酒田の備忘録
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酒田の備忘録    

1芭蕉の不易流行 2庄内市構想は再熱するか? 3酒田女と鶴岡男 4庄内・三分の計
4_1道州制移行時、庄内はどの区割りに入るのか 4-2“日本海州案”の展望
5地域の活性化 6酒田と地政学(ゲオポリティーク) 7酒田にあった一大事業、その 8酒田にあった一大事業、その2
9義民魂のDNAは 10西郷南洲翁遺訓と南洲神社 11酒田文化向上の貢献者“佐藤久一 11-1“土門拳”は酒田で誕生した
12究極は“人づくり” 11-2作家、北重人は酒田出身


1  芭蕉の不易流行

日和山の芭蕉像
 元禄二年(1689)、奥の細道で酒田を旅した松尾芭蕉は、“不易流行”(ふえきりゅうこう)という教えを残しています。
 「不易」とは変わらないこと、どんなに世の中が変化しても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものを意味し、「流行」とは変わるもの、社会の動きや状況に従い変わっていくもの、或いは変える必要があるもののことです。そして、この両者が補足し合いながら発展していくことが、人であれ国であれ理想とされているそうです。

 もしかして、芭蕉は奥の細道の旅の中で一番気に入り、一番長い9日間も逗留した酒田のために、この言葉を残したのかも知れません。・・・・などというと、「そんな軽い意味ではない」と芭蕉通にご指摘を受けそうですが、この言葉の裏には、今の酒田ための重要なヒントが隠されているようでならないのです。
 悠久の自然は変わることはないが、人の世は有為転変が激しいもの、芭蕉が今の酒田に訪問したら、どんな句を詠むのだろうか。
 「暑き日を海に入りたり最上川」・・・自然のとらえ方が限りなく大きい。
 因みに、芭蕉が訪れた当時の酒田は、人口約12,600人で、役人(武士)が約100人、うち足軽目付が6人いた。いずれも下級武士であり、仕事は今の警察と市役所を兼ねた仕事をしていた。しかし、実際の実務は、豪商の“36人衆”や大庄屋が担当していたとの記録が残っている。

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2  庄内市構想は再熱するか?
 平成17年11月1日、酒田市は八幡・平田・松山の三町を合併し、人口11万5千を超えています。しかし隣の鶴岡市は、同年10月1日付で、温海・櫛引・羽黒・藤島町、朝日村を合併し、人口14万を超え、庄内の新たな勢力図が誕生しています。
 これまで、酒田と鶴岡は、人口10万前後で拮抗していたのですが、やや酒田が勝り、山形県第二の都市は酒田、庄内では第一と自負してきました。しかし、合併以降は鶴岡にその座を譲っています。
 鶴岡の合併成功は、人口2万5千の差にとどまらない差が、今後、雪崩現象となって出る可能性があります。その、早速の現れとして、藤沢周平作品のゆかりの街として、街角には案内板がいたるところに立てられ、また、庄内映画村の誘致、全国区で知られる出羽三山や温海温泉のPR等で、観光客の増加が見込まれ躍進を予感させる条件が随所に見られます。

 因みに、両市の合併に組みしなかった遊佐町(約1万8千)、三川町(約7千8百)、また庄内町(約2万5千)の立場が鍵を握っていますが、これら自治体の動きにより、一層際だった関係も予測されます。
 ただ当初あった、「庄内市」案が再熱し大合併が成功すれぱ、人口30万を超す大都市が誕生し、県や国に対し、庄内としての発言力が格段に増大することになるでしょう。
 尤も、酒田と鶴岡が一致協力すればの話ですが、これが一筋縄ではいかないようです。


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3  酒田女と鶴岡男
  最近まで、「酒田女と鶴岡男」という言葉があったそうです。
 これほどピッタリと、酒田と鶴岡の関係を言い当てている言葉はないと言われています。
 名はあれど金はない鶴岡武士と、金はあっても名がない酒田商人との結びつきは、江戸時代から戦後まで続いていました。この代表的な関係が、鶴岡の酒井家と酒田の本間家でしょう。本間家は長い間、酒井家のスポンサー的存在だったのです。“本間様には及ばぬが、せめて成りたや殿様に”の世に知られた戯れ歌がこれを裏付けています。

