霊厳夜話
 
 

第49話 新御番衆初りの事
  1、問 旗本で、新御番衆というのは、何れの代で、何時頃から初ったのであろうか。
  1、答 筆者が聞いているのは、大猷院様の代で、寛永の初め頃の事で、あったであ
         ろうか、老中方へ仰出られたのは
         「大奥方の年寄女中を初め、その他、重要な役を勤めていた女中の弟・甥が
         いる者の中で、一人ずつ召出してくれる様にとの、願いを申し出なかったか。」
         と尋ねられたので、
         「上意の通りの事を、奥年寄達で願っていた。
         しかし女中も、昼夜骨を折って奉公を申上げていた者達の、願いでもあれば
         召し出して遣うのが、至極当然ではある。」と、老中方が申し上げたら、
         番入((注釈))は、如何されるのか。」との上意で、土井大炊頭(おおいのかみ)殿が聞かれ
         大番((注釈))でも仰付けようか。」と申し上げれば、
         「女中達は、大井川・桑名の渡りを、殊の外難所の様に心得て道中をする
         のを、迷惑がっているとの事であれば、大番の編入を除いて遣う様に。」
         との上意で老中方は何れも、兎角のお請けも無かったが
         「再び、両番の中へ入れては如何か。」
         という上意で、土井大炊頭(おおいのかみ)殿が申上げるには
         「両番の事は、何れも、三河以来、何回もの軍功をした者達の、子孫又は、
         譜代の大名達の次男・三男を、奉行に差出されたい。」との願いで
         「両御番の中から、召し出される事になれば、御書院・御花畑の両組と
         言うのは、重要な事であれば、如何であろうか。」
         と有って、同役中の方を見合せれば、残った老中方も
         「土井大炊頭(おおいのかみ)殿が申上げた通り、私達も思う」と、各位が申上げた。
         その後、仰せ出られたのは
         「両番入りは、何れも無用というのであれば、新番と名付けて別に呼び出せ。」
         という上意で、夫から、新御番衆というのが初まった。
         その時、「老中方の手当て、並びに番頭((注釈))・組頭は、何如仰付けられるのか。」
         とお伺いすれば、
         「手当は、両御番と大御番との中で、二百五十俵下される。
         それに代り、馬を持つ事は、許される。
         御番頭は布衣の小姓衆組頭には、平の小姓衆を仰付ける。」との上意であった。
         その様な事でその時は、平の新御番も夜食を下された。
         御番所((注釈))は近い所で、御成先も御側近くで勤められ、心安い様子であったので、
         両御番衆の触れ合いは、増して見えた。
  (注釈)
     番入(ばんいり)   旗本の部屋住いの者や、非役の者が採用されて大番・両番に入ること。
   (おおばん)(しゅう)  大番役を勤める武士。

   御番   当直、当番の尊敬語。
   新御番  江戸幕府旗本の軍事組織。 一六四三年(寛永二十年)に新設。
        二十人を一組とし、当初四組のち八組。 近習衆。
   大番組(おおばんくみ)  旗本によって編成された、江戸幕府の軍事組織。
     老中に属し、行軍・野営では、将軍本陣の前後左右を固め、平時には
              江戸城のほか、大坂城・二条城などを交代で警衛。
              五十人を一組とし、初め六組後に十二組となった。
   布衣(ほい)   庶民の着用する布製の衣服。
   両御番  江戸幕府の職制の一つ。
           初めは大番と書院番。 後には書院番と小姓組番。
   書院番(しょいんばん)  江戸幕府の旗本の軍事組織
            若年寄に属し、営中の警護、将軍の随行、儀式の事をつかさどった。
            初め四組、後に十組あり、各組に番頭・組頭を置いた。
   若年寄(わかどしより)  老中に次ぐ重職で老中支配以外の諸役人・殊に旗本・御家人((注釈))の士を
        支配・監督。
   御家人(ごけにん)  将軍直属の家臣で御目見以下のもの。
     御番所  交通の要所に設けて見張った所。
   御目(おめ)()  旗本が親しく将軍にお目通りすること。 その資格。
   番頭(ばんがしら)   大番(おおばん)(しゅう)・小姓組番衆・書院番衆の長。
   組頭(くみがしら)   江戸幕府や藩の軍事組織としての組の長。
                   (かち)組・弓組・鉄砲組などの長。
                  江戸時代、名主を助けて村の事務を取扱かった者。
                  筆頭・年寄・(おさ)百姓・五人組・町火消の長。
     小姓衆  小姓を勤める人。小姓方。
   小姓組  軍事組織で、江戸城本丸紅葉の間に在勤して警備にあたり、儀式の
        周施。将軍他行の供をし、市中の巡回にあたった。

 
  1、問 新番衆の手当ての事を仰出られた時、両御番衆とは、五十俵少なく下された
      
については、馬を持つ事を許されたとの事であった。

         その時は、三百俵下された両御番衆というのは、何れも馬を持つ身にされた
         様子に聞こえた。
         その時は当時にあっては、米の値段も殊の外安い値段であったが、如何して
         その様に、馬屋を開かさないようにされたのか、すべて、合点が行かない事
         である。
  1、答 その事は、前にも申した通り、時代だからというもので、これといって不審
      な事でも無い。

         子細を申すと、以前旗本で三百俵取っていたという、身分の低い人の様子を
         聞くと、衣服は番着物と名付けて、(きぬ)(つむぎ)で調へ、二・三枚も所持し常々は、
         布子綿服((注釈))を着て屋敷を回り、住居も構い無く、何か魚の一品を求めれば、夫を
         汁にして、近所の心安い相番衆((注釈))へ人を遣わし、飯を食器に入れ、膳や椀を添え
         て人々の宿元から、持ち寄って会食した。
         その会合を名付けて、汁講といって、今時の振る舞と同じであった。
         その様に物事に質朴((注釈))にして、無用無益な物入りの事では、随分とお金を惜し
         んで人馬でさへ事を欠かすという様な、意地合いを(もっぱ)らとしたのは、權現様
         の代の三河以来の家風が残っているというものを、人々が乱世の余風とばかり
         心得ているのは、大いなる了見ちがいと思う。
         子細は、乱世の最中でも、上杉管領憲政((注釈))今川氏真((注釈))の様な家柄も有る。
         結局、治世に限らず、その家々の武道の盛衰次第と考へる。
  (注釈)
     布子綿服  木綿のわた入れ着。
    相番衆   一緒に当番をする人。
     質朴(しつぼく)    正直で飾り気がない。
    上杉(うえすぎ)憲政(のりまさ)  足利幕府の関東管領(治める者)。     1523〜1579年。
              河越の戦いで、上杉軍が八万余り、北条(氏康)軍が八千足らず、
              北条軍の夜襲で敗退。逃げのびた後、長尾景虎(ながおかげとら)を養子にし、家督を
              譲った。景虎は、後の上杉謙信。
              今川(いまがわ)(うじ)(ざね) 今川家最後の当主。義元の子。母は武田信虎(信玄の父)の娘。
         当家の盛衰を経て、芸能や和歌に実績残す。 1537〜1614年。

第8巻49話
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