
第21話 皆川老甫斉の事
1、問 公儀の一流の役人中などの、御用筋の事を覚書にして、脇差しの下緒に結び
付けていたのを「老甫掛り」と言った。この事を如何聞かれているか。
1、答 老甫という人は、関東御入国迄は小田原衆で、皆川山城守と言っていた。
後に、松平上総介忠輝公へ付人に仰付けられ、忠輝公が、信州飯山の城主の
時、家老職であった。
その様な事で、常々上総介殿へ意見を言ったが、或る時、何事か強く意見を
言ったら、上総介殿が機嫌を損ね、直ぐに死罪にすると言った時、元来付人
の立場であるのにとの事を伺ったら、台徳院様が仰出るのは
「山城守は、上総介の家臣であれば如何様であれ、心次第であるが、上総介
が幼年の時、山城守の才覚で、大御所様の御前で調い、源七郎康忠の跡目と
して、上総介にした者である。
その様な事情を忘れ、死罪に言い付けると言うのは、適切で無いので、暇を
与えるのは特別である。」との上意で改易させた。
自身は仏門に入り名を改め、適当な者を二人連れて京都へ上り、智積院内に
閉居し、子息志摩守は、武州八王寺辺りへ、引込ませた。
大坂冬の陣の時、上総介殿は大和へ総将の仰せを受け、上洛した時、老甫は
上総介殿の陣へ行き、取次者に言ったのは
「私儀は勘当者で許しを受けたく参った。」との趣を、上総介へ伝えれば、
対面する事になった。
処が、以前の山城守とは違い、墨染の衣を着て、殊の外年取ってやせ衰えた
体を見た、忠輝公は、頻りに落涙し、老甫を側近くに招き寄せ、今昔の話を
した時、老甫が言うには
「この度、大坂表で御奉公の事を如何思われているか、出過ぎた事であるが
私が思うには、今度は、両手に勝れた働きを、されなくてはならないと思う。」
と言えば、忠輝殿が聞かれて
「我等も、以前からその心掛けでいたら、今度の先手は、井伊掃部頭・藤堂
和泉守の両人が仰付かった上は、如何なものであろうか。」
と言ったので、老甫が言うには
「御両人が、先手を仰付かったと言うのは、上方でも、噂をしているのを
聞いている。
私思うには、大坂表へ着陣されたら、こちらの備へを、全軍の先を追って、
敵城近くへ押しつけ、城中から突いて出れば、合戦を急ぐ敵が出なければ、
きわめて危険な辺りへ、押し向け、適当な場所を取り固め、何時も一番の、
合戦をすると思えば、事が済む。
この他の大名とは違い、井伊・藤堂の族も、御前様と前後して、争う事が
出来ない。
その上、両家の族が異議を言うならば、その事をこの老甫に任かせなされ。」
と言えば、忠輝公は殊の外喜ばれ、近頃、身に余る光栄な事であった。
「その方は、暫く何方へでも、忍んでおる様に。」と言った。
その後、玉虫対馬・林牛之丞・その他、華井以下の、家老達を呼出し、
上総介殿が思っている事を、申出て相談した。
しかし、玉虫・林の二人が、口を揃えて
「夫はとんでも無い不心得である。
井伊・藤堂で、先手を仰付けられるのは、天下の軍法である。
夫を破れば、例へ、如何様な軍功をなされても、御奉公を立てる事は出来
ない。その上、井伊・藤堂の両人の手前、如何なものであるか。その様な、
お働きは無用である。
今度大坂表で御奉公を申上げるには、その他いくらでもある。」と言った。
家老達両人が、申上げたのも、同に強いて御無用と言ったので、その通り
評議された。
その後、老甫を呼出し、上総介殿が申すには
「手前が、その方の思い付きを、当然だと思い、何でも相談したが、対馬・
牛之丞の両人が、強いて無用と言うので、家老達も同じで、自身が思って
いる通り決着した。
