
第56話 火事羽織の事
1、問 今時どこかに火事が起った時、身分のある方々は言う迄も無く、末々の小身
な者達でも、火事羽織・頭巾・胸当てなどに威光を盡した様であったが、以前
からの事であったであろうか。
1、答 火事装束が初ったのは、酉の年の大火の後で、その前の事は分からない。
子細は、酉の年の大火の時以外は、分からないけれど、浅野因幡守殿は、
五万石を領する大名であったので、諸家で足軽達の着ている様な、茶色に
くすんだ皮羽織に、紋の付いたものを着用し、家中で、五百石から百石程を
取った騎馬役の侍達迄、残らず渋染の木綿羽織に、紋所を大きく付け着用した。
如何して持ち合わせたのか、知行取の侍の中にわずか三人だけが、皮羽織を
着ていたのを覚へている。
火事の当日、井伊掃部頭を間近に見掛けたが、因幡守殿同様、皮羽織を着て
馬回りにお供をしていた侍達は、皆んな木綿羽織を着用していた。
その後は、足軽仲間風情の者達迄も、茶色の皮羽織を着なくてはならない様に
なったので、上下の区別が付かなくなり、侍の身分の者達は、黒皮の羽織を
用いる様になった。
夫から次々と結構になり、羅紗の羽織に派手な模様をして、頭巾も甲と同様に
甲の鉢のひさしの吹き返しをし、更に五枚と三枚の錣を下げ、胸当てにも
種々の絵を書く様になった。
当時の、火事装束の一式を新調するには、念を入れて置く様にとの事で、
着料の具足に、一両の大金が入用であった。
その上、武家方は勿論のこと足軽・若衆だけでなく、町人・出家に至る迄
火事装束の支度をする様になった。
今の様な事は、以前は決してなかった事である。
(注釈)
頭巾 布巾などで作り、防寒・防災などのためにかぶるもの。
皮羽織 なめし皮で作った羽織。 防寒、火事装束に用いた。
木綿羽織 綿織物で仕立てた羽織。
木綿 ワタの種に付いている柔らかな綿毛。
羅紗 羊毛で、地の厚く密な毛織物。
甲 頭部を保護するための、かぶりもの。
錣 甲の鉢の左右から、後方に垂れて頸を覆うもの。
着料 着るもの。 また、その材料とするもの。