霊厳夜話
 
 

第22話 伝奏屋敷初まりの事
   1、問 伝奏屋敷の評定は、何時頃、初まったと聞かれているか。
   1、答 筆者が聞いているのは、一六〇〇年(慶長五年)関ヶ原の一戦の前に、公家衆
      が参上するのでは無く、天下統一の後、伝奏の参上は、毎年の事で有った。
         公家衆の、ご馳走の屋敷といって、新しく普請(ふしん)が出来て伝奏屋敷と言った
         (それ)迄は、老中方の家で諸役人中が、式日の寄合も有ったが、幸い伝奏屋敷は
         常に御用も無く、空いており、一族の寄合所となったので、老中方の個々の
         家の寄合を止め、式日になって、朝夕の(まかな)いは、下奉行に仰付け、他の事は、
         支障なかったが、老中方を初め、その他、お歴々の前へ出て、給仕をする者の
         手配を、如何するか? という処に、板倉四郎右衛門殿が、言うには、
         「給仕人は、茨原町の役掛りの番人であれ、すべての女達を出させる様に。」
         との事で、茨原町の役掛りなり、伝奏屋敷前迄、船に乗せて、連れて来た時、
         船の上には、((注釈))覆いをして、幕簾((注釈))を掛けたのが初めで、他では、尾形船と
         言った。
         評定所は、負傷した者も連れて来たので、場所も汚れ、その上、毎年伝奏
         公家集が参上し、逗留の間は、評定も止まるのは、如何かとあって、別に
         評定所の普請が出来たので、町方の賄いも止め、城内からの賄いとなり、
         給仕役も、坊主が詰める様になった。
  (注釈)
     伝奏屋敷    武家が、取次いで奏聞する宿所として、設けられた邸宅。
     式日寄合    寺社奉行。町奉行。勘定奉行。大目付・目付が毎月四・十二・
            二十二日の式日に、評定所で集会評定をした。
   (とま)       (こも)のように編んだもの。

   (まく)(すだれ)      幕のようにして竹を編んだもの


  1、問 その時代は、諸事について、簡単な事などを聞かれたが、老中方を、初めは
         何れも立会い評定所へ、茨原町の太夫(たゆう)風情(ふぜい)の者を、徘徊した事など許されない
         事である。実説などで無いだろうか。
    1、答 筆者は、寛永年間の出生の者なので、時代も違い、確かには覚えていないが、
      その様な事も有った。
      子細は、文禄年間、上方で大地震があり、京都の大仏の像などが崩れ、權現様(ごんげんさま)
      の聚楽の御屋形も大破し、御家人衆中も押しつぶされ、死んだ者もいた。
      その時、伏見の小幡山城中で、築地の所に立っていた、奥向きの御屋形も崩れ、
      仲居以下の女中、五百人位いが果てたので、老女中が、太閤の前で
       「今度の地震で、多くの下女達がつぶされて果てたので、急に、その替りを
         召抱へる様に。」との事を、秀吉公が、聞かれて言うには
         「如何に、下女風情の者であっても、多くの人を集める事は出来ない。」
         と、玄以法印に話し
      「六条島原町の太夫(たゆう)風情(ふぜい)を集めて使い、その内、替りの下女達を集める様に。」
      と、言い付けられたので、近頃気の大きい言い付けと、世間で噂していた時
         であれば、評定所の給仕人・茨原町の遊女も相応の事と、板倉殿は考えない
         ものでも無かった。

第3巻22話
 1/2
 2/2