 ゆったりと動じない風情の鶴岡武士、何かと目先がきき商売上手の酒田商人、この価値観の違う両者は、しっくりとは交わることが出来なかったことでしょうが、互いに無いものを補完する関係が長く続いていたのです。
 このような歴史的背景もあるからでしょうが、ライバル関係として現代まで続いているのだから面白いものです。まあ、それも相応の力を持った者同士が隣接している宿命からでしょうが、一方が圧倒的に勝る力を付けた場合は崩れてしまう、脆い関係であると思います。
 その意味でも、今が酒田の正念場と思います。


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4  庄内・三分の計
 “天下三分の計”は三国志で有名な話です。
 諸葛亮孔明が、後に蜀の王となる劉備に提言した国家経営の策です。魏の曹操、呉の孫権、これに対抗するには第三の勢力として荊州と益州(後の蜀)に勢力を興し、国を三つに分ける。これが、劉備に与えた孔明の奇策でした。
 これを、単純に庄内に当てはめるのは不謹慎と思う向きもあるでしょうが、遊佐町、庄内町、三川町は、三国志における“蜀”の役割を担うに十分な力とチャンスを持っていると思われます。

 あくまで仮定の話ですが、近い将来、遊佐町が酒田市に編入されても、庄内町と三川町が組めば人口3万3千となり、市昇格の下地を整えつつ、酒田、鶴岡両市の独断にブレーキをかけたり、あるときはアクセル役となり、重要な場面で主導権を握る機会も多くなることでしょう。
 また、“庄内市”誕生に際しては中核となる官庁の受け皿や、日本海沿線新幹線の主要駅の引き合いにおいては、酒田・鶴岡の中間点に位置する庄内町に配置する可能性も十分にありそうです。

 つまり、“漁夫の利”を得る可能性が高いということです。
 まあ当面は、庄内全域をまとめた“庄内市”の誕生は無理でしょうが、長期的には、連邦制あるいは道州制導入が本格的遡上に上ったとき、必ず“庄内市”案は再浮上するでしょう。この“庄内・三分の計”案は、それまでのつなぎとして現実味のあるプランでしょう。

※ この項を書き終えて間もなく、平成20年3月14日(木)付けの新聞に、「道州制移行27〜29年メド」と、道州制移行の見通しが早まったとの記事が掲載されました。一旦配信しました、庄内三分の計案はこのまま残しますが、「道州制移行時、庄内はどの区割りに属するのか?」と「“日本海州案”の展望は」を下段に追記致します。


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4_1 道州制移行時、庄内はどの区割りに属するのか?
上は、東北六県案
庄内を日本海州とした案
 平成20年3月14日(木)、「道州制27〜29年メド」の活字が、新聞の全国版に踊りました。人口30万以上を標準的な基礎自治体とする案が進められ、もはや、“庄内・三分の計”などと呑気なことを言っている暇はない速度で、道州制移行が迫っています。7〜8年後には実現の可能性が高いのです。
 現時点の区割り案候補は、東北六県で一州、山形・宮城・福島で一州、東北六県と新潟を含めた一州、他に、日本海に面した地域を連ねた“日本海州”案もあり、決定までは流動的で紆余曲折もあることでしょう。

 ここは、あえて少数の“日本海州案”を検討したいと思います。
 左に略図を示しましたが、庄内は、左のような形で東北六県案に追従していいのでしょうか。この案では、当然のように州都は「仙台」あたりに落ち着き、仙台中心の行政が敷かれるのです。そして、地域の評価として、まず仙台、次に盛岡・秋田・山形・青森、その次の次あたりに酒田或いは鶴岡という序列が形成され、庄内の益々の地盤沈下が容易に想像されます。

 これに対抗した“日本海州案”では、庄内は、新潟・富山・石川・福井などと同格の行政が始まるのです。この場合、州都は新潟か富山に落ち着くでしょうが、庄内も米どころとして、又、良港を持つ地として、或いは観光地としての役割が期待され、本格的日本海時代の幕開け到来となるでしょう。 
 庄内は、歴史的にも日本海に面した地域との密接な関係で発展しているのです。ここは今一度冷静に、どの案を推進すべきか議論すべきです。そして、どこの州都に属すべきなのか、州知事は、市割りの区分は、州の行政機関は、税収面は、交通網の展望は等々、どれが庄内の魅力アップにつながるか、多角的に包括的に議論して欲しいものです。

