
第24話 制外の家の事
1、問 当時、御三家方の事でも有ったか、世間で制外の家といわれるのは、權現様の
代からの事で有ったか、又は、その後、何れの代に、仰出られた事なので
あろうか。
1、答 代々の内に公儀のから、制外の家で有る事を、仰出られたと言う事については、
筆者は、遂に聞かれなかった。
しかし、世間で、言い慣わした事以外は、分からない。
子細は、台徳院様の代で、越後少将忠輝公・大猷院様の代には、駿河大納言
忠長卿と、両殿の事は、正しい御兄弟方であるが、公儀の作法に、御互いに
なられた道理に、合わない事が有ったのは、改易、又は、生害に仰付かった
先例が有った。
それで当時、御三家方の事は、兄弟の家柄と言いながら、公儀の大法を、大切
にお守りなされ少なくても、制外らしい事を、なされる様には見えなかった。
1610年(慶長15年)、秀忠公の代に、越後少将松平三河守忠直の、家中で
久世但馬守と言う一万石の領地する者と、岡部自徳と言う町奉行役の者とが
論争が起り、その時、三河守殿が若気の至りで、理非を聞き誤り、片手落ち
となり、但馬守を成敗した。
その後で、家老中が仲介に入ったが、下々で決着しないので、公儀の取扱い
となり、家老達を初め公事掛りの者達を、残らず江戸へ呼び、数日の審議の
上、裁許の趣も、大方相談が済んだ。
或る時、評定衆の中から、去年、堀越後守の家老達が、出入していた時、
堀丹後守直寄が駿府へ上り、直訴申上げたので、お取上げとなり審議の上、
裁許仰せ出られた.
越後守は、若輩ながら
「家中の処置を言い付ける事が出来ない者に、大国守護職を、仰付ける事は
出来無い。」との事で越後の国を取上げ、その身を預かりに仰付けた。
「今度の、三河守殿家中の出入りの事も、越後同然の様子であり、一つの
事柄で、二通りの処置とは行かないだろうか?」
と申出れば、大御所様が聞かれ
「ます々、越前は、制外であっても是れ有る」との一言で評議が済んだ。
間もなく裁許仰せ付かり、公事の本人自得は、言う迄もなく、今村掃部・志水
丹治・林伊賀の三人の家老達は、預かりになり、本多伊豆・牧野主殿・竹島
周防は、言い分けが立ち、越前に返され、三河守殿は、何のお構いも無かった。
その上、
「今度の出入りに、越前は、家老職の者が少なくては、事も欠ける。」
との上意で
「本多作左衛門の嫡子を取り立て、本当は、天下をも、お譲りされなくては
ならない人を、越前一国の守護として置かれるのは、中納言殿の、後の事も
有るので仕方がなければ、御用捨する事が有る。」と言われた時、世間でも
噂された。
しかし、その方の家は、制外であるので、この様に御用捨されるという仰せ
渡しは無かった。
(注釈)
松平三河守忠直 松平秀康(家康公の二男)の長男。 1595〜1650年。
堀丹後守直寄 尾張生まれ。 豊臣秀吉に仕え、
関ヶ原一戦には家康公に属する。 1577〜1639年。
本多重次 通称作左衛門。 徳川家康の臣。 1528〜1596年。
1、問 中納言殿が御在世の内に、別国の諸大名方とは違って、少ない制外の様な様子
であったと聞いてはいないだろうか。
1、答 筆者が聞いている事の中で、その他の、大名衆の家々では、聞いていない事が
四・五条もある。
一つには、慶長五年、御当家、天下統一の後は、江戸で、諸大名衆は、何れも
居屋敷を願って拝領された。
家作をされた中で、秀康公は、拝領屋敷願いと言うのでも無く、慶長六年
越前国を拝領し、入国以後初めて江戸に出府した時、到着した日は台徳院様
も、品川迄お出向いされ、同道でお城へ入られた。
秀康公の乗物を、敷台迄横付けにも指図され、逗留中は二の丸でご馳走を
仰付け、家来中の居所は、大手先の大久保相模守殿の屋敷を、明け渡された。
二つには、秀康公が逗留中、夕方の御膳料理は、大方本丸で、ご相伴仰付け
たが或る日、秀康公が、少々ご不快で、俄かにお下しになった。
お供中は、いつもの心得で、二の丸へ帰るので呼びにやっている内、玄関で
休んでいる処へ、老中方が次々来られ、当番の旗本衆にお供をする様にとの
指図で、両御番衆を初め、小十人衆・御徒衆迄も、公方様が、御成りの時も
同然に、二の丸へお供をした。
三つには、秀康公が或る年、木曽路通りを江戸へ下向された時、鉄砲の御禁
制を仰出られた時の事で、道中で、持っていた百丁の鉄砲を、横川の関所で
差押へて、通させなかった。
その処に、中納言殿が来られたので、物頭役の人々が、趣旨を申上げれば、
秀康公が聞かれ、
「夫は、定めし、他の大名の事であろう。我等の事を、念を入れて番人達へ、
伝える様に。」と言った。
その事を、お供中が伝えた処、番人達の中から
「中納言殿はとにかく、大納言殿でもあれ、鉄砲を通す事は出来ない。」との
口上を、そのまま申し上げれば、秀康公は、てつもなく面白く無く、公儀迄
仰出られた。
「御法度を守り、鉄砲を押えると言うのは、当然である。
中納言殿であれ、大納言殿でもあれと言うのは、公儀を重んじる番人達に、
信用されない事である。
我等を、何者と知って、その様な雑言を言い、不届き千万な奴等であれば、
片っ端から残らず、打ち殺す様に。」と言ったので、お供中は、我も我もと
鑓長刀の鞘に、発止と音がするのを見て、番人達はすべて、逃散したので
「鉄砲は、残らず越前へ持ち帰る様に。」
と言って、松井田の旅宿へ戻られた。
関所の番人達は、夜通し江戸表へ行き、右の次第を言上した処、大御所様は
江戸におられ、その事を聞かれ
「関所の番人達が、早速逃散と言うのは、良い分別である。
例え、残らず打ち殺されても、中納言殿を下手人として、取られ無い。」
との上意で、お笑いになった。
四つには、芦田右衛門 天方山城・永井善左衛門・御宿勘兵衛と言う者は、
以前、權現様の旗本で奉公されていて、或る同輩を討って、御家を立退いたり、
自身が少身にされたので、不足を言って、御家を立退いて、蒲生家へ行き、
立身して在府し、後に恨みを言って、高野山に入寺した者達を、越前へ呼び
寄せて以前の姓名のままで、家来にしたので、芦田天方の子孫は越前にいる。
永井は、三河守殿の代になって、旗本へ帰参仰付かり、御宿は、越前を立退き
そのまま秀頼卿の家人となって、大坂夏の陣の時、討死した。
五つには、列国の諸大名方は、例え高位高官に進んで、次々と昇進仰付ったが、
越前家は、元祖中納言殿・三河守殿・伊予守殿と、三代続いて参議にさずかり、
少将から直ぐに宰相に仰付けられたので、越前の中将と言うのは無かった。
この様な事なので、考えて見ると、越前家は、制外の様で有った。
(注釈)
松平秀康 徳川家康公の二男 1574〜1607年。