霊厳夜話
 
 

第55話 保科中将殿の事
  1、問 保科肥後(ひご)(のかみ)正之殿と申される方は、中将正之(ちゅうじょうまさゆき)とも申され、(だい)徳院(とくいん)様の
         お子様であるのは間違いないが、別腹なので、御台様(みだいさま)の手前を思われ
         親元での穏便(おんびん)な誕生でもあり、世間に知られない様にした。
         一説には、母が、肥後守(ひごのかみ)殿を懐妊の内に、保科正光へ再婚されたので、
         中将殿は、信州高遠(たかと)の城中で、出生されたとの噂である。
         この両説は明確でないが、そなたは如何聞かれているか。
  1、答 保科(ほしな)中将正之(ちゅうじょうまさゆき)と申された方は、秀忠将軍様の息男(そくなん)に相違ないが、そなたが
       申す通り、御台(みだい)(さま)は大柄でなく、嫉妬深かった。
         中将殿が出生し、成長の次第が殊の外、穏便(おんびん)な様に聞こえたので、世間では
         詳しく知っている者は、ほとんどいなかった。
         筆者は、子細が有って良く聞いていた。
         中将殿の母は、後に常光院殿と申していたが、その(かた)は、北条氏が小田原
         没落後、北条家の侍達を、多く家へ呼んだ。
         北条氏直の近習で神尾という者がいて、神尾も奉公願いの帳面に記載したが
         呼出しが無く、浪人で居た時に、一人の娘を持った。
         その頃、井上主計頭((注釈))殿の母は世間では「おうは(・・・)様」と申し(だい)徳院(とくいん)様へお乳を
         上げられた方であり、主計頭(かずえのかみ)殿の母でもあるので、公儀でも大切にされた。
         世間の用事もあり、常に御城に居住していたが、後に神尾の娘を預かった。
         子細は、中将殿を懐妊し月も重くなったので、親元へ下り1611年(慶長
         16年)5月7日に出産した。
         若様の事なので、御台(みだい)(さま)の手前、特に恐れ入り神尾一家の者達が、申し合わ
         せ、随分音沙汰無しに養育されたので、次第に成長し三才になって一人歩き
         をされた。神田白銀町の町屋なので、近所の人の噂では
         「是は、天下の若君様の事なので、目にみえない神仏の恵みと思って、抱き
         上げてみたい。」などと、好き勝手な事を申したので、評判になった。
         もしも、御台(みだい)(さま)へ聞こえたならば、大変な事になってしまう。
         兎に角、この町には居られない様になったので、神尾家の者達が相談した。
         三才の三月二日に、幸い主計頭(かずえのかみ)殿へ、祖母が宿下がりしたのを、聞き合せ
         母は、主計頭(かずえのかみ)殿の奥向へ、日々取次ぐので、おうは(・・・)様」の入っている所へ
         お供したので、おうは(・・・)の方も殊の外喜んだ。
         主計頭(かずえのかみ)殿を呼んで、早速参り手を清めて抱き上げて、おうは(・・・)の方と内談され
         その日登城の上伺って、土井大炊頭(おおいのかみ)利勝殿と同道で御城から、田安のお比丘
         屋敷の内におられた、貝性院((注釈))様方へ行かれた。
         この方は、穴山梅雪の未亡人で、武田信玄の息女であり、權現様の代から
         (ねんご)ろにされ、武蔵国の中の大真木という所で、知行六百石を下された。
         貝性院(けんじょういん)様方へ、両人衆をして内意があり、翌三日に、主計頭(かずえのかみ)殿宅から田安へ
         引越され、当分は武田幸松と名乗って、貝性院(けんじょういん)様の養子となった。
         その年の五月節句の昇りも
         「上には、(あおい)の紋を下されたので、武田(びし)を付ける様に。」
         と、貝性院(けんじょういん)様が指図された。
         その頃、御家へ呼び出された甲州衆が多くいて、何れも貝性院(けんじょういん)様へご機嫌
         伺いに参った。
         中でも、保科肥後守(ひごのかみ)正光と申された方は、特に貝性院(けんじょういん)様を大切にしたので
         ある時、貝性院(けんじょういん)様が肥後守(ひごのかみ)殿に申されるには
         「定めし、そなたは聞かれていると思うが、我等方に大事なお方を三・四年
         來、預かっていて息災に成長されているが、心は武士の子の七才より上に
         育っている。
         我等方女達の中に、置かれていては、育ての程は、如何かと苦労しているので、
         貴殿の方で預かってもらえないだろうか。
         武士の道も心得る様にしたい。」と申せば、肥後守(ひごのかみ)殿が申すには
         「如何にも簡単ではあるが、大事な若様の事なので、貴方の方から頼んで
         預かってもらえないだろうか。」と言われたのは、最もな事である。
         その後、この事について我等が取り計らい、貝性院(けんじょういん)様へ大炊頭(おおいのかみ)殿と主計頭(かずえのかみ)殿
         を招いて、委細話をして両人衆((注釈))が申すには
         「我等の心得だけでは出来ないので、時を待って伺う。」との事で帰られた。
         その後、御前(ごぜん)の用向きも済んだので、大炊頭(おおいのかみ)殿宅へ、肥後守(ひごのかみ)殿を呼んで
         主計頭(かずえのかみ)殿も列席の上で
         「幸松君を、そなたに預ける事は自由にして成長される様にと、考へての
         事である。」と申された。
         肥後守(ひごのかみ)正光は、高遠城((注釈))内の、三の丸の部屋の普請を申し付け、幸松君が七才
         の時、母と共に引越された。
         肥後守(ひごのかみ)殿は一ヶ月の内、五・六回程定って見回りされた時、五回に一度は
         母へも対面された。
         その様な次第なので、保科(ほしな)中将正之(ちゅうじょうまさゆき)殿を懐妊の内に、再婚されたなどとの
         噂は、大いに虚説であった。
  (注釈)
   井上主計頭(かずえのかみ)正就(まさなり)  遠江横須賀藩主。江戸城三大忍傷(にんじょう)事件の一つ豊島事件で没す。
                    寛永5年(1628)8月10日、目付・豊島(としま)刑部少輔明重(ぎょうぶしょうゆうあきしげ)に、
     西の丸殿中で殺害される。       1577〜1628年。
     奥向       家庭生活に関する仕事。
     穴山梅雪     甲斐武田氏の武将。駿河江尻の城主。 1541〜1582年。
     貝性院(けんじょういん)     穴山梅雪の後妻で武田信玄の息女。
     両人(りょうにん)(しゅう)     大炊頭(おおいのかみ)殿と主計頭(かずえのかみ)殿
     武田信玄     戦国時代の武将。 信虎の長子。    1511〜1573年。
     高遠(たかと)(じょう)      信州内藤氏の城下町。