 廃藩置県以来の屈辱的分割案をそのまま引き継ぐ、東北六県案に盲従していいのでしょうか。今こそ、庄内30万人の誇りを世間に示して欲しいものです。
 なお、この案は酒田・鶴岡の一致が前提にあり、最悪は、鶴岡以南は日本海州案、酒田以北は東北六県州案に分かれる可能性もあるのです。
 “石巻〜酒田ウエストライン”などと悠長な考えで良いのでしょうか。歴史と現実をシッカリと見極めて欲しいと思います。

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4-2 “日本海州案”の展望は
 “日本海州案”は、東北六県州案からの離脱であり、明治2年の廃藩置県に始まる、大泉県〜酒田県、明治8年には鶴岡県、そして明治9年に山形県に合併された屈辱的歴史からの脱却でもあります。
 つまり、庄内ルネサンス(復興運動)の始まりでもあるのです。
 ましてや、中国、ロシアの発展は著しくは、更に朝鮮半島の雪解けが始まれば、貿易・物流の一層の拡大が予測され、日本海側が表玄関として重要視される時代の到来は必至であり、海に面した地の利から大陸棚等の海洋資源を含め、大きなメリットが期待されるのです。

 展望を簡単にまとめれば、
第一に、日本海に面した地域と、同じ価値観、一体感を共有できる。
第二に、日本海に面した、良港を持つ地域として発展が予測される。
第三に、日本海沿線を往来する、道路網、新幹線整備が期待される。
第四に、海を持つ地域として、海洋資源、観光価値は無限に広がる。
第五に、日本海文化圏として、誇りと使命感の回復が期待される。
早い話が、デメリットを探す方が困難なのです。 

 これに反して、東北州案の場合、庄内の価値、役割はどの程度期待されるのでしょうか。庄内と太平洋側地域と価値観・一体感を共有出来るのでしょうか。仙台や山形、盛岡などの陰に隠れ、存在の薄い地域に成り下がるように思えて仕方ないですが、思い過ごしでしょうか。決断の時期は迫っています。
 庄内人30万人の、尊厳回復の最大のチャンス到来です。
  庄内地方(309,493人)   新潟県(2,404,499人)
  富山県(1,104,239人)    石川県(1,170,347人)
  福井県(815,318人)、     (日本海州案 合計 5,803,896人)
 もし一点だけでも心配するとすれば、GNP(国民総生産)や税収でしょうが、これも東北六県と比べれば遜色ないでしょう。

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5  地域の活性化・案
昭和40年台の中町の賑わい
最近の中町
最近の中町
 酒田の中心商店街であった地域の凋落が叫ばれて久しい。
 活性化案は、関係者で幾度も検討されてきたであろうが、長引く不況や少子高齢化、郊外への大型店舗進出等の原因があり、簡単なことではないでしょう。
 酒田の街は、港中心から駅中心へ、そして道路中心へと軸足を移動させつつ形成されてきました。かつての商店街に車で入ると、車社会を予測した計画など全くないことに気づきます。車社会では駐車設備のない街は致命的でしょう。
 それでは打開策は全くないのでしょうか。

 全国各地に、活性化に成功した地域が多くあります。その成功例に学び、自分のところに合致する案を取り入れることが一番と思います。
一人の旅館経営者(後藤哲也)の提案で人気を取り戻した熊本県黒川温泉
職員のアイデアを次々と採用し日本一の集客を誇る旭川の旭山動物園
昔ながらの町並を残し、町興しに成功した兵庫県出石町
栗と北斎で売り出した長野県小布施町
杉に注目し、町に景観条例を設け伝統工法の建物を奨励した金山町
古い町並みを大切にしている長野県の妻籠宿、福島県喜多方市の蔵の町、福島県の大内宿、秋田県角館市の武家屋敷
古い町の情緒を観光に行かした北原白秋の古里、福岡県柳川

