
第46話 阿部豊後守殿一字拝領の事
1、問 台徳院様の代に、阿部豊後守殿へ一字を下され、夫から忠秋と名乗られた。
その時この上ない上意の趣を世間で種々噂をされたけれど、是といった趣は
分からない。そなたは如何聞かれたであろうか。
1、答 豊後守殿が、若年寄の役その後、老中に仰付けられたというのは、全て
大猷院様の代になった1625年(寛永3年)と1628年(寛永6年)の
事である。
一字拝領というのは、夫より前の台徳院様の代に、御側近くに遣われていた
時の事であろうか。
穏便な扱いではなかったが、その時、表立った御礼という事も無く、勿論
一字拝領の広めも無かったので、その時、阿部一家の衆中の家来の者達を
初め、目出度いと喜んでいた者も無かった。
従って、公儀の日記にも自分の家請にも、一字の事は見られなかった。
但し書状など判物に名乗りを書く時は、忠秋と調へさせる様にと申付けた。
以後、二十日も過ぎて一門中を招請した時、食膳の次第が、常とは大いに
変わっていたので客は、一字拝領の祝儀心の、振舞いでも有ったのかと
家来中が推量した。
右の通りであれば、一字を下された時の懇意の上意の扱いは、全て虚説と
なってしまう。
豊後守忠秋殿の噂について、或る時、林道春が浅野因幡守殿へ参り、雑談
されたのは
「自分が昨日、豊後守殿宅へ参上したが、暇がなく、その日の内に話を
したいと申したので、話をした。
細川頼之の噂があり、自分に申すには、京都の将軍・足利義満が、若年の時、
八月十五夜の月見の宴会の時に、四識の人々を初め、諸大名方は何れも出席
したけれど、執事職の頼之が、遅刻の内に時間も過ぎ、公方も出られて既に
酒宴が初った頃になって、頼之が出席すれば、義満公は大いに御機嫌をそこね
『自分が若年であると思い侮り、定刻がある会席へ、遅刻するのは不礼である。
座につく事には及ばない、早々帰宅して閉居する様に。』と申したので、
土岐佐兵衛の仲間を初め、何れも種々取りなしたけれど、承諾がないので仕方
無く、頼之は退出して、暫く閉居していたのを、四識の人々の願いで、漸く
過失を許された。
その時の様子を見及んで、夫から諸大名も大いに上を敬服し、義満公の威光が
盛んになった。」と伝えられた。
この事はその頃、義満公が若年でおられたので、、四識の人々を初め、その他
諸大名方も、尊敬が薄いと言うので、義満公へ頼之が内意を申したいと遅刻
に及んだが、諸大名の眠前で叱りを受け、面目を失った。
引込んでいて、義満公へ威勢を付けたのは、紛れも無いという事を、自分が
申せば、豊後守殿が申すには
「その頼之は、古今、稀な優れた臣下の様に、噂をした人である。
例へ、義満公へ内意を言い含めたにしても、夫を再び口外へ出される事は無い。
その頼之の足元へも、寄り付けない。
この豊後守もその方が存じている通り、幼い主君の御側近くご奉公を申上
げる身では、その様な心遣いは大変なものである。
増して、優れた臣下の評判もある、頼之の事でもあるので、そなたの口で
その様な事を、かくさず演説するというのは、散々な事である。」
と告げ、大きい咎に逢い、迷惑した。
実は、豊後守殿の席に、居合せて聞いたので、筆者の物語とした。
(注釈)
阿部豊後守忠秋 江戸幕府初期の老中。武蔵国忍城主。 1602〜1675年。
若年寄 老中に次ぐ重職で老中支配以外の諸役人。特に旗本・御家人の
上を支配・監督した。
判物 将軍・大名などが、下の者に宛てた文書で、花押のあるもの。
林羅山 僧号林道春。 江戸初期の幕府の儒官。 京都の人。
1583〜1657年。
細川頼之 南北朝時代の武将。 1319〜1392年。
四識 左京職・右京職・大膳職・修理職の総称。
足利義満 室町幕府の第三代将軍。 義詮の子。 1358〜1408年。
執事職 将軍の代官として軍事・政務の補佐を勤めた要職。