霊厳夜話
 
 

第60話 江戸大絵図の事
  1、問 今、江戸大絵図といって、世間に持てはやされているのは、いつ頃出来たの
         であろうか。
  1、答 大絵図というのは、以前は無かったが、徳川家綱公の代で、明暦三年の酉の
         年の大火事直後、井伊掃部頭(かもんのかみ)殿・保科肥後(ひご)(のかみ)殿を初め、その他の老中方が
         寄合って、江戸大絵図というのが無くてはならないと相談し、松平伊豆守殿
         が掛りとなって、北条安房(あは)(のかみ)氏長殿に、仕上げて差し上げる様に仰付けた。
         安房(あは)(のかみ)殿が申上げるには
         「私儀は今の役の事で、御用が多くすべてに余裕がなく、その上、御城回り
         を初め、武家屋敷並びに町方達に、詳細に割付けて、方角が違わない様に
         仕上げるというのは、簡単に出来るものでは無い。
         その様な立場にある役の片手間に、絵図に取り掛る事は出来ないので、他人
         へ仰付けられる様に。」と強いて断ったけれど、、他へ仰付ける方も無かった。
         伊豆守殿は
         「下の役人は何んであれ、そなたが申上げ次第で仰付けるので、大絵図の
         方の監督として、世話をする様に。」と申したので、安房(あは)(のかみ)殿は
         「それについて、私の家中の縁故の者に久島伝兵衛というのがいて、只今、
         門弟に指南をさせて、私の方に置いている。
         しかし、当面は浪人なので、御城内へ立ち入るのは如何かと思うが、差支え
         がなければ、この者に指図して私の身代わりとして、差し出したいが、如何
         であろうか。」と伺えば、伊豆守殿が聞かれて
         「最もではあるが、当面は、浪人者とあれば、自分の一存では返事が出来ない
         ので、追って話をする。」と言った。
         その後、伊豆守殿が申されるには
         「この間、話された久島伝兵衛は、貴殿とは由緒があり、その上こちらに置く
         というのであれば、差し支えない。
         その下役として、鈴木修理の組下の者達を連れて、貴殿の指図に従って勤める
         様に仰付け、その事を心得る様に。」と言われた。
         小川町の安房(あは)(のかみ)殿宅の焼跡に、絵図小屋が出来て、伝兵衛その他部下を呼んで、
         最初に本丸の地坪を計算し、次に西の丸の地坪を計算した時、御殿の公方様が
         入られていたので伝兵衛は差控へ、ニ・三日間は、安房(あは)(のかみ)殿が自分から出て
         伝兵衛へ指図して、事が済んだ。
         外大手の平川御門から中には、安房(あは)(のかみ)殿の直弟子(まなでし)の者でも、伝兵衛より他は
         一人も入る事が出来なかった。
         御城内の調査が済んだ後、他の門弟達もニ・三人程が申合せ、伝兵衛の手伝い
         として出た。
         筆者は、大原十郎右衛門と組んで、三・四度程出た。
         絵図が出来た時
         納戸((注釈))へ納めない内に、拝見したいという直弟子達は、絵図小屋へ参る様に。」
         安房(あは)(のかみ)殿が申され、伝兵衛の方から伝えたので、何れも参った。
         筆者は、大原と一緒に参ったら、清書の絵図は、箱に入れて床の上に置かれ
         下絵図を一覧していたら、安房(あは)(のかみ)殿が来られ、大原と筆者に申すには
         「この下絵図に有る本丸の部分は、御堀を境いにして、中を切り抜く様に。」
         と申されたので、二人で切り抜いたら
         「裏面から細紙を張り、落ちない様に。」との事で、その通りにしたら、
         岩城伊予守殿が来られ、下絵図を見られ
         「この本丸を、何故切り抜かれたか。」と尋ねたので
         「少し訳あって切り抜かせた。」と、安房(あは)(のかみ)殿が返答された。
         筆者も全く合点が行かなかったが、後日開いたら、安房(あは)(のかみ)殿は例の下絵図を
         差上げれば、老中方何れも殊の外、お褒めであったと申した。
         その時、安房(あは)(のかみ)殿は、例の下絵図を差出して
         「是は、下絵図で清書の絵図が出来た上は、焼き捨てるつもりであったが、
         一応、伺ってからと思ったので、持参した。
         私が考へるには、本丸・西の丸の坪数さえ露見しなければ、別に秘密にする
         程のものでもないので、この下絵図は、刊行に仰付けては如何であろうか。
         世間の、重宝(ちょうほう)になると考へる。」と申上げれば、老中方の何れも聞かれて
         「貴殿の申す通り最もである。
         その様に申付け、刊行が出来たなら、自分達にも一枚ずつ所望する。」
         と申したので決定した。
         安房(あは)(のかみ)殿は、老中方がご覧になっている前で、絵図の中に切り抜いていた
         本丸の処を切り取られ、小刀で細かく切り破って、鼻紙(はながみ)に包んで坊主衆に
         「是を、焼き捨てる様に。」といって渡した。
         その後、「遠近道印((注釈))」と申し、書物屋方へ渡り刊行出来た時、安房(あは)(のかみ)殿
         から指図があって、老中方を初め役人方へ、刊行の絵図を一枚ずつ道印(どういん)
         から進呈し、その後、世間へも広がった。
         酉年の大火事以後、江戸は益々広がったが、その所々は公儀からの改定も
         なかったので、道印(どういん)方から人を(つか)わし、筆者が対応した。
         従来の絵図に、書き加えて新版とした。
         委細を知らない者は、始終「遠近道印((注釈))」の自作と噂をした。
  (注釈)
     納戸(なんど)    衣服・調度類を納めておく部屋。
     坊主衆    幕府・諸大名に仕え、僧体で茶の湯や、給仕などの雑用を勤めた者。
    遠近道印(おちこちどういん)  江戸大絵図の作者は、北条安房(あは)(のかみ)氏長である

               大目付という官吏の為か、世間に実名を載せる事が出来なかった。
               最初の道印(どういん)は、安房(あは)(のかみ)の仮りの名。
               安房(あは)(のかみ)没後に、養子の大道寺友山が、絵図の書き替え、道印(どういん)名も
               継承したと言われている。

第10巻60話