霊厳夜話
 
 

第23話 江戸武家町方寺社等普請の事
    1、問 江戸侍屋敷・町方・寺社などの、普請・家作は以前から、今迄通りで有った
      であろうか。
    1、答 七十年前の酉年の大火の時迄は、譜代の諸大名の屋敷には、関東御入国の時
         の家作も所々に残り、一六〇〇年(慶長五年)後に、江戸で屋敷拝領が有っ
         たが、家作を申付かった外様大名方の屋敷は、大方、その時代の、普請の
         ままで有った。
         その時の、井伊掃部頭殿の上屋敷は、以前は、加藤清正((注釈))と言った人の、家作
         であった。
         筆者が若年の頃、子細が有って、表面は残らず見物したので、確かに覚えて
         いる。
         玄関から初め、表面(おもてづら)は、ほとんど金貼付け((注釈))の絵の間が有り、表門は、桁行(けたゆき)
         十間程も見えた。
         矢倉門に至っては、小さい馬程もある金だたみの(さい)を、五疋(ごひき)彫物をし、外向
         きの、すべての長屋の、折り回しの丸瓦は、金の桔梗の紋所があり、真夜中
         でも、光り輝いて見えた。
         その他に、国持衆の屋敷は、大方二階門作りにして種々の彫物が有り、すべて
         その時、五万石もの領地が有る大名方の、玄関向きから、書院は、金貼付きの
         絵の間で無くてはならない様であった。
         なかでも、御三家方は、御成り門には、唐破風(からはふ)作りにし、金たたみには、種々
         の彫物をして、この上、申し分の無い事で有った。
         しかし、尾張殿の半蔵門の中の屋敷は、失火で焼失し、竹橋門の中の、紀伊
         殿・水戸殿の屋敷に有った御成り門は、筆者は、良く覚えている。
         松平伊予守殿に、参上する時、御三家方の様に、御成り門で支度くする様に
         との内意が出来た。
         御成り門は、仙人揃いの彫物で新しいので、光り輝いて、場所柄、大手先の
         事なので人通りも多く、見物人が、絶え間がなかったので、その頃、世間で
         日暮門と言った。
         御成り門の有った屋敷は、酉年の大火で残らず類焼した後も、江戸の所々で
         諸大名方の普請は、何れも簡単にした。
         酉年迄は、町方の普請も念入りで、大伝馬町・佐久間町と言った町の表家は
         三階屋にし、二階には黒塗りにした串窓を開け並べたので、特に目立った。
         その様な家作も、酉年の大火で焼失し、町方は、折々の火事で町人の家作も
         次第に簡素になった。
         神社仏閣は、以前に比べると、良くなった方で有ったと思う。
         今の、深川八幡宮の、御前の、金龍山聖天社・穴八幡・赤坂小六の宮の社は
         わずかな(ほこら)の宮立であった。
         今は、見事な宮居となったのは、七・八年以来の事である。
         筆者が覚えているのでも、柴庵((注釈))同様の小寺・小院共に、今は何時の間にか
         寺作りが多くなった。
  (注釈)
     金貼付け        金箔を、(ふすま)壁などに貼り付けること。
     桁行(けたゆき)    家の桁の通っている方向の長さ。
     唐破風(からはふ)   そり曲がった曲線状の破風((注釈))
     (ほこら)    神を祭る小さな社。
    柴庵(しばいお)    柴で作った庵。
    破風(はふ)    屋根の切妻についている合唱形の装飾板。

    1、問 今の、番町辺りは、以前と変った様子は、無いだろうか。
    1答 筆者が若年の頃、聞いている番町は、表向きに石垣をし、長屋作りをして、
       白土を付けた家は、珍しく無かった。
       屋敷回りには、大方、竹藪でその中に、萱葺(かやぶ)きの居宅長屋を作り、小さい門が
         立った屋敷が、かなり有った。
         今程は、竹藪の外囲いをした屋敷は、一軒も見当たらない。
         それは、右に言った通り、大名方の家作りが、簡素になり、小身な衆中の
         家作りは、良くなった様であった。

第3巻23話
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深川八幡宮 
  現在の富ケ岡八幡宮