
第29話 三池伝太郎御腰物の事
1、問 權現様駿府の城内で、御他界された時の、御病気と言うのは、如何な病状で
おられたのであろうか。そなたは聞かれていないか。
1、答 筆者が若年の頃迄は、直参陪臣の中に、權現様の時代の事を良く覚えている
人々が多くいて、その様な衆中の物語を、度々聞いていた。
御鷹野をされる先で、御病気されたが、薬を呑まれたら、早速回復された。
帰られた後、余りたべられなかったけれど、これといって、御様態に障られる
事も無かったので、追っ付け快然されると、他では知ってはいたけれど、
御自分では、今度の御病気では、中々、快然されないという上意であった。
そのため江戸表から見回り、将軍様も、早々、駿府へ来られたが、到着の日から
御対面の時は、お側衆を払われ、御二人で閑話された事が度々あった。
その節、将軍様は、御隠居付きでも、日頃、お側近く呼ばれ、話の相手もされ
各自を呼び寄せた。
例へ、御前様は、御身後の事だけを、考えられるけれど、あれこれと申上げ、
他の事に、心を向けさせるように御挨拶をして、少しでも慰められるようにと
申合せ、お話を申し上げる様にと仰渡したが、何れも聞き入れた。
この事は、上意迄も無く、先頃から何れも申合せ、御鷹野の出来事を、雑談
申上げた処、一向に気を掛ける事なく、反対に、ご機嫌を損ねるように見えた
ので、各自が申上げるのを、天海僧正が、お側で是を聞かれ、
「異国、本朝共に僧侶と俗人に限らず、大悟明哲の人と申すのは、前もって
死を知って、外部に関する事を投げうって、身の後の事だけを申すと言うのは、
定った事である。
御所様も、今度の事は、御病気の初めから、兎角、御快然されないとの趣を
私へも度々の上意で御身後の事だけを仰しやった。」
と申せば、将軍様も、思い当る事も有ったとか。
その後は、兎角の上意も無く、ひたすら落涙されたので、僧正を初め御前に
居合せた人々は、何れも涙を流された。
この事は、他で聞く事なく、八木但馬守殿が浅野因幡守殿への、物語の趣である。
御他界の前日の十六日の晩方に、その頃、納戸衆でもあったのか、都筑十太夫
と申す人を呼びつけた。
「以前、差していた、三池の腰物が有るのを、取出して持って来るように。」
との上意で持って来た処、
「この刀を、その方が、駕籠屋へ持参して、罪人達の中で、本刀を試させて
持って来るように。」との上意で、
「かしこまりました。」といって、御前を立って、次の間に退出したが、呼び
返されたので、御前に出れば
「罪人達の中で、必らず死罪と決った者達が、一人もいないのでは、試すと
言う事は出来ない。」と仰しやった。
ところが幸い、悪名の者がいたので、御試す事が済んで、御前へ持参し
「本刀が心良く落ちた。」と申上げれば
「枕元に置いている腰物と取替へて置くように。」との仰せであった。
その時は、御様態が殊の外、重くなっていた事でもあるが
「悪名の者がいなくては、御試しの事を、無用にするように」
との上意の事は
「曽子の末期に至り座を替へられた」
と言うのに等しい事と、その時、諸人が噂をした。
(注釈)
直参陪臣 徳川将軍家に直属した一万石以下の武士。 旗本・御家人の総称。
異国、本朝 外国、我が国。
大悟明哲 大いなる悟り、聡明で事理に通じていること。
駕籠屋 駕籠かきを置き、駕籠を仕立てる家。
1、問 三池の腰物を御試し仰付け、御入用の思召しの、子細も知った事であろうか。
1、答 右の通りの次第は、是に有る。
筆者が若年の時、神道の極意を、究めた老人がいたが、權現様が、御他界の前、
三池の腰物を御試し仰付け、枕元に置かれたと言う事で、仏家の類は無いけ
れど、神道の極意に至っては、その道理が有ると言う事を、物語っている。
しかし、大御所様は御他界され、この世を去られるやいなや直ちに、御当家の
御守護神東照大權現様となって、現れたかと察せられる。
子細を申すと、本朝三代の諸神達と言うのは、在世の時分に、勝れた善行が
有り、人々は神と現れたのを、世間の人も、又は、その徳を敬い尊び神明と
言って崇敬したのである。
その神々達の、在世の時分の善行の程は、旧記にも、記して有るのであれば、
才覚のある人々は一覧の上、納得がいく事である。
東照宮様御在世の内、智・仁・勇の三徳に匹敵する御善行の次第は、太古の
神々と言われた人達が、増えもするけれど、少しも、劣られる様ではない。
古代にも、類い稀な、御尊神様と申すべきである。
古人の言葉にも、「その鬼に非ずして是を祭るは諂うなり」と有る。
1600年(慶長5年)関ヶ原の一戦の後、御当家譜代衆の事は言う迄もなく、
外様大名衆であっても、權現様の御恩沢を身に受けない方々は、一人もいない。
その様な衆中の身として、東照宮様をその鬼に非ずと申した。
日常は、武運長久息災延命の祈祷は、言う迄もなく、もしも、その身を初め
一家中が、大切な病人がいる時の、神仏に願いを掛ける事も、東照宮様へ願
う事が肝要である。
世俗の諺にも「神も引き方」と言う者がいれば、信実に、お願えさへ申上げ
れば、權現様も疎んじる事も、無いのであれば、特に御神力を、加へなくては
ならない。
しかし、その印もある処に、手近な東照宮様を置いて、その鬼も非ず仏神達へ
願うと言うのは、すべてその意を、得難い事である。
ある譜代の大名の、病家から東照宮様へ願い申上げた処、早速、感応の印が
有った。
筆者が良く知っている事である。
(注釈)
鬼 死人の魂。
諂う 機嫌をとる。