霊厳夜話
 
 

第48話 松平越中守殿越前本家相続仰付けの事 
  1、問 寛永年間(1624〜1643年)松平三河守((注釈))忠直殿が乱心に付き、豊後国((注釈))
         萩原へ流罪仰付けられ、越前の本家断絶に及んだ時、弟の松平伊予守((注釈))忠昌殿へ
         本家相続を考えられたので、中納言((注釈))殿へ權現様から遣わした知行高の内を減少
         されて五十万石を下されたので、伊予(いよ)(のかみ)殿が不足に思い、御城で請けされ
         無いと申し上げて退出したという事を言われて、噂になったのは、その通り
         の事と聞いているか。
  1、答 時代が隔たり、世間の評判には相違なる事も有る(はず)であるが、中でもそなた
         が言われている趣は、大いに相違の事である。
       本家相続の事を、伊予守殿へ仰付けた時、松平出羽守殿・松平但馬守の三人
         の弟達を呼出し、各々の分知を下された上に、伊予(いよ)(のかみ)殿の身として、何の
         言い様も無く、その時、御用として呼ばれた伊予(いよ)(のかみ)殿の弟方が、同道で登城
         したが何も仰渡しと言う事も無く帰宅したので、数々の子細が有った。
       筆者が聞いているのは、伊予(いよ)(のかみ)殿と申した人は、故・中納言秀康公の次男
       で虎松殿と申し十一才に成られた時、權現様の上意で駿河に呼ばれ、梶殿
      と申す女中へ養子にされた。
      その年、江戸表へ下向された台徳院様に、御目見得仰付かり、領地として
      上総(かずさ)(のくに)姉ヶ崎という所で一万石下され、本多佐渡守((注釈))殿に、介抱を仰付け
      台徳院様の側で成長され、大坂冬陣の時は、若輩ながらお供して、本多佐

         渡守殿の陣に合宿し、翌年の夏陣の時は、誰にもまして前髪がある若い人達
         を、お供に連れて行かないという、雑説を聞かれて、或る夜、若輩の小姓に
         申付け、公儀への伺いも無く前髪を落とし男に成ったので、側近の者達が、
         大いに驚いたが、仕方が無かったので有体(ありてい)の趣を佐渡守殿へ達した。
         その事を主君へ申したら
      「前髪が有る者達を、今度の供に連れて行かないという事を、何者かが虎松
         に言い聞かせたのだろう。」との上意でお笑いになった。
         その後、呼ばれたので御前へ参上すれば、御覧になり
      「良い男になって良く似合っているわ。」と言う上意で一段と御機嫌良く、名を
      伊予守と付けられ、諱字((注釈))を下され、御腰物((注釈))をも拝領仰付けられた。
      夫から伊予(いよ)(のかみ)忠昌と申し大坂表へお供に出られ、五月七日兄の三河(みかわ)(のかみ)殿の隊列
      の先頭で自身が首一つを討取って、旗本へ差上げられ、大坂の城の追手((注釈))へも
      三河(みかわ)(のかみ)殿の家老本多伊豆の一手と、同じ押し詰められ、自分の持旗を一番に
      城へ入れさせ、比類のない働きの事を、両御所様も喜ばれた。