 これらの地域に共通していることは、訪れる人に、センスがいい、オシャレだ、ここは落ち着く、等と感じさせるちよっとした売りが必ずあることです。
 車が入り難い場所なら、通行止めにして安全を演出したり、アンティークな建物が多いなら、そこに居るだけでホッとするような癒しの空間を演出したり、近接したところに温泉付きのホテルを数軒準備するなど。都会の人、或いは外国からのお客にも、自信を持ってお奨めできる空間とサービスを提案したいものだ。
 人でも街でも、常に他人、つまり観光客に見られていることを意識していると、服装に気をつけたり、統一性ある景観づくりに予算をかけたり、自分のところだけ目立つ看板は外したり、それなりに見られるようになると言われています。


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6  酒田と地政学(ゲオポリティーク)
本間光丘
 “地政学”「ゲオポリティーク」」(Geopolitik)とは、都市や国の地理的条件がいかに重要な影響を及ぼすかを研究する学問です。
 端的には、その地域が人の生存に適しているかどうかであり、より具体的には、食料、資源、交通の面からみて利便性の高い地域かということです。

 さて、ここ酒田はどうでしょうか。
  庄内地方の中で他の自治体と比較すれば、米どころ庄内平野のほぼ中央の最上川河口に位置し、海運、水運に恵まれ、地方都市形成の条件は十分に揃っています。
 だが広く国内を見渡し単純比較すれば、やはり弱点は交通です。この弱点を補うものとして誰もが、新幹線や高速道路の開通を期待することでしょう。
 この新幹線の場合、陸羽西線優先か、庄内平野を北上する上越新幹線酒田延伸優先かの意見がありますが、ここは基本案の日本海沿線案を期待したいものです。
 理由は、単純にどちらが利用価値が高いかです。
 陸羽西線案はせいぜい最上川の船下り、しかし、日本海沿線新幹線の開通は、これこそ“現代の北前船”の往来と位置づけることが出来るでしょう。
 そして、酒田〜東京間3時間台を実現すれば、“地政学”的にも重要地域として格上げされ、“裏日本”などという屈辱的な表現からの脱却の機会になることでしょう。
 酒田中興の祖、本間光丘は「有る物はない所へ、無い物は有る所から」と流通の妙を言い当てていますが、これも、日本海を自由に往来した“北前船”という輸送手段が充実していたからこそ、実力を発揮することが出来たものと思います。


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7  酒田にあった一大事業、その
詳細は童門冬二の本で
 “白砂青松”と形容される、南北35キロメートル、長さ日本一の庄内砂丘は、江戸中期までは酒田一帯は砂山であり、シベリア下ろしの北西風が日本海から吹きつけ、年を通じて砂嵐を巻き起こしていたという。砂は広く平野奥まで及び、田畑に甚大な被害を被っていました。
 そして、この砂嵐に一人立ち向かったのが、本間家三代目・本間光丘です。光丘の歴史に残る業績は数々ありますが、最も顕著で誰からも評価されているものは、“西浜砂防林植林事業”と思います。

   (以下、夢の足跡から引用)
 植林事業は光丘以前から試みられていた。最上川南側の砂丘地の植林は、庄内藩の三公七民の制と開畑策および資金供与によって進行し、明和六年(1769)には道地山(現鶴岡市西郷)から黒森村(現酒田市)までの砂丘に、森林が繁茂するに至った。また最上川北側の砂丘地の植林は、藩費植林とともに多くの私費植林によって行われた。私費植林の最初は、佐藤藤左衛門・藤蔵父子による藤崎地区(現遊佐町)の植林である。
 一方、酒田西浜の防風林は本間光寿・光丘父子が私費をもって植林した。寛保二年(1742)光寿の植林は失敗に終わったが、宝暦八年(1758)光丘は父の遺志を継ぎ、酒田西浜植林十年計画案を作成して藩に植林願いを提出した。光丘はこの年から植林を開始し、ぐみ・合歓木・松などを能登から運んで植え付け、砂防林を完成させたのである。