そなたも、大坂表へ同道すると、心得る様に。」と言えば、老甫が聞かれ
「玉虫・林も何れにせよ、先手する家老達が、思っている様であれば、
成る様に無らない。
私儀、右に申上げた様に、、お供したいと思いこの様な仕度で参った。」
墨染の襟を押しあけ、黒皮おどしの具足を着込みにしたのを、上総介殿
にお目に掛かり、その上で言うには
「私儀は、今朝、智積院を出て、老いた足でここ迄来たので、殊の外疲れ
果てた。
お勝手で暫らく休息する。」と言って、退出した。
夫から直ぐに、志摩旅宿へ寄って門外へ呼出し、我等の願い通り勘当の許し
の上、御目見得仰付かり、老後の大慶を過しなく、以前から思っている事を
殿は、出来るだけ御同心で、すべて相談したが、不届者達が、心を合わせ、
強いて御無用といって、差し止めになり、調わなかった。
我等は、大坂表へのお供が出来なくなり、帰参した。
「その方も、今から支度を調へ、夜通しで井伊掃部頭殿の陣へ行き、直孝の
備えを借りて、奉公をする心掛けが道理である。首尾に会って、存命であれば
再び会える。」と言って、智積院へ帰宅した。
しかし今、流布している記録の中に、皆川老甫の名を大坂表へ出し、上総介殿
の家老として書いてあるのは、間違いである。
上総介殿は、五月六・七日の合戦の首尾に会わなく、その他、大御所様が駿河
で、ご病気の時、ご機嫌伺いとして、上総介殿が上られたけれど、御目見得
仰付けられなく、ご他界の時、ご遺言で終いには、身上の果し方も預かりに
仰付かった。
その後、皆川志摩守は、大坂の陣の一戦の五月六日、若江で働きの事を、井伊
掃部頭殿に申上げたので、呼び出され、名を山城守となり大御番頭に仰付け、
老甫には、特別に、ご扶持方の拝領を、仰付かった。
老甫が、申上げるには
「今度、息子の山城守に思い掛けなく、御家へ召出されその上、結構な役迄
仰付かり、報恩に適い、有難度く思っている。
私にも、特別ご扶持方を下された事に重々、有難度く思っているが、ご覧の
通り、何の御用も立たない者に、ご扶持方のお受けを、申上げられないので
お断り致します。」と言えば、老中方が申すには、
「隠居扶持を拝領するのは、願っても成らない事を、そなたへ下されるのは
定めし思召しが、有っての事であるので、お断りするには、及ばない。」
と各々が申したので、重く有難度いとお受けした。
その後、御用が有ったので呼ばれて、老甫が登城したら、土井大炊頭殿が
仰しやるには、
「その方が、年取って、大儀に思うが今後は、毎日暮頃から、西の丸へ上り
竹千代様の御前で何事でもお聞きになり、お心得になるため思った事など、
退屈させぬ様に、雑談を申上げ、お耳に入る様にと考え、応対の人には、
林道春・大橋立慶の、二人を仰付けた。二人が物語をするのを、お聞きな
される様にしたい。」
との上意で、夫から、毎日、暮頃より老甫は、西の丸へ登城したが、初めは
難しく思っていた様子であったが、次々と聞かれている様であった。
その節、老甫は年寄りで、物覚えが悪くなるので、今夜、物語をされる事を、
心覚えの書付けをして、脇差しの下緒に結び付けて、御前へ出る前に一通り
開いて見て参上したのを、人々が見習って、西の丸付の人々は言う迄もなく、
後には、本丸の役人中も、種々御用が有る時は、脇差しの下緒に結び付け
たのを、その節、「老甫掛り」と世間で、言い習わした。
(注釈)
皆川山城守広照 入道老甫。 1548〜1627年。
松平忠輝 徳川家康の六男。 1592〜1638年。
大御番頭 江戸幕府の職名の一つ。 軍事組織。