      帰陣後、姉ヶ崎一万石を転じられて、野州下妻三万石を下され、その後信州
      城地十二万石を下され、間もなく、越後高田の城主となって、二十五万石を
         下さった。
      しかし、兄の三河(みかわ)(のかみ)殿が、乱心のため流罪を仰付けられ、越前の本家断絶に
         及んだので、伊予(いよ)(のかみ)殿へ、本家相続を仰付けられるとの事で呼ばれた。
      登城したら、お目見得前に、老中方が何れも申すには
      「三河(みかわ)(のかみ)殿は重大な法規の責任で、遠流(おんりゅう)仰付けられたけれど、故中納言殿の
         事を思召(おぼしめ)すので、今日そなたへ相続を仰付けられ、追っ付け直ちに仰出らる
         であろう。何はともあれ珍重な事である。」と申したら、伊予(いよ)(のかみ)殿が申すには
      「故中納言家を、お立ち下されるという事については、有難き幸せに思う。
         しかし、三河(みかわ)(のかみ)の乱心を、重大な法規の通り仰付けられたが、仙千代と申す
         乱心前の息子が居る。
         私儀は、次々とお取立てに預かり、今は高田の城地を拝領されたので、この
         上の望みは無い。
         故中納言のためと思召(おぼしめ)し下されるならば、仙千代に相続を仰付け下される
         様にお願いする。」と申したら、老中方は
         「そなたが申す事は至極当然ではあるが、三河(みかわ)(のかみ)殿は、そなたとご一緒で
         あるが、尋常の、乱心というだけでも無いのでお仕置に仰付けられた人の
         跡の事であれば、公儀の重大な法規もあるので、その様には仰付けられ
         難い事である。
         中納言殿の御家相続というのは、重大な事なので、早速御請け申し上げる
         のが最もである。
         仙千代殿は、御上にも知られなければならない家柄の人であれば、今後は
         何とか仰付けられる方法も有る。」
         と申されて、伊予(いよ)(のかみ)殿が再び、申すには
         「重大な法規で、例へ、当分の仰せ出こそ無いけれど、仙千代は捨てられ
         ないと言う内意になっているが、承知しなくては、私儀は本家相続の御請
         けを申し上げる事は難しい。」との事である。
         しかしながら、今日は下がられるのが、最もであるとの事で、伊予(いよ)(のかみ)殿が
      
退散したので、世間では、兎や角と尾鰭(おひれ)を付け噂をした。
         間もなく、再び呼ばれ伊予(いよ)(のかみ)殿が登城すれば、老中方が申すには
         ()(あいだ)そなたは、仙千代殿の事を申した趣は主君に伝えたら、そなたが
         申すのは最もと思っているので、その事については、心安く思っている様
         にとの上意があった。」と申したので、伊予(いよ)(のかみ)殿は
         「有難い。」
         と申し上げた上で、御前へ呼ばれ、本家相続の事、並びに二人の弟達を呼出
         し、新領地を下された。
  (注釈)
    松平三河(みかわ)(のかみ)忠直   松平三河守秀康の長男。 妻は秀忠公の四女勝子。
             1617年に越前(えちぜん)(のかみ)へ改称す。   1595〜1650年。

    豊後(ぶんご)       広島県の東部。
     松平伊予(いよ)(のかみ)忠昌   松平三河守秀康の二男。      1597〜1645年。
                   1624年に三代目越前(えちぜん)福井藩主。 童名虎松。
     中納言(ちゅうなごん)       松平(まつだいら)三河(みかわ)(のかみ)(ひで)(やす) 徳川家康の二男。 1574〜1607年。
     分知        江戸時代、知行所を分割相続すること。
     本多佐渡守(さどのかみ)正信   徳川家康の側近。 三河の人。    1538〜1616年。
     (いみな)         死後にいう生前の実名。 死後に尊んでつけた称号。
     腰物        大小の刀。
     追手        逃げて行く敵や罪人を、捕えるために追う人。
     仙千代       松平(みつ)(なが)。            1615〜1707年。

