
第35話 以前大名方家風の事
1、問 以前は、江戸の諸大名方の家風は、万端煩わしくない事で有るというのが、
その通りであろうか。
1、答 筆者が若年の頃迄は、質朴な様子で有ったと覚へている。
その時は、定って世間がその様で有ったけれど、他の事は、委細知るよしも
ない。
筆者、子細有って確かに知っている事を言うと、その時代に浅野因幡守長治
殿という人が居て、備後国の内、江馬・三治と両郡の領地が有り、五万石の
身上で有るけれど、元来松平安芸守殿の分家との、五万石取りに合わせれば
すべての様子も、実は、たやすくない方であったが、長門の番人を弥之介と
いって妻子を持ち、門の開閉から掃除を、一人で勤めていた。
或る時、弥之介が番所に居なかった時、小出大和守殿が、入って来たので
弥之介の女房が走って来て門を開けたら、大和守殿は
「弥之介は外出か、内儀が大儀である。」
と笑ったと言う事を、筆者が少年の頃、側で聞いた。
その後、妻子持ちの門番は、必要無いといって、弥之介を止め、足軽一人・
小人一人が出て勤めた。
1657年(明暦3年)の酉の年で、江戸の大火事の時、因幡守殿の屋敷も
類焼し、その後、普請が出来て転居した時から、門番も足軽三人ずつと定め、
振舞客がある時は、徒士十二人ずつ上番として、勤番させた様であった。
(注釈)
足軽 雑兵。
小人 年の若い人。
徒士 徒歩で行列の先導をつとめた士。
1、問 当世諸大名方の家で、昼夜共に裃を着た族を、常肩衣衆といって、好まれた
様であったのは、以前からの事であったろうか。
1、答 筆者が若年の頃から、老中方・若年寄・寺社奉行衆方の家老用人は、昼夜共に
常肩衣で勤めていたのを覚えている。
その他、国郡の守護職である大名方の、家老用人・重要な役の者であっても
常に裃を着ていたというのでは無く、肩衣を持参し、各自の詰所に置く様に
した。
酉の年の大火事の前であったろうか、因幡守殿が、家老達を呼んでいうのには
「近頃、我等の身上と関係ある衆中の玄関でも、取次役の者達には、肩衣を
着せた。その方でも、その様に言い付ける様に。」
との事で、池田次郎左衛門・松村孫太夫という侍の両人を、初めて裃を着せて
取次役に言い付けた。
以前は、桑原甚太夫・山岡庄太夫と言う小身の侍二人で、玄関の定番を勤め
たが、山岡は中でも小身の不勝手者であったが、手もみに仕立てた、紙子の
着物に、黒い半襟を掛け、是を着て、古い一重袴で、歴々方の前へ出て送迎
したのを、筆者は覚えている。
今から、七十六年も前の事である。
(注釈)
裃 江戸時代の武士の礼装。麻上下を正式とする。
同じ染色の肩衣と袴とを紋服・小袖の上に着るもの。
紙子 紙製の衣服。 厚紙に柿渋を引いた保温用の衣服。