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歴史の深いこの地域に工務店を興し商売させて戴いて30年近くに成りますが、当社のお客様で、亀ヶ崎在住の阿部藤吉氏が中心となって、今から13年前に発刊された「亀ヶ崎史」(平成6年12月24日発行)に触れる機会がありました。
私のように当地に住まいながらもこの本を知らない方、また地元亀ヶ崎生まれで現在は遠方に住んでおられる方々に、このページを通して故郷を懐かしんで頂ければと思い抜粋して載せてみました。志田 |
掲載場所の山形県酒田市亀ヶ崎5丁目1−38(十一面観音堂)地図にリンク
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私達の現在の生活は、先人達が長い間積み重ねて来た努力の上に成り立っています。この先人の業績をたずね、祖先の偉業を偲び、その功績を讃え、事績を詳らかにして後世に伝えることが、我々の責務ではなかろうかと存じます。
我が亀ヶ崎地区は、昭和30年代頃より、国の経済成長に伴い都市化が進み、酒田市の都市計画のもとで宅地開発が盛んに行われて来ました。
私達子供の頃は、村の周辺は見渡す限りに広々とした、長閑(のどか)な田園地帯でありました。今はすでに昔日の面影を残していません。このように大きく変貌し、昔のことがだんだん忘れ去られて来る時、亀ヶ崎農家区史編纂(へんさん)の要望の声が持ち上がり、平成元年の農家区通常総会で満場一致決議されました。
この全編の総括編集に当たられ、膨大な資料を寝食を忘れて献身的に調査執筆された土岐田正勝先生、古代・中世を主に担当された東根敏夫先生、昔の鵜渡川原を思い出させる風景を描いて花を添えられた五十嵐豊作先生を始め、多くの方々によりご協力を得ての発刊であります。
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| 阿部藤吉 氏 |
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| 九代目 亀ヶ崎農家区長 「亀ヶ崎史」 編集委員長 阿部藤吉 (亀ヶ崎史発刊のことばより抜粋) |
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亀ヶ崎史表紙 |
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十一面観世音菩薩看板 |
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我が国に仏教が伝わったのは欽明天皇7年、あるいは同13年のことであるといわれている。仏教伝来後、民間に広く普及した菩薩像は地蔵菩薩と観音菩薩であった。
地蔵菩薩は、もともと釈迦が涅槃(ねはん)に入った後、次の弥勒仏(みろくぶつ)が現れるまでの間、大慈悲によって苦しむ衆生(しゅじょう)を救済するために現れた菩薩であった。
これに対して観音菩薩の方は、救済対象者がより広範囲であり、万能的な菩薩として信仰されるようになった。
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、あるいは観自在菩薩を「観音」「観自在」と称しているが、観音の意味するところは、「世の人々の救いを求める声・音を聞き、自由自在に救済する」ことであり、「世の人々の音声を観じて、苦悩を解脱せしめること」である。
大乗(だいじょう)仏教における菩薩の観念は「四弘誓願」(しぐせいがん)といわれるものであり、上に向かっては自分自身の悟りを求めて精進し、下に向かっては衆生(しゅじょう)を1人残らず救済しようと精進する「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)」ということになる。
菩薩は智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を兼ね備えており、阿弥陀三尊・釈迦三尊・薬師三尊などの場合、両脇に侍する菩薩が仏の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)という二つの特徴を象徴しているといわれている。
観音はあらゆる衆生を広い門から自由に救うことから、単一の姿、単純な内容を通り越して、インド→中央アジア→中国→日本へ伝えられる間に、さまざまな姿・形となってあらわれた。
これらは十一面観音・千手観音・不空羂索観音(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音などと呼ばれる、多面多臂(ためんたひ)の変化観音となった。十一面観音は、十一の面に人々の苦しみを救う力を秘めた観音のことであり、前の三面は慈悲相を表し、左右の六面は忿怒相(ふんぬそう)、後ろの三面は忿怒の極致(きょくち)の大笑をもって魔を払う大笑面である。
亀ヶ崎3丁目に所在するいわゆる観音様、正式には十一面観世音菩薩への信仰はあつく、酒田地区住民のみならず、近隣近在から参詣に訪れている。毎日、朝夕に参拝者が訪れる。「仏教語大辞典」中村元、「観音様入門」。 |
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下部の十一面観音堂は弘化3年(1846)に大々的に再建されたのが、現在の社殿である。
拝殿の彫刻等もこの時に造られたものと考えられる。力士像は4体設置されている。 |
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左側力士像 |

正面力士像 |
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右側力士像 |
