霊厳夜話
 
 

第5話 西の丸の事
  1、問 今の西の丸というのは、いつ頃から築造されたのであろうか。

1、答 筆者が聞いているのは、関東御入国の時は、今の西の丸の所は、野山で所々に
       田畑があり、春には桃、桜、梅、つつじなどの花が咲き、江戸中の諸人(もろびと)の遊山
       場所になり、天地広という常念仏((注釈))堂もあった。
       後に、權現様が御隠居されるとの仰せで、堀・石垣などの外部の構造が出来て
      その中に御屋形((注釈))も揃った時には、新城といった
       それで本丸と分離し、紅葉山下通りを半蔵門の方へ通り抜け用の往還((注釈))であった
      ので、新城の築造の心得は、紅葉山を諸人(もろびと)の慰めの場所とすること。
      兼ねては、新城を御隠居所にとの思召であったが、関ヶ原の勝利後、天下統一
      のため、駿府を御隠居とされたので、新城も曲輪((注釈))となった
        さらに、紅葉山下と両所に締りの門が出来て、本丸と一構え((注釈))に仰付けられたの
        で、山王の社へ、参詣が出来なくなり、諸人(もろびと)共に、氏神詣に迷惑したとの事が
        耳に入り、半蔵門の外の堀端に、山王權現の社を、新たに建立を仰付けた。
        別当には両教院、神主には日吉大膳を仰付け、(こと)の外繁昌したが、酉の年(明

歴三年)の大火事の時に類焼した。後に、今の山王の宮地へ移す様に仰付けた。
  (注釈)
    常念仏(じょうねんぶつ)  絶えず念仏を唱えること
     御屋形(おやかた)  貴人の家や宿所。
     往還(おうかん)   行き帰りすること。
     曲輪(くるわ)   城の周囲の囲い。
     一構(ひとかま)え  一まとまり。 


  1、問 そなたが聞かれた通りであれば、西の丸が普請(ふしん)出来ない前は、決まって西の丸
      の曲輪(くるわ)も無い筈である。
        御入国された時、西の丸下辺りの様子は、どの様であったであろうか。
  1、答 関東御入国といっても久しい事である。
        筆者は知り様が無いが、筆者が若年の頃、小木曽(おぎそ)太兵衛(たへい)という者がおり、
        權現様が浜松におられた時、親以来の御持筒同心((注釈))で1590年(天正18年)
        御入国のお供をし、関ヶ原・大坂両(たび)の陣にも、お供をした。
        その者が年を取って息子をご奉公に出し、自身は隠居をした。
        筆者の養父の北条氏長(うじなが)殿が、子細あって目を掛け、手元へ呼び寄せて養って
        いたので、筆者が幼年の頃から、小木曽の物語を、朝夕聞いていた。
        本末(ほんまつ)の、ご奉公を勤める者達なので、行動を起した事は知らないが、時代の
        奇妙な事件などの分からない事を、浅野因幡守(いなばのかみ)殿も、筆者の養父へ申しつけ、
        近習(きんじゅう)の者をして、直ぐに尋ねた事も度々あった
        小木曽の物語は、御入国の時は、今の外桜田門に立っていた所には、大きな
        扉が無い木戸門が立っていて、小田原門といっていた。
        今の、八代寄りの川岸の辺りは、漁師達の家があり、魚を買い求めた時には
        漁師達が調(ととの)へてくれた。
        御入国の翌年であったか長雨が続いた後、大南風が吹き、高潮が揚がり、例の
        漁師町が水浸しになったので、漁師達は妻子を乗せ家財を積み、今の馬場先門
        になっていた辺りの、畑の中の大木へ船をつないで、食事を調(ととの)へたのを、御城
        へ御番に上った時、見えた。
        その後、新城が出来たので、西の丸下の曲輪(くるわ)も出来て、外桜田門が建った時、
        この門は以後、外桜田門といったので小田原門とは言わない様にと頭中(かしらじゅう)から
        言い渡したと、小木曽は言った。
      すべて西の丸下は地高で有り、西の丸の御掘なども堀であったので、大量の
      土が有って、漁師町近辺の芦原(あしはら)は、大方築地の様であった。
      漁師町は、間もなく一続きの町屋となり、魚屋、その他、種々の賣買物も、
      有ったので、名を日比谷町といって、(こと)の外繁昌したが、その後再び曲輪(くるわ)
      なったので、今の日比谷町へ移ったと小木曽が話した。
 (注釈)

   御持(おもち)(つつ)同心(どうしん)   将軍の鉄砲を預かり、与力・同心を率いて旗本を警衛した


   1、問 御入国の時、それ迄、遠山丹波守(たんばのかみ)の居城というのは、如何様(いかよう)な事であったの
         だろうか。
   1、答 その事も、小木曽が物語ったのは、遠山時代の城というのは、石垣などで
         築いた所は一ヶ所も無く、(すべ)て芝土居で、土手には竹木が茂っていた
         御入国の時、本丸・二の丸・三の丸といっていた間には、深い空堀(からぼり)が有っ
         ので、早速埋めさせ、(こと)の外広くなった。
         中仕切の石垣が出来てからは、以前の御城の面影が無く、大いに様子が変った
         ので、若い時分、御番に上り、以前の事を思い出して考えれば、どこが以前の
         堀跡であったか、合点(がてん)がいかなかった。
         その時、外溝の大手門といっていたのは、今の百人御番所の門である。
         その時というのは、今は、内桜田大手の門の辺りから三の丸・平川口迄の間
         には、掻上げ((注釈))土居の様な外郭(がいかく)の形があり、土手には竹木が茂り、四・五ヶ所
         ばかり海端に出て、怪しい木戸門が有って、中には遠山の家中の侍達の屋敷の
         地で大きな家も有ったが、小さい家が多く有った。
         籠城の時、失火もしないでそっくり残っていたので、御入国の時は(こと)の外役に
         立った。
         寺も二・三ヶ所有り、その寺は、間もなく他へ、移させたので金子(きんす)を下さった。
         その後その場所は、総て内曲輪になり、外大手・内桜田の門を立て、その中に
         老中方・諸役人衆の屋敷があったのは、大(ゆう)院様の代迄の事で有った。
         外の大手の橋が、初めて掛かった年の、八月十五夜の清明に、老中方が何れも
         申し合わせ、橋の上に毛氈(もうせん)薄縁(うすべり)を敷いて、夜更迄大酒盛をしたら、本丸から
         御側衆を使者にして、何れも橋の上で月見をするとの、君主の耳に入りこの事
         で、お重の内を下されるとの上意があった。
 (注釈)
   掻上(かきあ)げ   空堀(からぼり)を掘った土を、掻上(かきあ)げて土塁にする。

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外桜田門
 上が高麗門、下は渡櫓門

内桜田門の桔梗門