
第51話 安藤右京亮宅へ松平伊豆守来訪の事
1、問 安藤右京亮殿が、寺社奉行であった時、松平伊豆守殿が家老の時に、臨時の
見回りとして書院へ通られたので、右京亮殿の家来が、大いに慌てたと申さ
れたのを如何に聞かれてたか。
1、答 その事を筆者が聞いているのは、その日の朝、右京亮殿は、小姓を呼んで
松平出雲守へ手紙を遣わし
「少し私宅で話したい事があるので、後刻、登城のついでに立寄られたい。」
と、遣わしたら、使いの者が帰り、手紙の返事が無く、口上で手紙の趣は心
得たので、後刻、参るとの事で同役の出雲守殿は来られ無く、松平伊豆守殿
が、お出になり
「右京亮殿は未だ御宿か。」と申され、直ぐに書院へ通られたので
家来達が大いに狼狽え、右京亮殿が不審思い、裃をやっと着て出られ
「是は思い掛けない御出である。」と申せば、伊豆守殿は
「時を間違え少し早く出て来たので、ここで時を待合わそうと思い立寄った。」
との事で、菓子だの、お茶だの、と言っている内に、伊豆守殿は小姓を呼び
「ここの家老中へ会いたい。」と申したので、加藤内記と申す家老が参ったので、
伊豆守殿が申すには
「我等は今朝ここへ参ったのは、子細が有り、その方達へ頼みたい事が有って
の事である。
今朝、右京亮殿から、登城の時立寄るようにとの手紙を預かった。
表書きに、松平伊豆守殿となっていたが、明らかに松平出雲守へ差出された
手紙の書違いかと思ったので、委細心得たとの口上で返答した。」
右京亮殿が登城されて、出雲守へお会いになれば、早速分かる事なので
取次をした者が、手紙を調へた物書き達も定めし、右京亮殿に叱られるのは
必定である。
松平出雲守と松平伊豆守とは、只の一字違いの事なので、その様な間違え
言い違えは、忙しい時は仕方がない。
その事を言いたいばっかりで参った。
右の者達を右京亮殿に叱られ無い様に、その方達に頼んだ。
もし、お話があれば、聞くのでその方達へ我等は非難すべき事である。」
と申したので、加藤内記は、
「謹んで聞き入れ仰せの事辱ない。
右の者達へ言い伝えれば、身に過ぎて有難き幸せに思う。」と申した。
右京亮殿も、辱ないと思って一礼した。
四ツ時を打ったので、伊豆守殿は右京亮殿と同道で登城した。
(注釈)
安藤右京亮重長 寺社奉行。上野高崎6万6600石。1652年に玉川上水を
計画。翌年から普請着工。 1635〜1657年。
寺社奉行 寺社に関する人事・雑務・訴訟の事をつかさどった職。
松平出雲守勝隆 寺社奉行。上総佐貫一万500石。 1635〜1659年。
松平伊豆守信綱
江戸幕府老中。「知恵伊豆」と称された切れ者。
寛永六人衆の一人。 1596〜1662年。