 光丘が植林を開始した基点に、大正13年5月光丘神社が建立しています。そして、平成13年、酒田市に東北公益文科大学が開学しましたが、名称は「公益」という考え方から商売で得た利益を地域へ還元し続けた、公益の祖として名高い光丘の名を、後世に残す意味から命名されています。
 
 付け加えますが、当時、米沢上杉藩では上杉鷹山が藩再建に取り組んでいましたが、上杉藩の再建成功は、光丘のアドバイスと資金援助が極めて大きかったからと言われており、上杉鷹山も師と仰いだと言われています。


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8  酒田にあった一大事業、その2
今野富之助先生
 庄内平野から日本海に流れ込む、赤川も日向川も、河口付近は江戸時代、人の手で海まで掘り進んだ人口河川です。
 ここでは日向川を主に説明しますが、日向川はかつて六ッ新田・上市神・藤塚・田村を経て南流し、さらに西転して小湊から日本海へと注ぐ流路をとっていたのです。現在の旧国道七号線藤塚〜下市神間の道路西側は旧日向川の河身です。
 日向川は、市神辺りで藤崎方向から、米輸送の運河として利用された船通り川(西通川)と合流していますが、洪水のときは、この川からも逆流し遊佐町方面の田畑にも大きな被害をもたらしていたのです。江戸時代には、20年間で10回もの大洪水を起こす暴れ川だったそうです。

 大事業とは、この洪水を防ぐため、市神辺りから白木方向の日本海まで、西山を崩してほぼ真っ直ぐに流す水路、「新川堀切」を造ったことです。
 工事が開始されたのは1858年。完成までの4年間、延べ20万人の人夫が動員されました。この大事業に果敢に取り組み、「新川堀切」を完成させたのは、当時大庄屋であった今野茂作をはじめ、大組頭の渡辺多一郎らだったのです。茂作は30町歩の田をすべて売り払い、さらに借金は500両に及んだとのこと。前遊佐町立図書館館長、今野富之助さんは今野茂作の子孫です
 


 今では、国道7号線の白木辺りの日向川に架かる橋を、漫然と往来していますが、ちょっと車を止めて日向川
の流れに目をやってください。150年も昔、鍬ともっこだけで、4年もかけて西山を崩して水路を造った凄い歴史があったのです。全て庄内の酒田や遊佐界隈の人々の偉業です。


(実は、今野茂作の子孫・富之助は、中学当時の担任の先生です。残念ながら先生は平成16年に逝去しております。この項の記述の調査で知ることができました。もっと早く、この事業のことを知っておけば詳しい話を聞けたのに、と悔やんでおります。)


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9  義民魂は受け継がれているか
遊佐町、玉龍寺

 庄内藩を含む「三方国替え」のことは、鶴岡出身の藤沢周平原作の「義民が駆ける」で、全国的に知られるようになりました。
 概略は、天保11年(1840)11月初め、荘内、川越、長岡の三藩の藩主に対して、三方国替えの幕命が下りたことに始まります。それは、荘内藩14万8千石の酒井忠器を長岡へ、川越藩15万石の松平斉典を荘内へ、長岡藩6万8千石の牧野忠雅を川越へ移封するという内容です。

 国替を命じられた荘内藩は、藩主酒井忠器、そして藩首脳、酒田の本間光暉、遊佐の佐藤藤佐らが善後策を練る中、遊佐荘玉龍寺住職、文隣和尚をはじめ荘内藩農民たちは、「百姓と雖も二君に仕えず」と打ち首獄門を覚悟の上で、筵旗を掲げて江戸に上り、諸大名や幕府役人に直訴を試みたのです。
 当時の江戸町奉行は、矢部駿河守。佐藤藤佐翁は白州での取り調べにおいて弁舌さわやかに三方お国替えの非をとうとうと話す。矢部はその訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐翁の取調を停止し農民等に有利な裁決を下した。

 当然、幕府の意向に従わなかったとして、天保13年矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉され、閉居中断食して55歳で逝去している。遊佐町の玉龍寺には其の碑があり、農民や矢部らの正義を貫いた行為に感謝し、その勇気を讃えた戴邦碑祭(たいほうひさい)が毎年行われています。
 この項は、前置きだけで終わりそうですが、この幕府をも動かした庄内農民の熱き血汐は、今に受け継がれていることを忘れてはならないと思います。
 この出来事は、早くドラマか映画化して欲しい題材の一つです。

