
第41話 板倉伊賀守の事
1、問 板倉伊賀守殿は、京都所司代役を、お断り申上げた時
「その方が、跡役を勤めるものと、思っている者がいるので書付けで差上げる。」
と仰出られたが
「私の息子、周防守より他には、私の跡役が勤まる者がいない。」
との書付を差出したら、
その通り、子息周防守殿を、所司代役に仰付けられたという事を、世間で申
されているのを、如何聞かれているか。
1、答 筆者が承っているのは、伊賀守殿が若い頃は、板倉四郎右衛門といった。
天正年間(1573〜1591年)權現様が、駿府に出立ちなされた時、
この地の、町奉行職に仰出られ、関東へ御入国された後も、江戸の町奉行に
仰付けられた。
1600年(慶長5年)天下統一に付き、京都所司代職に仰付けられ、それ
以降、伊賀守殿と申された。
大坂冬・夏の両度の陣の時も、忠節を盡くされ1619年(元和5年)迄の
十八年もの間、御役を勤められた。
しかし、老衰になったので御役は勤まる事が出来なくなり、台徳院様の代に
お願い申上げ上意に付き、子息の周防守殿を、書状の通り仰付かった。
自身は、堀川の下屋敷に隠居していたら、1623年(元和9年)になって
従四位下侍従に任じられたが、翌の寛永元年、八十才で死亡した。
父の伊賀守が見立てた通り、子息の周防守殿は、三十五年間、大儀なく、
所司代役を無事に勤め、官位を従四位少将に、仰出られたと聞いた。
(注釈)
板倉勝重伊賀守 徳川家康の臣。 1545〜1614年。
板倉重宗周防守 板倉勝重の長子。 1586〜1656年。
1、問 伊賀守殿は、子息の周防守殿の事を、例へ何程の器量が有る人でも、所司代
というのは、江戸表老中と並んで結構な役であったが、父親の身として跡役
にと、書付けたという事は、如何なものであろうか。
世間では、普通の人がする事ではない。そなたは、如何様に聞かれているか。
1、答 いづれにしても、重い役を担ったので、二つに分かれた棟のすべてに、兼務
した者は、火急の時など、人込みの中で持ち出せないで、捨てる他はない。
しかし是は、捨てる事が出来ないという大事な役を、我が身を引締め、背負
ってでも、捨てる事が出来ない様にした。
是非も無い時は、その役を背負って死ぬより外は無い。
如何に、主人のためになるには、我が身と引き替えて、背負うという事は、
侍の忠節者というのである。
伊賀守殿は、權現様の神の御心に適って、小身者を大身に取立られ、大切な
京都に預けられた程の方であった。
公儀のために、その身を引っ掛け、大功に思われたのは、御上の思召しと
老中方の思召し、更には世間の人の思惑が有れば、少しも気に掛けないで
思っている通りを、遠慮なく申上げた様であった。
主人のためと、自分のためとを交互に担った者の分別と、伊賀守殿の了見
とは、余程の相違がなくては、適わなかったであろう。
(注釈)
火急 非常に急ぐようす。
引き替え 交換する。