
第19話 伏見城で、討死衆の子息に跡目仰付けの事
1、問 上杉景勝征討に当る、関ヶ原の戦いの前、伏見の御城で、討死されたのは
鳥井彦右衛門殿・内藤弥治右衛門殿・松平力殿・松平五左衛門殿である。
この四人衆の嫡子方へ、何れも、亡父達の知行高、一倍ずつ加増で、跡目を
保って所替へを仰付けた。
中でも鳥井左京殿は、常州矢作の城主四万石を転じ、奥州岩城の城主十万石
を下され、間もなく二万石の加増で、都合十二万石になった。
その上、岩城へ行くについて、亡父の彦右衛門のために、一ヶ寺を建立する
様にとの上意で、左京殿が入国して、そのまま、一ヶ寺を建立した。
父親の法名から、長源寺と名付けたと言上されたら、知行百石の所を、永く
寄付されると、仰せ渡されたとの事を、世間で言われているが、その通りで
あろうか。
1、答 筆者が伝え聞いたのも、その通りである。
慶長七年、權現様の代に、水戸の佐竹を秋田へ、国替を仰付けた時、岩城殿
の領地を取り上げ、その跡を左京殿へ下された。
長源寺へ、寺領を寄付されたのも、權現様の代である。
その後、秀忠公様から、御朱印を下された時も文言は、權現様の指図であった。
文言は
「於奥州岩城郡岩崎之内塩村鳥井左京亮亡父彦右衛門尉為後世令一ヶ寺
建立号長源寺領百石寄付之候生領堂就次寺家門前山林木諸役等令免許之永く
不可有相違者也」
慶長十六年正月十五日。
(注釈)
鳥井元忠 通称彦右衛門。安土桃山時代の武将。 1539〜1600年。
1、問 古代には、その時の将軍家から、家臣のために寺院を建立なされる先例など
もあるとは本当であろうか。
1、答 筆者が伝え聞いたのは、明徳の乱にて京都内野の合戦のおり、山名陸奥守氏清
の戦死を、足利将軍家・鹿苑院殿は、甚だ立派だとして諸大名に、山名の首を
拝む様と言い、その上、氏清の追善のためにといって、北野の経堂を建立した。
次には、織田信長公が、未だ若年の頃、父親の弾正から、後見役に付けた時、
侍に、平手中務少輔清秀という者が、信長公の行跡が悪いのを苦労し、種々
意見を言ったが、一向に聞き入れ無く、増々、悪行跡を見兼ね、戒める文言を
数ヶ条を書いて差出し、自身は自殺して果てた。
信長公はその時、腹立しい様な、思い出有ったが、段々と成長し物事の心得
が出来て、非を悔やまれたので、平手の忠義の程を、奇特にも不便に思って
濃州の内に、一ヶ寺を建立し、平手山清秀寺と号し、仏具など寄付した。
その他、權現様から、鳥井元忠のために、長源寺を建立仰付けた様に聞い
ている。
その様な次第で、岩城の長源寺に有る、御朱印は、他に類のない御朱印で
あったと伝えられている。
(注釈)
山名陸奥守氏清 南北朝時代の武将。 1344〜1391年。
鹿苑院 足利義満。 金閣寺。
室町幕府3代将軍。 1358〜1408年。