|
|||||||||||||||||
応正寺 真言宗豊山派のお寺。 知形大神社と地続きにあり、もと知形神社の別当寺か? 本尊は不動明王で、 境内には観音堂がある。 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
宝積寺1 大谷山地蔵院宝積寺という真言宗豊山派のお寺。 本尊は五智如来。 ぼけ封じ関東三十三観音の十三札所。 また、武州十二支本尊霊場の阿弥陀如来(戌)霊場。 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
勝福寺1 延命山勝福寺という真言宗豊山派のお寺。 境内には招福大観音があります。 高さ10mの青銅製の観音様で県内では最大。 平成3年(1993)11月に「町の平和のシンボル」として完成した。 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
勝福寺2 境内にはこの大観音のほか、金銅の鐘や 不苦労の像、指切り地蔵などたくさんの仏像が並ぶ。 境内には樹木も多く、さくらの季節には多くの信者が集まる・・・ |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
全久院1 東方山全久院という曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来。 江戸時代に松平丹後守康長が当地を領有、 祖先戸田弾正左衛門宗光追福のために、 豊川全久院を移して当地に創建した。 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
全久院2 全久院は深谷七福神巡りの一つで、「寿老人」を祀る。 人の安全と健康を守る長寿の神。 境内には七福神の像が揃う。 家内安全・商売繁盛などの神として親しまれている。 |
|||||||||||||||||
説明版 |
|||||||||||||||||
埋め戻され畑 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
幡羅官衙遺跡群 今回の最大の目的が幡羅官衙遺跡群を見ること。 ところが、予想通り、深谷市側からはほとんど見れなかった。 これも予想していたが、熊谷市の西別府祭祀遺跡は昔のよすがを少し残していた。 深谷市側の幡羅官衙遺跡群のほとんどは発掘後埋め戻されほとんどが畑地になっていた。 西別府祭祀遺跡 この遺跡は熊谷市の湯殿神社の境内域にあった。 もともとこのあたりの水源で、水神様の祭祀をしたのであろう。 湯殿神社が段丘の端になり、現在もわずかながら水をたたえている。 祭祀付近はもともと湯殿山の参道にあり、付近には御手洗池があり、水神様が祀られている。 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
湯殿神社 創建については不詳ながら、古墳時代末期から平安時代にかけて営まれた 祭祀遺跡があることから、祭祀が発展して神社になったのではないかといわれている。 古代における水田耕作と密接に結びついた水神信仰がうかがわれる。 社名である「ゆどの」は、井殿あるいは斎殿で、水神を祀る祭場としてふさわしい地を示している。 ※現在の鳥居は東側にあるが、当時の鳥居は南側にあったか・・・(本殿横に石塔が建つ) |
|||||||||||||||||
幡羅郡官衙遺跡地図 |
|||||||||||||||||
幡羅郡官衙遺跡航空地図 |
|||||||||||||||||
幡羅郡官衙遺跡発掘現場 |
|||||||||||||||||
幡羅官衙遺跡群(参考)1 幡羅遺跡は「郡役所」「寺院」「祭祀」の三つが揃った古代遺跡。 飛鳥時代終わりの7世紀末ごろに造営され、10世紀前半ごろに廃絶したと考えられている。 正倉は税として納められた主に稲を収納保管した高床式倉庫。 実務官衙域では多くの建物が見つかり、各種の行政実務を行う曹司があった。 このほか館跡や道路、二重の溝、土塁などが発見された。 |
|||||||||||||||||
西別府祭祀遺跡地図 |
|||||||||||||||||
西別府祭祀遺跡航空地図 |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
幡羅官衙遺跡群(参考)2 西別府祭祀遺跡は熊谷市西別府にある湯殿神社の北側に位置し、幡羅遺跡の北東に隣接している。 現在はほとんど湧水がありませんが、古代には滾々と水が湧く場所で神聖視されていた。 滑石製模造品や墨書土器が出土することから、少なくとも11世紀までは 湧水点で祭祀が行われていたと考えられる。 (幡羅官衙遺跡群については熊谷市ホームページより転載) |
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
霞ケ浦常陸風土記を歩く会 | |||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||