて天海僧正へ仰付け
「今後は、權現様をして、当御城の鎮守とされる。」
と仰出になり、古来から紅葉山にあった山王の社を、上野の寺内に移され
その跡に今の御宮を新たに建立仰付け、御神体は1618年(元和4年)浅草寺内に建立された。
「御宮の御神体を遷座する様に。」と仰付け、浅草寺観音・別当観音院
が御供したので、今でも紅葉山御宮は、諸事、浅草寺から勤めている。
(注釈)
家光公 秀忠公の二男。第三代将軍。1604〜1651年。
駿河大納言忠長卿 秀忠公の三男。 1606〜1633年。
御台様 将軍の妻。
嫡子 跡継ぎ。
近習衆 主君の側近に仕える者。
春日局 家光公の乳母。 1579〜1643年。
相伴 客の相手をし共に接待を受ける。
御膳 食膳。
天海僧正 天台宗の僧。 1536〜1643年。
観音 観世音の異称。 千手観音ともいう。
浅草寺 聖観音宗(天台宗)の一派。
遷座 神仏の座を他所へ移すこと。
別当 神宮寺を支配する僧職。
御供 神仏に供える物。
1、問 元和年間(1615〜1623)、下野国日光山建立については天下の
無かった。
江戸の浅草寺内に、東照宮社を建立されたについては、及ばない事である。。
浅草寺で、何れの所を指して、御宮の跡というのであろうか。
1、答 筆者が聞いているのは、權現様が駿河の御城内で、御他界される以前。
跡の事は、板倉内膳正重昌殿へ仰せ置かれた時、日光山の御宮は江戸を極めた事でも
あれば江戸表で諸人が、参詣のために御宮が有る方が好いと思われたが、別に、一山を
切り開く事は出来ない。
幸い、祈願所のことであれば、浅草寺観音堂の側に、簡単に建立する様に仰せ置いたので
御他界後、日光山の御宮建立は伺ってお移しの時、江戸御宮も内膳正殿が申上げたので
日光山の、普請が初まった時から、浅草寺内の御宮も普請が初まった。
日光の御宮が出来たのは、1618年(元和4年)4月17日、御遷居の刻限に浅草寺内の御宮
でも 御遷座の決まりが有り、諸大名方・旗本衆が参拝した。
御宮の跡というのは今の観音堂に参れば、左の方に淡島大明神の有る辺りは竹薮で、その
辺り迄 御宮の跡と伝えられている。
御宮は、総て回りに堀が有り、本社へ参って門前に掛かっている石の橋は今も残っている。
その他、御宮付の護摩堂は御宮類焼の時も焼け残っているので、今は不動堂に用いられている。
気を付けて良く見れば、所々に葵の御紋が残って見える。
(注釈)
板倉内膳正重昌 江戸初期の三河深溝城主。 1588〜1638年。
1、問 そなたが聞いている通りであれば、權現様が御在世の時、指図された御宮
であれば、永々共に浅草寺内に有る御座宮の他、御宮というのは、上野の
寺内に建立されているが、何か子細があったのだろうか。
1、答 その事を、筆者が聞いているのは、元和年間迄の観音堂は、北条家からの建立で
《武州川越の城主 大道寺駿河守政繁 是を奉行す》と棟札に書いて有った。
しかし、数年の事なので残らず破損し、諸堂と共に傾き、苔が生えていた。
東照宮の御社は、近年の普請なので光輝いていたので、古来からの観音堂は
大破し、特に見苦しいというので公儀へも達していた。
或る時、この辺りで御鷹野をされ、観音堂の近所を通られ、諸堂の大破の様子を
ご覧なされた。
その後、観音堂の建立を仰出られ、諸堂共に残らず、普請が出来た。
その時、別当観音院と内藤左近殿が心安かったので、山門に近い東南の方に
当る、今の火除けの空地となっていたのを、貸地にした。
左近殿から、家作を申し付けた処、その家から出火した時、折からの南風が
激しく山門へ吹付け、夫から次第に焼広がり、本堂を初め諸堂が残らず焼失し
その上、權現様の御宮迄も類焼した。
その様な次第なので、別当から重ねて建立を願い上げるのは、出来ないので内々で
諸堂の事を差し置いて、観音を安置し、本堂をどの様にでも簡単に、建立して
下さる様にとの事であったが、取上げられなかった。
或る時、別当を御城へ呼び、阿部豊後守殿が仰しやるには
「元来、浅草寺は、公儀からの建立地では無いが、思召しで建立した処、
失火同様で門前から出火し、諸堂が残らず焼失し、その上、御宮迄も類焼
した事は、不調法な思いであるが、そういう事で、再興を仰付けられ建立する事に
なった。」
と言われたので、別当初め一山の僧俗達は有難く思った。
東照宮社は、御神体も先達って紅葉山へ入られ、今は拝殿だけである。
堂の建立は、延長されると仰出があったが、その時の建立された諸堂が今の観音
である。
筆者が12・3歳の時の事である。
(注釈)
大道寺駿河守政繁 北条氏の家臣。友山の祖曾父。 1533〜1590年。
1、問 紅葉山、御供所の前に有る、石の
あるのを、諸人が不審がっているが、すべて、紅葉山御宮へ献上したのは
御三家方の他には無い。外様の大名衆の中で、但馬守殿一人に限って手水鉢、
献上というのは何か子細が有るのだろうか。
1、答 但馬守殿の御内室は、權現様の姫君で、初めは蒲生秀行へ縁付かれ飛騨守
死去の後、浅野但馬守殿へ再縁され、紀州の御前様といわれた。
東照宮の御社が、浅草寺内に建立されたので、
けれど「但馬守室」とは如何なものかと「但馬守長晟」と、銘を彫り付けた。
実は、お姫様からの寄進なので、浅草寺の御宮跡に焼残ったのを、紅葉山へ移した。
その事で、元和四年と彫り付けたと、人伝へで聞いた。