
第42話 以前江戸男女衣服の事
1、問 江戸に於いて、貴賤の男女の衣服は、以前と今とは変っていないだろうか。
1、答 この事については、変ってはいないが、筆者が聞き伝えられている事が有る。
權現様の代はいう迄も無く、台徳院様・大猷院様の代まで旗本では自身の役を
されて、城内の各部屋の棚箱に、包んで置いた衆中は格別である。
その他、平御番衆は、寒い時に小袖二枚重ね着用の時、下着に薄い無垢縞類の
小袖などを用意されたのは、以前は無い様であったとか。
その子細は時によっては、上と下へ着替しなくてはならない様な事もあるので
その様な時、無益な小袖は上・下にならない物と、吟味の御目見得格の衆中迄
が着用された様で有ったので、諸大名の家中でも、自身の役柄次第で着用した。
熨斗目(のしめ)の小袖着用の者は、夫ほど多く無い様であった。
貴賤の上下衣類などは、筆者が若い頃と較べて考えれば、今は美しくなってい
る様に思う。
中でも宗洞一宗は、関東三ヶ寺を初め、紙子の半襟を掛けなくては、着られ
無い様で有ったが、何時の間にか、それも止めた。
中でも殊の外、様子が変ったのは、上・下共に女中の帯で有った。
筆者が若年の頃迄の、女中の帯というのは、万の着物類を三ツ割にして、絹物、
羽二重の類は、二ツ割と定っていた。
中でも、高田様掛りと言うのは右の三ツ割を、また三分に狭ばめ、その端を
結んで押込めて、差置いた様で有った。
四十年前は、巻物類を二ツ割り、絹類は一幅をそのままに用いて、後の結め
なども、大層大きくしなければならなかった様で有った。
以前は下女の二・三人も連れて、若党が党籍持などと連れたって、歴々者の
妻女と見えた女中迄も、麻の被衣と言う物をかぶり、紫の染皮足袋を履いた
と言った様であった。
七十年前は、右の被衣と言う物を、かぶった女中は見掛け無く、身分が低い
女房・娘迄も乗物に乗らなくては、ならない様であった。
右の女の乗物の事について、自分の老父は杉浦内蔵允(正昭)殿と心安かった。
或る日の朝、用事が有り見舞ったら、玄関の上の間で、何事か杉浦殿が、
高い声を出したので、不審に思い、その間に行ったら
「これは、早朝から何事を仰しやたのか。」と申したら、杉浦殿は
「貴殿も前から知っての通り、自分は朝起きをするので、毎朝玄関から屋敷
辺りを見回り、新規の女の乗物と言うので、門番を呼んで尋ねたら『夜分、
自分の家来の婚儀を調へて、その女が乗って来た乗物だ。』と言ったので、
その者の家来達を呼出し、祝儀を言ったところである。」と申した。
權現様が駿河におられた時、自分の祖父は、知行五百石を下され、御奉公申
上げた。
その頃は妻を迎えに行った時、譜代の家来に曲負木と言う物を持たせてやり
女房には被衣をかぶらせ、例の負木に腰を掛けさせ、後に背わせて迎えた
との事であった。
しかし、自分が家来の身として、女房を呼んだとしても、メッキの星型金物
を打った乗物に乗せて、いつも迎えに行った事が有る。
それで例の乗物は、女の親元に返したか、或いは、近所の町屋に遣し、売物
にしたか、自分の管理する事はとても出来ない。
もし、乗物に乗らないと、女房が言ったら親元へ返すか、夫婦連れに自分の
方で出向いたが、その事は勝手次第にした。
「しかし、自分の言う事を、貴殿には無理である。」と言ったので、種々挨拶
をして機嫌を直し、それから居間に一緒して、料理を出して、用事を話して
帰ったと、筆者へ物語った。
(注釈)
無垢 表裏を同質・同色で仕立てた着物。
縞類 縞織物の筋に似た模様の生地。
小袖 袖口を狭くした方領の服。
小袖二枚重ね 打掛けをつけない上着と下着。
熨斗目 小袖に仕立て、士分以上の者の礼服として麻上下(裃)の下に着用。
宗洞一宗 不詳。
半襟 襦袢の襟の上に掛けて装飾とするもの。
帯 着物の上から腰に巻いて結ぶ細い布。
万の着物 不詳。
羽二重 紋付の礼服に用いる。
女の乗物 曲負木を差す。
高田様 不詳。
せばにくけ 狭め?。狭めた者。
巻物 軸に巻いた反物。
二ツ割 一つのものを、半分ずつに分けること。または反物。
一幅物 並幅で作った帯・または反物。
若党 若い武士。
党籍持 党員として登録されている籍。
被衣 身分のある女性が、顔を隠す為に衣をかぶった。
歴々 家柄の高い。
曲負木 曲げた木。
負木 女が人に負われる時、後ろ向きに腰をかけた木。
メッキ 鍍金。 金銀などの薄層を、他の物の表面にかぶせること。