
第34話 留守居役初りの事
1、問 当世諸大名方の家々で、留守居役というのは、何時頃から初ったのであろうか。
1、答 筆者が聞いているのは、台徳院様の代に、薩摩中納言殿言うのには、私領地
の、大隅・薩摩は遠国なので、当地の事を聞くというのは、時により、かなり
の日数が掛ったので、差当っての御奉公向は、間に合わない。
夫について、私が在国の内は、家老達の中で、ニ人ずつ留守居として当地に
置いて、万一、何か急用が出来た時は、留守居の者が、私の名代として御用
などを仰付けた上で、勤めるようにしたいと言う事を聞き、御満悦されたの
で、願い通り仰付けた。
留守居役の者は、御城内の様子をも、見る事が出来るようにしたいというので
御目見得なども仰付けたので、そこで今でも、留守居家老が、御目見得をした。
薩州の家に限った事では有るけれど、平生は、国元の土産を献上し、或いは
内書・奉書を渡す時は、留守居家老が上ぼる事は無い。
誰にでも、他の侍でも、差出すようにといった。
初めは、家中の侍達の中から、順番を勤めた処が、多くの侍連れの中には、
際立った不届き者も居たので、以後は、その人を極めて、差出す様にした。
夫を名付けて、御城役とも、聞番役とも言い、初めは小身な大名方では、
その者達を、留守居役と言った。
(注釈)
留守居役 諸藩の江戸屋敷に置かれ、幕府・他藩との連絡に当った
。
内書 主君から献上物などの挨拶に出す書状。
奉書 上意を奉じて待臣・右筆らが下す命令の文書。
聞番役 大名の家で、公儀の用向きを聞いて取り次ぐ役。
1、問 その頃、御城役・聞役といった人々の勤方、或いは、仲間の寄合といったのは、
当時も、今の通りで有ったであろうか。
1、答 留守居役人の組合の寄合は、如何にも、当時から有った事であるが、少し変
った様でも有った。
子細は、その時代の留守居達の組合というのは、その屋敷に近くて、主人と
主人との間柄が仲良い人が、常に出合いもあり、衆中の家来ばかりが、申合
わせて組合を定めて、大方は、その仲間が十人より多い組合というのは無い様
であった。
その子細は、その家々で、聞役を勤める者達は、上屋敷の長屋住いの事であ
れば、屋敷も狭いので人数が多く入らない。
寄合いの時の、振る舞も互いに申合わせ、一汁三菜の内、汁は精進にして
三菜の内一菜は、是も精進物にするには、互いに主人の用事で寄合うという
事になれば、例へ、自分の思うようにならない、精進日となっても、寄合を
欠席する事はしないとの申合わせである。
主人達は寄合日になれば、料理にもなる様な魚鳥の類の他に、茶・酒・菓子
をいただき、料理人の茶坊主は、入用次第呼んで使った様であるが、何れも
留守居仲間の申合わせであった。
そういう訳で、回し状も組合仲間の他へは、決して回さなかった。
主人達へ、納得する心得でもなかったかという事はともかく、その他、
虚実の知れない世間の噂の無益な事を、回し状に書かないとの申合わせで
あった。
このような事は、重大ではないが、時代も隔った事を良くも覚えていて、
何事を言っているのかと、疑いも有る。
筆者が若年の時であるが、確かに良く知っている事を話すのは、その家々
へ尋ねれば良く分かる。
その節、桜田辺りで、留守居組合八人があり、丹波左京太夫殿留守居桂木
次郎右衛門、内藤豊前守殿内鈴木与右衛門、小出大和守殿内陰山文右衛門、
金森長門守殿内水野嘉右衛門、松平周防守殿内南弥五衛兵、仙台越前守殿内
井上市衛兵、浅野内匠頭殿内井口与衛兵、浅野因幡守殿内徳永四郎右衛門の
以上八人の組合であった。
その時の、留守居の勤方というのは、筆者が覚えているのは、或る夜中に
強風が吹いた事があった。
翌朝になって、金森殿の留守居水野嘉右衛門方から、組合仲間へ回し状を
出したら、夜中の風で、こっちの屋敷が、虎の門の方へ向いて、表向きの
塀が四十三間残らず、吹き倒れた。
長門守留守居の中で、その上表通りの事でもあれば、今日中に、掛け直し
たいと言って
「手大工、二・三人でもよい、人足は何人でも寄こすように。」
との事で、七ヶ所の屋敷から、大工・人足が来て、その日の晩には残らず
塀を掛け直し、壁も塗ってしまった。
次には、その頃、留守居仲間が、予ての申合わせで、師走は互いに用事が
多いので、定式の寄合はしないとの事であった。
しかし、その冬の、二十三・四日の頃、松平周防守殿の留守居南弥五衛兵方
から回し状を出し
「急に面談しなければならない用事が有り、二十五日に寄合願いたい。」
との事で、何事だろうと、何れも無心で寄ったら、弥五衛兵が言うのには
「各位にお出下さるよう申し入れたのは特別な事では無い。
旦那の在所の石州浜田から、暮に、ここに入用の金子を、大坂へ上ったが、
為替の金子請負の町人方に、手違いが有ったので、少しも渡さないというので、
家中の者達が、年を越す事が出来なく、その掛りの役人達が大いに難儀をした。」
夫については、旦那の用事も差支え、難儀をしているので、
「金子五・六百両程工面して欲しい。」との事で、仲間の者が言うには
「我らは、そのような事とは知らなく、如何様な事であろうか。」と心配して
来たのである。
「それ程の事はどうにでもなる。」というので、料理が済んで何れも帰り、
金森殿の留守居水野嘉右衛門方へ寄って、出金の割合を決め、翌朝になって
金子六百両の支度を調へ、弥五衛兵方へ持たせてやった。
三十日の夕方には、為替が届く時分なので、この間の金子を返済するとの事で、
弥五衛兵方から役人を従えて、各自へ持っていったのを、筆者が子細あって
良く覚えていた。
この様な事で考えて見れば、今時の留守居仲間の勤方は、間違い有ったの
だろうか。
(注釈)
上屋敷 大名が平常の住居とした屋敷。
振る舞 馳走する。
虚実 嘘か事実か。
石州 島根県。