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| 正面入り口上部に飾られている彫刻 |
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慶光山観音寺(けいこうざんかんのんじ)は、真言宗智山派の寺院である。
慶長6年志村伊豆守光安が亀ヶ崎城代として山形領は長谷堂より移封の際、青原寺とともに十一面観音を守護して当地に勧請(かんじょう)されたものである。開其は姿雄律師(しゆうりっし)である。
住職は十一面観音の別当として奉仕してきた。本尊は十一面観世音菩薩である。
志村光安は、最初この尊像を東禅寺城二の丸、北の隅に勧請して祈願仏としていた。
しかし慶長19年6月1日に2代目志村光惟が暗殺され、大檀那志村家の断絶とともに、元年8年最上家改易ののちは、観音寺も荒廃し、住僧離散するようになり、空寺となった。
したがって、文書記録も散じてしまい、十一面観音の由来を徴するものがなくなった。
酒井家入部後の元禄14年、住職元雅(もとまさ)のとき、観音寺は酒田山龍厳寺(りゅうごんじ)の末寺となった。
宝永5年3月、観世音菩薩像を亀ヶ崎城内二の丸より現在の観音寺・観音堂に移した(昭和25年宗教法人台帳関係綴り・教育課)。
その後、十一面観音堂は鵜渡川原の鎮守となり、天下泰平、国家安全・武運長久・万民快楽・五穀豊穣を祈願してきた。
しかしこの鎮守の宮も破損が激しく、再建しなければならなくなっていた。
そこで志村家旧臣等が相謀り、安永9年(1780)、観音寺の側に四間四面の十一面観音堂を建立した。
しかし同安永9年6月18日の庄内大地震によって観音堂は大破し、観音寺も損壊した。
それから3年後の天明3年、観音堂を修復、再建した。このころ、本間家が観音寺に大日如来を寄進した。
なお、この観音寺修復作業中に、須弥壇(しゅみだん)下より、はなはだ痛みのひどい獅子頭が見つかった。
天明3年から63年後の弘化3年に大々的に再建されたのが、現在の社殿である。拝殿の彫刻等もこの時に造られたものと考えられる。 |
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道元は幼くして両親を失い、叔父通具に養われた。初め比叡山で天台宗を学んだ。のち栄西の門に入り、禅を修めた。
貞応(じょうおう)2年24歳のとき明全(みょうぜん)と宋に渡り、曹洞禅を修めた。彼は師・如浄(にょじょう)に帰依し、その弟子となった。それから4年して嘉禄(かろく)3年8月、帰国の途についた。道元28歳のときであった。
このあとの寛元元年、永平寺を建立し、弟子の養成に当たった。
亀ヶ崎の十一面観世音菩薩は道元禅師による一刀三礼(いっとうさんらい)の作と伝えられている。道元禅師が観音像を彫刻したとされる由縁は、次の通りである。
道元等が中国からの帰航の途次、大暴風雨に遭遇した。
船は山のごとき大波に翻弄(ほんろう)され、身魂(しんこん)正に無い状態になった。そこで道元は黙然として坐し、神仏に祈った。やがてその効験(こうけん)として観音大士(かんのんだいし)「賢者・偉大な人」・菩薩が一葉の蓮華に乗って海面にあらわれたところ、これまで猛り狂っていた海が急に静かになり、無事肥後国(ひごのくに)「熊本県」川尻の港に着くことができた。
感激した道元禅師は、帰朝後、一葉蓮華の上にあらわれた観音像を刻んだ、というのである。ときに安貞2年1月18日(1228)のことであった。
同様なもう一つの説は、道元帰国に際して台風のため船が大揺れに揺れ、いまにも船が転覆しそうになったとき、中国での留学中の師・如浄(63歳)からいただいた「観音大士」の尊像に航海の無事を一心に祈りつづけた。
その霊験・慈悲によって波もおさまり、無事帰国できた。
禅師は感激のあまり、帰国後これの報恩のために観音大士の尊像を刻み、これを菩薩得道の守護仏として身辺より離さず、一寸八分の金銅仏を、その尊像の胎内に秘蔵したと伝えられている。道元禅師は権勢と名利を捨てて越前の深山幽谷に包まれていたが、建長5年8月京都に帰り、同月28日、54歳で示寂(じじゃく)「高僧などが死ぬこと」した。
道元は釈迦自証の全精神が、あたかも一器の水を一器に移すごとく、仏仏祖祖の面授によって道元に伝えられたとする信念に基づいて、正伝の仏法と称した。そして正伝の生命は座禅であるとした。
それから幾星霜を経て、道元作による十一面観世音菩薩は、安土桃山時代、豊臣秀吉の手に移った。秀吉はこの尊像に帰依すること篤く(あつく)、殿中に奉安した。
このあと、後事を託する故をもって、これを最上義光に贈られたという。
さらにこれが、最上義光から信任の厚い志村光安に伝えられたというのである。
慶長6年、光安が東禅寺城主になると、彼は旧領・最上長谷堂よりこの十一面観世音菩薩を城内の二の丸・北の隅に勧請して祈願仏とした。光安は戦場に臨むとき、必ず観音を内兜(ないとう)に奉戴(ほうたい)したといわれている。
平常は本仏蓮華座の中に忍ばせていたという。観音像が城主志村光安の祈願仏であったことは、天明4年3月、鵜渡川原獅子舞再興について庄内藩寺社奉行へ提出した請願書にも出てくる。また、先祖以来観音寺に奉仕してきた高橋家の自宅天井裏から、煤煙に埋もれた屏風が発見され、その下張りとして使用されていた仏供米袋用紙二枚が見つかった。そのなかに、次のように認めて(したためて)あった。
「鵜渡川原慶光山 観音寺」「 奉 開帳十一面観世音菩薩 護摩供志袋」 「道元禅師一刀三礼之作也」 来3月16日より同18日迄さらに亀ヶ崎の最上家旧家臣・水越家に伝わる江戸時代の古文書にも、「道元禅師御作の由・・・。」の一文があり、古くから十一面観音像が道元の作であることに、こだわり続けてきたことが分かる。 |
