
第30話 洪水の噂の事
1、問 近年は、諸国共に毎年の様に、洪水が起り、堤を破り、田畑を損失する事は
以前も、この様で有ったのだろうか。
1、答 以前も、年によっては、洪水が起った事が有ったが、近年の様では無かった
と覚えている。
しかし、境内を除いては、どれ程念を入れて丈夫にしても、飽きる事は無い。
出水、洪水の事を、異変と言うのは感心しない事である。
子細を言うと、天下乱世の時代は、洪水というのは、頻繁では無かったので、
例え、出水が起っても、諸人達は、それ程苦労とは思っていなかった。
洪水が煩わしいというのは、御治世が永々続いている事で有るので、異変の
様で有るというのは、道理が行か無いという事である。
1、問 乱世には、洪水が稀で、治世に限って、洪水が頻繁に起るというのは、更に
合点が行かない事である。
1、答 乱世が続けば、各地で大合戦・小競合が度々起った。
その合戦の度に、多かれ少なかれ双方の者は、討死している。
例えば、一度の軍で、討死の者が千人いればその内で、侍分の者が百五十人
いるとすると、残りの八百五十人は、大方足軽・長柄・旗指を初め、雑人の
甲冑も、付けない者ばかりで有った。
その子細を言うと、侍分以上の者はすべて相応に、具足・甲を付けて、身の
囲いをしていたので、例え、弓・鉄砲に当り、鑓で切り突かれても、身は
手傷も浅く、その上、古来から言い伝えられいるのは、
「勝つ手前は、人を討負かし、手前は人に討れる」
と言う様に、戦いに負けて、敗軍する方に討死が多い。
その敗軍の時の侍は、馬に乗り引下がったので、討死の者が少ないというのは
定った事である。
その多くが討たれた、足軽・長柄・旗指などを初め、鑓持・馬の口取といった
者を残らず、その代を召抱えて、再度の軍役の勤めをさせなくてはならない。
早速召抱えるにしても、御治世の様に浪人の下々も稀であり、知行所へ掛合い
百姓達の中で、器量を選んで召出して、果てる者達の跡代りにする様であった。
次々と、知行所の百姓達の人数が少なくなり、農民が居ない田地が多くなった。
残った農民達は、例え、元が田畑であれ、地面が良くなり、場所を捨て荒し、
主が居なくなった良い田畑だけに、作った様なので、遠い野畑・山畑は捨置か
れた。
山畑は木立となり、野畑は一面に草野となったので、例え、豪雨が降っても
暫くは、草木の枝葉に雨を受け留めるので、川の水へ落ちる処も、実は遅い、
道理でもある。
治国には、村里の人も多く居るので、田畑だけを作っていては、間に合わない。
山を開拓して山畑にして、裾野の芝を開拓し野畑としたので、少しの雨でも
山野の土砂が流出して、川の水へ落ちるので、次々と、川底が埋まれば、川幅
が浅くなり、境界の川を崩すなどの破損も多かった。
筆者は子細あって、端場惣泉寺に暫く住んでいた事が有り、門前の百姓の老人
が、昼夜共に、惣泉寺の茶の間に来て物語った。
それは、自分が子供の時、浅草川の幅は、今の様では無く、干潮の時は、
殊の外に、川幅が狭く流れていたので、川向うの子供と、こっちの子供と
川端で向合って石を投げていたが、いつの間にか、今の川幅になったのか?
と雑談していたのを聞いた。
しかし、この事は、関東だけでは無かった。
筆者が若年の頃、摂津高槻の近所で伴田という所へ行き、百姓の家に居たら
淀川を上った船が、間近に見え、中に乗っていた男女数人が見えたので、
その家の、隠居らしい老人に、以前からあの様であるのかと尋ねたら、その
老人が言うには、
「自分は、当年八十六才になるが、あの様な高瀬船の帆だけが見えて船が見え
る事は無かったが、いつの間にか、船の中迄、見えるようになった。
その時は、この所の境などを、押切る様な水が出たのは、めったに無かったが、
今では、時々水が入って迷惑している。」
と例の老人が、物語ったのを聞いた。
(注釈)
侍分 江戸時代、幕府の旗本諸藩の中・小姓以上また士農工商の内の
工身分の者を指す。
足軽 弓・鉄砲・槍の訓練を受けた雑兵。
長柄 柄の長い武具。
旗指 軍陣で主人の旗を持つ従者。
軍役 軍隊の復役。
1、問 洪水の事は聞いたが、右の洪水の事で乱世には、武家方は我も人と共に召使
の者に事を欠いたので、知行所の百姓達を、呼び寄せて家人にしたというのは、
村里には、人が少ないというのは道理である。
その様に農民が少なくなっては、収納米が減少するより他は無く、そこで、
地頭の武士の身上を続ける事が出来無いのは心得難い。
1、答 そなたは、治世の武士の様子を、乱世の武士と同様に、心得ている様な、
不審がある。
治世の武士というのは、大身・小身共に、身の飾りが、並の評判を手本とした。
家屋なども奇麗にしたので、似合いの家財も調へ、自分を初め、妻子に至る迄
身形を程良くしたい、という様な分別から事が起って、物入りの出費も多く
なり、知行所から収納した物ばかりでは、中々、事が足らないので、借金や、
買い掛けもした。
乱世の武士は、治世の武士とは大いに違い、第一、家屋は、小屋同然で屋根は、
当分雨漏りさえしなければといった様で、下敷には大型のむしろを、縁取った
のを用いたが、客を招き振舞をした事も無いので、諸道具が好しいという心は
少しも無かった。
自分の衣類を初め、妻子に至る迄、木綿の着物の他は、着なかった様であった。
自分は軍の陣立で、塩の汁をすゝり、玄米をそのまゝ炊いて食べていたので、
世間が安穏で、恐れの無い時の朝夕共、料理の数で、撰り好みをする事も、
無かった。
鐙の下に着る装束にも成るという乗馬の一頭も、根気の有る若衆の鑓持の
一人も好しいという思いの他は何の望みも無く、無益な物入りは一切しない
で、例へ、知行所からの収納物が減少しても、それ程難儀はしなかった。
筆者が若年の頃、武家の下々では杵が当ったという曲げ物の器に盛った飯に
糠味噌汁を添えて食べたが、戦場では、黒米飯を塩水で食べる習慣であった。
今は、武家の下人でも米を白く炊き、麹の入った味噌汁で、食べ無くては
ならない様であった。
ややもすると米が黒いとか、汁がまずいとか、ねたみ事を言う様であった。
(注釈)
鐙 足踏の意。 馬具のひとつ。