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徳蔵寺1 巧叡山蓮華院徳蔵寺という天台宗のお寺。本尊は阿弥陀如来三尊像。 室町時代の文明3年(1471)足利八代将軍義政公の祈?所として建立。 開山は重海法印と伝えられている。 往時は寺中七ヶ院、末門十七ヶ寺を擁し、幕府から朱印十六石を賜った。 |
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徳蔵寺2 江戸時代の初期の慶長12年(1607)、総社領主の秋元越中守が総社城を築くのにあたり、 一寺の建立を図ったが、幕府の禁ずるところとなり、 天海僧正の内意により、本寺並びに寺中七ヶ院を城中に移し、光厳寺とした。 以来この地に寺がなかったが、明治6年(1873)に然海法印を住職として再建された。 寺には本尊や掛仏、また十王尊や不動明王などの石像仏などが残る。 |
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上野総社神社1 上野総社神社は上野国の総鎮守。 上野国内の549社の神々が祀られている。 総社神社をを参拝することで549社の神社をお参りしたこととじご利益がある。 主祭神は経津主命他を祀る。 |
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上野総社神社2 社伝によると崇神天皇の皇子・豊城入彦命が軍神として経津主命を祀ったのが始まり。 安閑天皇の時には上毛野小熊が社殿を改築して「蒼海明神」と称した。 天平10年(738)には上野国549社を合祀した「総社明神」と称した。 江戸時代の慶安2年(1619)3代将軍・徳川家光公より朱印地26石が安堵された。 |
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上野総社神社3 本殿は三間流造で彩り豊かな彫刻が美しく、慶長年間の造営で県の文化財になっている。 拝殿は天保14年(1843)の再建で、市の文化財になっている。 そのほか境内には樹齢800年の神木のケアキの木等が残る。 |
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山王廃寺 山王廃寺は7世紀後半(飛鳥時代)に創建された関東最古の寺院跡。 境内には今も塔心礎や大棟を飾る鴟尾、心柱の根元を飾る蓮華をかたどった根巻石が残る。 また、塔の初層を彩る緑釉や三彩の陶器、宝相華文を刻んだ金銅製飾り金具などが出土している。 古代上野国を代表する寺院であたことが分かっている。 |
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山王廃寺跡2 山王廃寺は現在、日吉神社となっている。 日吉神社は天台宗の守護神で、近江国日吉神を勧請したもの。 往時はこの地に天台宗の寺院があって、山王21社があったという。 境内には元禄8年(1695)の庚申塔はじめ、18基の万造物が安置されている。 |
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蛇穴山古墳 一辺40mの方墳で、高さ約2m、7世紀後半の築造と考えられている。 二段築成で墳丘には葺石が飾られ、二重の堀で囲まれていた。 石室は横穴式石室で南側に向かって開口している。 明確な羨道を持たず、すぐ奥に玄室を配置している。 |
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宝塔山古墳1 一辺60m、高さ12mの大型方墳で7世紀半ばの築造と考えられている。 墳丘は三段築成で葺石が葺かれ、周溝を備えている。 頂上部には江戸時代の総社領主・秋元長朝はじめ歴代の墓が残る。 |
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宝塔山古墳2 石室は横穴式石室で全長約12m、南側に開口している。 羨道、前室、玄道からなっている。 玄室中央には家型石棺が置かれている。 石室は自然石を積む従来の方法ではなく、加工された切り石を積み上げる方法を採用している。 |
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群馬県古墳巡り | |||||||||||||||||
藤岡市1 2.上野三碑めぐり 3.藤岡2+ 4.高崎1 5.高崎2 6.高崎3 7.前橋市1 8. | |||||||||||||||||
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