    1、問 (ゆき)(まつ)(ぎみ)が、公儀の勤めをしたのは如何な物事の成行きであったであろうか。
  1、答 その節は、駿河大納言忠長卿がご繁栄でおられたので
      「どうか、(ゆき)(まつ)(ぎみ)の御広めを、取り持って下さる様に。
         と、肥後守(ひごのかみ)殿が頼まれ、御対面の許しを獲たので、(ゆき)(まつ)(ぎみ)と同道で、駿府に
         参り、(ただ)(なが)(きょう)と対面され、共に接待を受け供応された。
         (ただ)(なが)(きょう)は、持馬の他、鷹狩服・白銀などを披露したり、葵の紋付の小袖を
         手に持って
         「この小袖は權現様が召されたものである。
         そなたも、追っ付け目出度い御紋を許される様に祝って、これを遣わす。」
         との仰せで(ゆき)(まつ)(ぎみ)へ渡した。その時、名乗られはしなかったが1629年
      (寛永6年)6月に、正式に御目見得、仰付かった。
         寛永8年10月7日、肥後守(ひごのかみ)正光殿は死去された。
      12日になって、保科民部殿を初め、家老役達五人を、酒井雅楽頭((注釈))殿宅へ
      呼び、土井大炊頭(おおいのかみ)殿の列席で
      「高遠(たかと)の城地は、(ゆき)(まつ)殿へ下される。」と仰せ渡した。
      18日には、(ゆき)(まつ)殿が登城し、五人の家老達と御目見得仰付かった。
      20日に元服をされ、28日肥後守(ひごのかみ)に任じられ、御腰の物を拝領仰付
         かった。
      保科肥後守(ひごのかみ)正光の、死後二十日余りの間に、以上の様に仰付かったのは、
      特別な事ではない。
         それは(ゆき)(まつ)(ぎみ)が七才の時、保科正光へ預け、信州(しんしゅう)高遠(たかと)で成長されたので、
         世間では保科家へ養子に下された様に、心得ていたので、故肥後守(ひごのかみ)の喪服
         を、(ゆき)(まつ)(ぎみ)へ掛けたのは当然ではある。
  (注釈)
    酒井雅楽頭(うたのかみ)忠世  徳川秀忠の家老後、 家光の()。 1572〜1639年。


