霊厳夜話
 
 

第32話 飢饉の噂の事
  1、問 当代になって、何時頃の事であろうか、江戸の町中の米の値段が、急に高値
         になったので、新しい乞食が多くなり、餓死する者がいたという飢饉の事は
         如何であったろうか。
  1、答 筆者が聞いているのは、大猷院様の代は、当時の米問屋仲間の者と、仲買の
       町人達と、心を、合せを、していたらしい。
         米の買置きをして、その上諸国から入り船を押えたので、町中の米の値段が、
         急に上ったというので、吟味を強化するよう仰付ければ、(たちま)ち問屋・仲買の
         者達が多く、御仕置きに逢った。
         この時、浅草の蔵手代((注釈))の中で、町人達と同意した者も有り、是も同様であった。
         (それ)から、米穀の値段も下り、世間も(ゆる)やかになった。
         飢饉というものは、すべて悪党達の仕業とあって、天災の飢饉というもの
         では無い。
  (注釈)
     手代  番頭と丁稚(でっち)との中間に位いする身分。

  1、問 天災の飢饉と言うのは、如何様な事をさして言ったのであろうか。
  1、答 天災の飢饉と言うのは、古来から言い伝えられている。
         筆者が聞いているのは、六十余州で、大小の国々を、最上から平にすると
         何十万石ずつの六十六ヶ国として、その十分の一の、五数の(だか)(ほど)をすべて
         切り割ったと見える年の、翌年には、麦作が出来る迄の間の、三・四ヶ月は
         必らず、飢饉が起るものである。
         しかし、そのような凶年というのは、古来共に、珍しい事である。
         殊更、当代のように天下統一の時代で、例え天災の飢饉年といっても、公儀の
         御威光で救われるというので、(かみ)の思召し次第というものである。
         (それ)について、天正年間(1573年〜1591年)の事でもあろうか、五畿内((注釈))
         が凶作し、米穀の値段が高くなり、身分が低い者達は飢えて、新しい乞食も
         多くなった。
         しかし、米穀が底をついた時で、人の救い・施しも出来ないので、道端に伏し
         倒れて、果てる者が多かった。
         是を秀吉公が聞かれ、殊の外御苦労されて、鴨川・桂川の堤の普請を、言い
         付けられ、土砂を運んだ者には、金銭を与へられたので、飢饉の難を(まぬが)れた。
         秀吉公は、このような才智の方であるが、天下統一の時で無かったので、諸国
         の米穀運送の指図・管理をするのは、力不足だったので、仕方が無く自分の
         物入りで、飢饉を救われた。
         当代は、北国筋を初め出羽・奥州辺りの米穀であっても、海路の(とどこお)りも無く
         諸国に運送し、自由で足りるというのは、是れ、(ひとえ)に、東照宮様の御神徳で
         天下統一の大功を、立置かれたからである。
         ここで考えるならば、如何様な天地の災難が起っても、人の一命というのには
         掛け合わないのが、道理であるかと思う。
  (注釈)
     五畿内  大和、山城、河内、和泉、摂津。

  1、問 諸国に於て、当作の出来・不出来によって、来春の飢饉を考えるというのは
         大切であるので、何れにしても、日本国中といえども、広い事であれば、
         委細は、知る事が出来無いかと思う。
   1、答 その事は、1600年(慶長5年)權現様の代になって、今後は、御領地、
         私領に限らず、干害・風害・洪水などで田畑が損失し、米穀など減少の次第
         を、詳しく言上するように、仰出られた。
         只今になり、国主・郡主・代官衆中の書付で、公儀の勘定所へ訴へ申上げた。
         作法によれば、明細に知れる事で、公儀から手当を下されたので、万一古来
         から言い伝えているような、天災の飢饉年に巡って来ても、万民がその災難
         に逢って、死亡するような事は無かったように思った。

第5巻32話
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