
第36話
1、問 世間の貴賤・上下共に持てはやす、莨菪は、古来は無い物で、近年の流行物
で有る。そなたは、如何様に聞いているか。
1、答 筆者が若年の頃、或る老人が物語るには莨菪というのは、古来は無かったが、
天正年間(1573~1591年)、切支丹宗門というのが、世間に広がった
時から、莨菪も初まった。
元来は無かったが、南蛮国の産物の草でもあったであろうか、以前はキセル
を作る細工人も稀なので、値段も高く、下々の者は、求める事も出来ないので、
竹筒を前後に、節を詰めて大きく穴を開けて、先の方をキセルに莨菪をつめ
る所を用いて、莨菪を一気に吸った。
「そなたは、西国筋から流行出し、
はやされたけれど、関東筋では、、莨菪を吸うというのは、誰も知らない様
であったが、何時の間にか流行し、キセルを作る細工人も多くなり、竹の筒の
キセルという物は廃れた。」と、例の老人が物語った。
しかし、莨菪の流行は、初めはさほど珍しいようでは無かった。
(注釈)
莨菪 ヒヨスの葉を乾燥した生薬。 葉はニコチンを含む。
南蛮国 インドシナを初めとする南海の諸国。
中国 山陰・山陽地方。
1、問 何時の代であったろうか、莨菪を作る事を、諸国共に、御法度を仰せられ、
城内では、莨菪を吸う事を御禁制堅く仰付けたと言われたのは、その通り
であろうか。
1、答 筆者が聞いたのは、、莨菪の御禁制は台徳院様の代であり、莨菪を作る事は
ならないと、諸国へ仰出られたので、今後、城内では、諸人が莨菪を吸う事を
堅く御法度に仰せられた。
その時でもあったろうか、御城で、御番衆の湯呑所へ各自が集って、莨菪を
吸っていた処へ、土井大炊頭殿が老中の時、偶然来られた事があり、何れも
仰天し、各自が、莨菪の道具を隠したのを、大炊頭殿が見たので、御番衆に
「その襖を立てるように。」と言って座られて
「今、何れの者が吸った物を、自分にも振舞う様に。」と言われたので、何れも
迷惑し、兎角の挨拶も無く、赤面の体でいれば、達っての所望なので、仕方が
無く、袖の中から莨菪の入ったキセルを、取り出して差上げれば、大炊頭殿が
取って、二・三服を吸い
「思い掛けず、珍しい物を吸わせてもらって過分である。」と言って座を立って
「今日は、自分も各々も同然なので、この次から必ず無用である。
御上では、殊の外、お嫌いになる事であれば、今後は無用に。」
と言われたので、この事は内々で伝える事になった。
今後、湯呑所の莨菪は止めた。