    1、問 当時諸大名の中で、皮の油単((注釈))を掛ってい狭箱((注釈))を、持たされた方々が時々
         見られたが、中でも越前家の衆中は、残らず皮の油単(ゆたん)の掛った狭箱(はさみばこ)を持た
         せたのは何か子細が有ったのだろうか。そなたは、如何聞かれているのか。
  1、答 筆者が聞いているのは、故中納言(ちゅうなごん)殿の事は言う迄もなく、息子の三河(みかわ)(のかみ)殿の
         代も、御三家同様の狭箱(はさみばこ)である。
      松平伊予(いよ)(のかみ)殿は、姉ケ崎一万石拝領した時から、越後高田の城主に仰付けら
         れた後も、通常の狭箱(はさみばこ)だけをもたせたが、本家相続の仰出られた後は、諸事
         共に、故中納言殿・三河(みかわ)(のかみ)殿両人の通りという事も同様であった。
         1625年(寛永2年)、大猷院様から御三家同様に、上野国で御鷹場拝領
         仰付かり、是非とも在府((注釈))した間は、楽しむように仰付かった。
         その時江戸逗留の内、所々の門番所、又は途中では人々が御三家と見間違い
         歴々方も下馬した衆中も多かったので、伊予(いよ)(のかみ)殿は仕方なく、夫から狭箱(はさみばこ)
         紋所が見えないように、皮の油単(ゆたん)を掛けさせた。
         別に、公儀の指図というのでも無いので、何時でも、火事騒動や入出の多い
         時節には、皮の油単(ゆたん)(はず)す事にしている
         この油単(ゆたん)の事で、筆者が若年の時に、浅野(あさの)因幡(いなば)(のかみ)殿が、丹羽左京太夫殿へ
         振る舞に参った夜に帰宅した時、勝手座敷の中で、膳番所((注釈))といって近習
         の、侍達が詰めていた所の前を通った時、徒士役の者へ申すには
         「その方の支配の徒士の者に、梶川次郎左衛門が、我等方へ参らない前は、
         松平越前守((注釈))に出入りしていたというのは、その通りか。」と申したら
         「如何にも、仰せの通りである。」と申せば
         「その事については、次郎左衛門を呼びにやった。」といった。
         間もなく、次郎左衛門が参ったので、因幡守(いなばのかみ)殿が、次郎左衛門へ尋ねたのは
         「酉の年の大火事の時に、越前(えちぜん)(のかみ)殿は(たつ)の口屋敷から、浅草辺りへ立退いた
         という時、狭箱(はさみばこ)に掛かった皮の油単(ゆたん)を、取らせたというのはその通りか。」
         と申せば、次郎左衛門が聞き
         越前(えちぜん)(のかみ)殿が立退いた時は、屋敷の内の所々から燃え上がり、殊の外火急(かきゅう)
         事であった。
         越前(えちぜん)(のかみ)殿は、玄関の式台の上から馬に乗ろうとして、供頭役((注釈))の者を呼んで、
         あの狭箱(はさみばこ)油単(ゆたん)を、何としても取らせなかった。
         この様な時にも、油単を取らないならば、(おおい)の金紋も入らないものである。
         急に取る様にというのは、余りの火急であれば、歩行仲間の者達が寄り集
         って、引き破って捨てる様に。」
         と言えば、因幡(いなば)(のかみ)殿が聞かれて、桑原定斉と申す儒学者に向かって
         「あの男の口上(こうじょう)で、きまりをつけた。」と申した。
         伊予(いよ)(のかみ)殿は一六二五年(寛永三年)台徳院様が御病気の時、在勤諸大名方が
         御機嫌伺いとして、出向くのは無用というので、京都・大坂へも命令を与え
         たけれど、参上の方もいるので差し止める様にとの事で、川崎表には、伊奈
         半左衛門殿に行かせ、品川御殿迄は、目付衆二人を遣わした。
         伊予(いよ)(のかみ)殿は、御機嫌伺いとして、越前から直ちに下向されたが、川崎の宿で
         半左衛門殿の手代が参上して申すには、
         「当宿から、江戸の方へ、大名方が行かれるのは、停止である。
         是より品川の御殿に入り目付中へ、使者を以って御機嫌伺いされるように。」
         と申したので、川崎浦より船で江戸浅草の屋敷へ到着して、その趣を老中方
         迄、達せられたら主君に通じ
         「早々登城致す様に。」との仰せで登城致せば、お側近く呼ばれ
         「諸人に代って、御機嫌伺いとして参上し、御満悦に思召す。」
         との懇意の上意をなされた。
         伊予(いよ)(のかみ)殿以来、今では江戸参勤の時は、船奉行一人・舟子・足軽二十人ずつ
         連れて供をする作法になった。
  (注釈)
    油単(ゆたん)       皮製長持などの覆い。
     狭箱(はさみばこ)      手回り品を入れ棒を通して、かつがせた箱。
     在府(ざいふ)      江戸時代、大名及びその家臣が江戸府内に在勤すること。
     歴々(れきれき)      昔からの高い家柄。
     松平越前(えちぜん)(のかみ)   越前福井藩主・松平伊予(いよ)(のかみ)忠昌。   1597〜1645年。
     (ぜん)番所(ばんしょ)     料理人の番所。
     近習(きんじゅう)      側近に仕える者。
     徒士(かち)      徒歩で行列の先頭を勤めた侍。
     式台      玄関先に設けた一段低い板敷き。 客を送迎して礼をする所。
     供頭役     供回りを取り締まる役。
     金紋      金の紋所を狭箱(はさみばこ)の蓋に書いた。
     儒学者     孔子の教え。   儒学を修めた人。
     船奉行     船手頭のこと。舟をあやつる人。