   1、問 (ゆき)(まつ)殿は、肥後守(ひごのかみ)正光殿が死去された時に、着服を受け入れない上は、実父の
      台徳院様が、御他界の時の着服は、受けなくてはならない。
      後に、増上寺御廟所(ごびょうじょ)普請の手伝いを仰せ付かったが、普請中の4月17日は
      權現様の十七回忌に当ったので、譜代の大名方同様に、肥後守(ひごのかみ)殿も参拝につき
      御暇を取り、日光山へ行かれた。
      このお山は、殊の外、着服を改める場所でもあるので、肥後守(ひごのかみ)殿が拝礼する
         という事については、心得難い事である。そなたは、如何聞かれているのか。
  1、答 肥後守(ひごのかみ)殿は、台徳院様のお子様というのは、間違い無いのであるが、
         (いま)だ、ご兄弟の御広めの、仰せ出もなされないので、譜代大名並みに
         日光山御宮の、参拝の願いを申し上げた処、早速お暇を許されたので、
         五月になって出発され、日光今市の旅宿迄来られたが、江戸表から宿次((注釈))
         飛脚が到来し、老中方からの奉書で
         「そなたは、服従の身であるので、登山は無用にして、早々帰る様に。」
         と言ったので、北条宋女という家老を名代にし太刀を献上して江戸へ帰宅した。
         それ以後、肥後守(ひごのかみ)殿を世間では目を向けられ、崇拝(すうはい)し定めし、近々ご兄弟の
      お広めを、仰せ出られるのではないかと、噂をしたが、その知らせはなかった。

      1636年(寛永13年)、鳥居左京亮殿が死亡した後、羽州最上の城地に
         上った時、十七万石のご加増で都合、二十万石になった。
      その所替を仰付かった時、土井大炊頭(おおいのかみ)殿に呼ばれ
      「今度(このたび)肥後守(ひごのかみ)殿が最上へ移るについては、急に大名になるので、人に事を
         欠く間は、心配りをして遣わす様に。」との上意があった。
      最上(もがみ)の城を受取りの時、大炊頭(おおいのかみ)殿の侍・足軽長柄の者数人の加勢で、最上(もがみ)
         城門の所々に、勤番をさせている内に、鳥居衆を浪人になった侍・足軽達を
         肥後守(ひごのかみ)殿が使用し、高遠(たかと)から家中の者も移って来た。
         その後、大炊頭(おおいのかみ)殿の家来が帰る時
         「諸番所に飾って置いた武具などは、そっくり置いて帰る様に。」
         と、大炊頭(おおいのかみ)殿から、固く申付かったと、頭役の者が申したので、その通り
         にした。今は、水車の紋の付いた兵具が、会津城中に残っている。
         (それ)から六・七年過ぎて、加藤式部少輔殿が身上を果たした時、肥後守(ひごのかみ)殿は
         「加増三万石併せて、南山五万石余りの所を私領同様に、処置する様に。」
         との事で、預かりの都合二十八万石の知行高を、仰せ付かった。
         後に、会津へ遣わされたが、ご兄弟のお広めは、仰せ出られなかった。
         (それ)については、駿河大納言忠長卿が、心を込めて怒られての事であった。
         この時代、専ら仮説であったとか。
         ある時、堀田加賀守殿が、肥後守(ひごのかみ)殿に申されたのは、
         「私へ上意があったのは、保科家に伝えられた、諸道具は、肥後守(ひごのかみ)方へ
         置いてあるが、早速、必要が無いので、保科弾正方へ遣わす様に。」
         との事なので、肥後守(ひごのかみ)殿は
         「その様な上意であれば、残らず弾正へ遣わそう。」
         しかし、權現様から、先祖弾正左衛門方へ、下された判物は手前に置き
         たい。」と申せば、加賀守殿が聞かれて
         「その様な物を残らず遣わすのは、最もである。」と申されたので、
         保科家伝来の物は、すべて北条妥女を以って弾正殿へ送れば、殊の外喜び
         使者を向え、妥女へは、お腰の物を賜わった。
         この事は世間に伝わったので、
         「さては、近い内に、お広めの仰せ出が、有るのではないか。」
         と、噂をしたが、その様な事は無かった。
  (注釈)
     宿(やど)(つぎ)      日光街道の宿駅を次いで行く。


