霊厳夜話
 
 

第39話 東叡山寛永寺の事
  1、問 東叡山寛永寺の御建立と申すのは、何時(いつ)頃で何れの代の事であろうか。
  1、答 筆者が聞いているのは1622年(元和9年)家光将軍様の代の建立で有った。
         翌年の寛永元年から普請が初まり、開山は日光山の別当天海僧正で、総奉行は
         土井大炊頭殿である。
        関東御入国の時、江戸府内では、天台宗門の寺院といっては、他には無い。
        浅草寺(せんそうじ)は古跡なので、祈願所に仰付けられたけれど、今度(このたび)、新しい祈願所に
         といって寛永寺を建立の上は、今後御城内での平日のご祈祷共に、東叡寺で
         執行仰付けられるとの事である。
         (それ)につれて上野一山の坊数も、浅草寺に準じ、三十六坊にされると言ったが、
         浅草寺は、その時迄は、無縁地とは言いながら、千年にも余る古跡なので、
         山伏同然の妻帯坊主が混じり、三十六坊が立っている東叡山は、新地であるが、
         公儀の建立地といっても、三十六坊の寺院は、檀家無しでは、成り立たない
         様子であった。
         その時、総奉行・土井大炊頭殿が申されるには
         「東叡山は、天下安泰の御祈祷のためという思いで、公儀からこのたび建立の
         事でも有れば、御当家の御恩沢を受けている国守・郡守方には、誰でも天下
         安泰の御祈願所に、疎遠する様な事は出来無い。」
        と申した事は、世間でも前から聞いていた。
         是は、土井大炊頭殿の申すのは、最もである。
         1600年(慶長5年)の年以来、御連枝((注釈))・御家門方を初め、譜代大名衆は
    
  いう迄もなく、その他国と郡の主である外様大名衆でも、東照宮の御威光で

        御当家代々の御恩沢を受け、家門繁栄の事であれば、是れ天下安泰の御祈願
        については、各自でなし遂げるのが、内部の事である。
        中でも御三家方・松平伊予守殿は格外として、上野の寺内で、最初に検知の
         割り渡しがあり、早速、寺も立ち、權現様の肖像を安置した。
         天下安泰の御祈願、並びに家運長久の祈願を、修業するのは最もな事で有り、
         他の国主にも、一院ずつ建立して、寺領も寄附された。
         その後、台徳院様が御他界され、増上寺へ入られたので、諸大名方は奉仕に
         参加する時のためというので、各増上寺で、宿坊と言ったが初まりである。
         その後も東叡山の院は、御祈祷所と称していた。
         慶安年間(1648〜1651年)大猷院様が御他界され、尊骨は日光山へ
         入る事になっていたが、江戸の東叡山で、御仏殿の建立を仰付かり諸大名衆
         の参拝も有り、御成りの時でも、奉仕に参加する事が初まったので、祈祷所
         が装束の着替所となった。
         今は、その院主を初め、願いを掛ける方の家でも、宿坊と称する様になり、
        天下安泰の御祈祷所というのは、名前だけの様子であった。
  (注釈)
     東叡山寛永寺 上野寛永寺の山号。
     寛永寺    上野公園にある天台宗の寺。徳川将軍家の菩提所。
     天海僧正   江戸初期の天台宗の僧。会津の人。 1536年〜1643年。
     連枝     貴人。兄弟。

   1、問 東叡山の寺院に限って天下安泰の御祈祷を執行する予定であったのは、その
         子細も有ったのであろうか。
  
1、答 当時日本国中の寺院は、本末((注釈))に限らず、御当家代々の御位牌を仏壇に置いて
         朝夕の拝礼を勤め、先祖代々長久の祈念をするというのは、是れすべて、
         国恩を報じ奉ったのである。
         増上寺内で、諸大名方の宿坊の数は、十軒であるが、權現様の御尊像安置
         の寺といっては無い。
         上野一山三十六坊の中に、御尊像の無い寺といっては一軒も無い。
         寛永年間、東叡山が開かれた時から、天下の安泰・御当家武運長久の祈願
         によって建立されたのである。
         ここで考えれば、寛永寺は、天下泰平の御祈祷所の、根本というものである。
  (注釈)
     本末(ほんまつ) 基本的な大切なものと、どうでもよいもの。

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