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10  「西郷南洲翁遺訓」と南洲神社とのこと

 酒田市飯森山南側に、西郷隆盛を祀った南洲神社があります。なぜ、酒田に鹿児島の西郷を祀っているのかと、不思議に思われる方もいるでしょう。

 実は、戊辰戦争で降伏し厳しい処分を覚悟していた庄内藩でしたが、西郷の意向により極めて寛大な処置が下されました。これに感激した庄内藩主・酒井忠篤は藩士76人を引き連れ、明治3年(1870年)に、鹿児島の西郷を訪ね教えを請いに行きます。

 時は移り、西郷が鹿児島に戻り私学校を開くと、庄内藩の青年達が、再び西郷を慕って教えを請いに行きます。西南の役においては、庄内藩士の中に西郷の制止も聞かず、従軍して戦死した人が二名います。
 明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布の特赦により、西郷の賊名が除かれると、旧庄内藩士らは、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本に編集して出版しました。それが西郷に関する唯一の肉声とも言える『南洲翁遺訓』です。明治23年1月に発刊されるや旧庄内藩士らは、『南洲翁遺訓』を背負い全国に配り歩き、西郷の教えを全国に知らしめ、これが本格的復権と西郷人気が高まった要因といわれています。

 「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我れを愛する心を以て人を愛するなり」、この有名な「敬天愛人」の思想は、『南洲翁遺訓』にある一節です。
 昭和49年には鹿児島と鶴岡が兄弟都市を締結し、昭和51年には酒田市に南洲神社と南洲会舘が創建されました。全国区で人気の西郷隆盛を担ぐわけではありませんが、もっともっと自慢して宣伝しても良い話と思います。

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11  酒田の文化を向上させた“佐藤久一”

 近年、酒田から、映画と食文化を通じて、日本中に“ここに酒田あり”と強烈な情報を発信しつづけた佐藤久一のことを紹介したいと思います。

 酒田市十里塚に本社がある醸造会社“初孫”の創業は明治26年、創業者は佐藤久吉、かつては「金久(かなきゅう)という銘柄でした。社名を変更したのは、昭和5年長男・久一の誕生を喜び、久一の祖父・三五郎が、酒名“初孫”を発売したからだそうです。なんと、ここで紹介します佐藤久一に、日本酒の“初孫”の謂われがあったのです。

 久一は、当然ながら跡継ぎとして期待されて成長するのですが、跡継ぎは次男・淳司に譲り、久一は20歳で映画館「グリーンハウス」の経営を任されるのです。そして、持ち前の感性とサービス精神を随所に生かし、この映画館を、映画評論家の淀川長治や荻昌弘に「世界一の映画館」と言わしめています。ところが、昭和39年突然経営から身を引き、34歳で上京、日生劇場に勤めますが一年後に畑違いの地下レストランに転属されるのです。しかし、ここで久一はもうひとつの天職、食材の仕入れの大切さを学びます。災い転じて福となすです。

 昭和42年酒田に戻り、フランス料理店“レストラン欅”(産業会館)、“ル・ポットフー”(清水屋)、“ル・ポットフー”(東急イン)の支配人を務め、当代の食通、開高健や山口瞳、丸谷才一(鶴岡出身)らから絶賛され、「日本一のフランス料理店」と評されています。「グリーンハウス」は20歳、レストラン「欅」は37歳、「ル・ポットフー」は43歳でつくった、サービス業の天才だったのです。

 ところで、昭和51年10月29日発生した“酒田大火”はグリーンハウスの漏電が出火原因とされていますが、当時すでに映画館経営から身を引いていたにもかかわらず、久一の生涯に、いつまでも“酒田大火”の悪夢が付きまといます。
 平成9年1月23日67歳で逝去していますが、日本中に、“ここに酒田あり”と映画と食文化を通じて強烈な情報を発信し続けた佐藤久一です、もっともっと地元民にも評価されて良いのではと思います。