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明治28年7月の鵜渡川原村役場記録によると、十一面観音堂の例祭日は毎年5月5日であったことがわかる。
しかし88夜の4日後のことでもあり、例年この日の前後ころに天気がくずれることや経済上のことも考えて、5月10日に改めたいと鵜渡川原村各区長集会の折りに提案された。提案者は豊受神社氏子総代児玉義助・竹内直次郎・武田孝則、ならびに観音堂信徒総代阿部長九朗・大渕三之丞らであり、以後そのように決定され施工された模様である。
現在のように4月18日に改められたのは、昭和40年からである。 |

十一面観音堂 |
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村社豊受神社祭礼時の神宿と観音堂当前の営繕は、明治43年まで、それぞれ村内別々の区で設営していたが、この年五月から住民経済のことも考え、同一区内で神宿・当前の営繕をすることになった。また、観音堂の僧侶三名と獅子若勢(わかぜ)には昼賄を供してきたが、祭礼当日はたいへん繁雑になるので、賄料を1名につき30銭ずつ支給することにして本賄は中止することにした。
なお慣例として村社豊受神社の神官、舞子、神子、太鼓、笛雇など八名のほか、氏子総代、観音堂信徒総代など14名を神宿りに招待した。明治43年の例祭典費は村社祭礼分を含み37円で、1戸当たり平均10銭の協議費を負担した。 |
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(1)正法とは
正法とは、正しい真理、正しい理法という意味である。これがさらに発展して、正しい真理の教え、仏の教えという概念を持つようになった。また、釈尊の教えが正しく世に行われる期間のことをも意味し、正法・像法・末法の三時節のうちの正法のことである。すなわち教説「教」とその実践「行」と、その結果としてのさとり「証」とが正しく具わって、釈尊の教えが完全におこなわれる時代のことをいう。その時限としては、一般に500年説が用いられている。
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正法会館
大正15年(1926)建立 |
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6代目酒田市長相馬大作書
(入口上部に掲載) |
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「正法眼蔵」(せいほうげんぞう)とは、禅門で正しい世界の見方、さとりの真実のことをいう。釈尊が説いた無上の正法のことである。
正法眼蔵とは、すなわち釈尊の悟った正法の内容を正徳(得ること、近づくこと、体得して直観的に見ること)すれば、目の如く一切を照破(しょうは)して迷いがなくなり、一切を修めて余す処が無いので蔵になる、ということである(仏教語大辞典)。
(2)正法会
亀ヶ崎の正法会の創設が、いつのことであるか不明である。
正法会は、亀ヶ崎に鎮座する十一面観世音菩薩の霊徳を宣揚し、精神の修行や知徳の啓発に努め、かつ、信徒の相互親睦を図る事を目的としていた。このため正法会館に名士を招聘(しょうへい)しての講演会や講習会を開催する一方、国民精神教化につとめるものでもあった。 |
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江戸時代の宝永5年(1708)亀ヶ崎城内二の丸より現在地の観音堂に遷座(せんざ)以来、十一面観世音菩薩が60年ごとに御開帳されたのは、文化6年(1809)、明治2年(1869)、平成元年(1989)の4回であった。
亀ヶ崎十一面観世音菩薩の御開帳が、平成元年8月17日から19日までの3日間にわたってとりおこなわれた。この時連日の好天にも恵まれ、御尊像十一面観世音菩薩に一目拝接(はいせつ)しようと、3日間で1万人を超す参詣者(さんけいしゃ)が全国各地から訪れ、諸願成就・家内安全を祈願し、心の安らぎと人生の幸せをかみしめた。
とくに参拝者が集中した夕方から夜にかけては、観音堂の前に行列ができるほどの盛況ぶりで在った。
また、正法会館では郷土史関係資料の展示会が開催され、郷土の歴史に関心を持つ機会がつくられた。 |
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| 亀ヶ崎史 |
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平成6年(1994)12月24日発行 |
| 編 者 |
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亀ヶ崎史編集委員会 |
| 委員長・監修 |
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土岐田正勝 |
| 委 員 |
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阿部藤吉 |
| 委 員 |
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東根敏夫 |
| 委 員 |
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庄司直弥 |
| 委 員 |
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五十嵐豊作 |
| 発行者 |
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山形県酒田市亀ヶ崎農家区 |
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