  1、問 伊予(いよ)(のかみ)殿が幼少の時、駿府で權現様の上意で、養子になされた梶殿と申した

      女中は如何な家柄の人で、後は如何になったであろうか。
  1、答 筆者が聞いているのは、以前、北条家の侍に、遠山四郎左衛門と申した者が
       おり、北条氏康の代になって丹波守となり、武州江戸の城主に申し付けられた。
       丹波守の息子・隼人正と申した者は討死をして、他に男達といっては、無く、
       女子ばかり多くいて長女は、同国川越の城主・太田太郎康資の妻となり、康資
       に二人の子供がおり、兄の新六郎重政、妹は梶といった。
       權現様が関ヶ原入国後、梶を召し出してお側近くに召され、京都聚楽の邸宅で
       梶殿には、お姫様が出生されたが、5才で早死され、今は、嵯峨の清涼寺に
        權現様のお姫様として、奉られ御牌が建っている。
        その後は、子供が無いので或る時、權現様が梶殿へ上意されたのは、
        「その方に子が無い事であれば、養子を迎えて、城内で育てたらどうか。
         しかし、他の者達は出来ないので、我等の孫の中で一人取るようにする。」
         との上意で、伊予(いよ)(のかみ)殿が十一才になり、虎松殿と申した時、駿河へ呼ばれ
        梶殿の養子にされた。
        その時、權現様は、梶殿へ上意されるには
        「虎松は、来年は十二才になるが、江戸表へ向け、将軍の側で成長させる
         ように。」という上意の時、御用の事で江戸表から本多佐渡守殿が来られた
         ので、梶殿からの頼みで、佐渡守殿と同道で虎松殿が、江戸表へ到着したら、
         台徳院様に早速、御目見得仰付かり、介抱もその方が世話をする様にと、
         佐渡守殿へ仰付け一万石の領地を下され、時々御城へ呼んでお側に置かれた。
        その後、駿河の城内で懐妊した女中を、梶殿へ預けられ
        「その方の部屋で安産させて、男でも女でも生れたら、その方の子として
         育てる様に。」との上意で、女中を梶殿の部屋に引取って置いたら、男子が
         誕生され、息才で成長され後に、水戸中納言頼房卿と申された。
         梶殿は、權現様御他界後、英勝院と申して江戸表へ下向され、田安御比丘尼
         屋敷の中に住いしていたが、本丸からも懇意にされその上、水戸頼房卿まで
         実母同様の持てなしをされた。
         松平伊予守殿も、一度は養母という由緒ある方なので、御馳走したので富貴(ふうき)
         な暮らしをしていた。
         1642年(寛永19年)九月に亡くなり、頼房卿からの計らいで、相州鎌倉
         の英勝寺で法事の時、仏参として伊予守殿は、鎌倉へのお暇願いの所で、老中
         方もその訳を良く存じなく、水戸の家へ内密で問合せたら、委細が知れたので
         早速お暇を仰出られ、伊予守殿も英勝寺へ参詣した。
         英勝院殿が息才で、田安にお入りの時、水戸頼房卿と松平伊予(いよ)(のかみ)殿とは一緒に
         振る舞をいつもしていたが、水戸殿とは伯父の間柄であったけれど、英勝院殿
         との出合いの時には、頼房卿よりは、伊予守殿を丁寧に扱い、実の兄弟の様に
         出合っていた。
         我等は、いつでも定って、御相伴に参っていたので、良く見ていたという事を
         太田道顕が、常に物語っていた。
  (注釈)
    水戸中納言頼房 徳川家康の第十一子。水戸徳川の祖。1603〜1661年。

第8巻48話
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