  1、問 肥後守(ひごのかみ)、その様な次第から、例へ、大猷院様の代であっても、お広めを
         延ばされ様とも、厳有院様の代に至っては、正しい叔父様事なので、お広め
      の仰せ出があろうが、遂にその様な話しも無かったのは、何か子細が有った
         のだろうか。
  1、答 筆者が承っているのは、大猷院様が1651年(慶安4年)4月20日に
         御他界される少し前に、堀田加賀守殿を以って、肥後守(ひごのかみ)殿を御寝所に召され
         肥後守(ひごのかみ)殿の手を握られて「家綱公を頼むぞ。」と、上意があったので、
         「私は、この様にしている上は、御心安く存じなされ。」
         と申したら、お手を放された。
         肥後守(ひごのかみ)殿は、途方にくれていた処、加賀守殿が後ろから、頻り(しきり)に手を振って
         いたので、御前を退出し表へ出たら、肥後守(ひごのかみ)殿の顔色を列席の衆中が見られ
         「さては、御容躰が悪いのでは。」と各自が思った。
         (それ)から、間もなく加賀守殿が来られ
         「只今、御他界された。」とのお広めが有った。
         そのまゝ肥後守(ひごのかみ)殿は、西の丸へ登城されてから、昼夜三日間帰宅されなかった。
         大納言様からの上意で
         「この間、続いて詰められた事、大儀に存じる。帰って休息する様に。」
         との事を、松平伊豆守が申されたので、帰宅した。
         添嶋武右衛門という大納戸役の者を呼び
         「先年、駿河大納言殿から下された、權現様のお召しの小袖を出して、持参
         する様に。」と言われ持参すれば
         「この小袖を、細工人に申し付け、具足の下着に仕立てさせ、残りの中綿の
         余りは灰にして、其方が品川へ持って行き、海へ流す様に。」と申された。
         その理由は、最早ご兄弟のお広めは、是迄と覚悟され、その身を、臣の立場に
         置いて、御奉公が専一である、との考へによるものだと、家中の者は悟った。
         従って数十年間天下の大政・大務に心身を労せられ、老後病気で、職を辞し
         家督を御子息に譲る事に連がった。
         一首の古歌を自ら書き調へ、子息の筑前守殿へ渡された。
         《身は老いぬ 行末遠く 仕えよと 子を思う道も 君をこそおもへ》
         しかし、筑前守殿は早世された。
         肥後守(ひごのかみ)殿の家督の後については、常憲院様の代に至って申し上げれば、
         中将正之(ちゅうじょうまさゆき)は、出生後七才迄は、江戸の田安で成長され、肥後守(ひごのかみ)正光の
         死去の時は、台徳院様の上意で、(ゆき)(まつ)(ぎみ)へ忌服を掛けられず、台徳院様
         御他界の時は、大猷院様の思召しで、忌服を勤められた様であると仰出た
         といった子細が有ったので、委細申し上げたが、称号・御紋は許され、
         御家門として仰付かった。
  (注釈)
     大納戸      将軍の衣服調度を管した役。

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