 最近、ベストセラーになっている久一の生涯を綴った 「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」、の著者・岡田芳郎は電通を定年退職後に、波瀾万丈の佐藤久一のことを知り、この本を書き上げたとのことです。
 佐藤久一は、死しても他県の人々には評価されているのです。
 まずは、酒田市民、いや庄内人は必読の書でしょう。

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11-1 写真家“土門拳”は酒田で誕生したが神奈川で成長した
土門拳の格闘から
 拳は酒田生まれですが6歳当時、一家で東京に転居、更に2年後神奈川に移住し、神奈川二中(現・横浜翠嵐高校)を卒業しています。51歳で脳出血で倒れ東京警察病院に入院、2回目も脳出血で九州大附属病院に入院、3回目は脳血栓で虎ノ門病院に入院し、81歳から11年間寝たきりとなり、92歳で亡くなっています。
 51歳で右半身が不自由になってからも70歳まで、全国を行脚し大型カメラを使い左手だけで撮影を続けていました。生前、作品約7万点を酒田に寄贈したことから、1983年、世界に例がない写真専門の美術館“土門拳記念館”がオープンしました。転居後は縁が薄かった酒田ですが本当に有り難いことです。

土門拳の経歴です。
1909年10月25日、酒田町(市)に父熊造、母とみえの長男として誕生。
1916年一家で東京へ移住。(拳、6歳当時)
1917年麻布区飯倉小学校に入学。
1918年一家で横浜市磯子区へ移転、磯子小学校へ編入。
1921年一家で同市の神奈川区へ移転、二ッ谷小学校へ編入。
1928年旧制神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高)卒業。
1929年三味線に熱中し、常盤津の師匠に弟子入りする。
1932年農民運動に参加し、検挙される。
1933年遠縁の宮内幸太郎の写真場に内弟子として入り写真の基礎を学ぶ。
1974年(昭和49年)酒田名誉市民第1号に選ばれた。
1983年土門拳記念館オープン
1990年9月15日心不全により死去、享年92歳。

 土門拳記念館は、世界初の写真専門の美術館と言われています。展示してある写真は、土門拳84歳当時酒田市が寄贈を受けたもので、その時折のテーマに合わせた迫力ある写真が数多く展示してあります。

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11-2 大藪晴彦賞受賞作家“北重人”は酒田出身です。 (皆さん応援しましょう)
北重人(本名、渡辺重人)


夏の椿 月芝居
白疾風 蒼火
主な作品
 「夏の宵に匂う花の香りのような切なくてはかない物語に魅せられた」(伊集院静)、「ハラハラして、ツヤもある。こんな時代劇、見たいよね」(大沢在昌)、と賛美されつつデビューした久々の大型新人、北重人は酒田市出身です。ペンネームは北国生まれを意識しての命名でしょう。

 本名は、渡辺重人(1948年生まれ、東京都東村山市在住)は、酒田東高卒業後、1年間新聞配達で学費を貯め、千葉大工学部建築科に進み、設計事務所勤務を経て30歳で独立、建設コンサルタント会社を経営しています。一級建築士の資格を持ち、現在、建築・都市環境計画の立案等に携わりながら著述活動も行っている異色の作家です。昨年(19年)時代ミステリーの『蒼火』で第9回大藪春彦賞を受賞しています。

 1999年には『超高層に懸ける月と、骨と』でオール讀物推理小説新人賞。2004年には『天明、彦十店始末』が松本清張賞の最終候補に残りながら、受賞は逸したものの、選考委員の評価が高く、『夏の椿』と改題し、単行本化し作家デビューを果たしたのです。

 主な作品の概略は、
『夏の椿』 は、 おい殺しの犯人を追う主人公と犯人側との戦いに、 政権交代期の藩政、 恋を絡めたミステリー。
『蒼火』は、主人公の剣士・立原周乃介など主な登場人物はデビュー作とほぼ同じ。蒼火を背負って妖剣をふるう剣鬼を周乃介が追う。江戸で、連続して起こる商人殺し。人を切った者の背には、蒼火が見える。
平成19年に第9回大藪春彦賞受賞しています。
『白疾風』(しろはやち)は、伊賀の忍びを主人公にした長編小説。
『月芝居』は、大藪春彦賞受賞後第一作の力作。天保の改革で江戸屋敷を取り壊され、縁戚に居候中の左羽家の留守居役・抱屋敷を探すうち、友人の息子の失踪事件に巻き込まれる。
平成20年4月24日の山新の朝刊によると、長編「月芝居」が第21回山本周五郎賞(新潮文芸振興会主催)の候補作に上がりました。選考会は5月15日、東京都のホテルオークラで行われます。ぜひ、賞を頂いて欲しいものです。
結果が発表になりましたが今回の受賞は惜しくも逃しました、次回に期待したいと思います。

 作品は、鶴岡出身の藤沢周平を意識していると言います。酒田市民は、まずこれらの作品を購読して応援しましょう。それが何よりの応援です。そして、北重人には、是非とも、酒田を舞台にした時代物をお願いしたいものです。因みに、大藪晴彦は幼少時酒田に住んでいたことがあったそうです。大藪晴彦賞受賞も何かのご縁でしょう。
 また、鶴岡には、『王妃の離婚』で、平成17年第121回直木賞を受賞した佐藤賢一がいますが、ジャンルは違うものの、ライバルとして共に、藤沢周平クラスに大成して欲しいものです。

残念ながら、平成21年8月26日ご逝去成されました、ご冥福をお祈りいたします。

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12  地域復興の究極は“人づくり”
斉藤憲三
TDK創始者・斉藤憲三
上杉鷹山
米沢藩主・上杉鷹山
レストラン欅 太田政宏
 地域復興策の成否は、郷土愛から湧き出るその土地に対する、熱い思い入れの大きさとだと思います。
 近くに良い例があります。
 秋田県にかほ市のTDK創始者斉藤憲三(フェライトを実用化2勝98敗の男)は、地元から出稼ぎを無くしたい一心から、あえて悪条件の地元に産業を興し成功しています。
(「フェライト」(Ferrite)は、磁石にくっつく磁性体と言われるもので、ふしぎな性質がある。磁界にふれているときだけ磁石になるフェライトと、強い磁界にふれると永久磁石になってしまうフェライトがあって、永久磁石になったものを「フェライト磁石」という)

 また、疲弊した米沢藩を再建した上杉鷹山は、地元に適した産業を興すため、各分野から一級の技を持った人達を指導者として高額でスカウトし、地元民の指導に当たらせ、その下地が花開き、米沢織をはじめとする地元産業が花開き、更に興譲館(こうじょうかん)を創設するなど、人づくりの基盤が米沢に定着しています。これは、約250年前のたった一人の英断から始まったことです。

 この点、酒田はどうでしょうか。
 甲子園出場を目指す高校では、他県から指導者や選手を呼び、ある程度成功していることは有名です。余りにも目先の利益を優先した酒田的発想と思いますが、それはそれで良しとして、この手法を他の分野でも応用できないものでしょうか。
 例えば、次世代はロボット産業が花形になる可能性が大です。それなら、その先端技術を持つ技術者を、工業高校の指導者として招へいし、同時に関連地元企業を就職の受け皿として支援する。或いは、宝塚や劇団から一級の人材を呼び寄せ、地元の子供達に早いうちから演劇や芸能の本物に触れさせる。それも10年以上の長いスパンでです。

 つまり、子供達に早いうちから、いろんな分野の本物に触れさせ、将来へのチャンスの幅を広げてあげることです。そこからは、大きな夢と希望と郷土愛を育み、必ずや地元を潤す大きなエネルギーして還元されることでしょう。
 "なせばなる、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり" です。

 因みに、最近の酒田で“郷土の人づくり”に貢献している代表格は、酒田市中町2丁目「産業会館内」“レストラン欅”の総料理長太田政宏と思います。
 同氏は神奈川県出身ですが、前述の佐藤久一にスカウトされ、1968年にレストラン欅の料理長として来酒したのです。1973年には清水屋5階のル・ポットフーの料理長、更に、天真学園調理科創設時からの講師、酒田調理師専門学校の洋食調理の講師も努める傍ら、庄内DECクラブ(技術の向上を目的とした地域の洋食料理人グループ)の会長でもあります。
 他県出身ながら、庄内地方食文化の第一人者として活躍しています。
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