霊厳夜話
 
 

第59話 踊子の事
  1、問 江戸の町中で、女の子供を集め、踊りを指南。又は、小唄・浄瑠璃・三味線と
      いったものを教えて渡世をする(たぐい)(やから)は、如何程という限りがなかったのは
      以前からであったのか、又は、その後に初ったのであろうか。
  1、答 筆者が若年の頃迄は、踊子という者は、例え如何程の高値で抱えたいといって
         も、江戸の町方は一人もいなかった。
         三味線というものは、盲目の女より他には、弾かなかった様であり、思い掛
         けなく、弾いていれば世間では、珍しい事の様にいわれていた。
         当時大名衆の奥方では、瞽女((注釈))と名付けた盲目の女を、二・三人抱へて置いて
         慰め事など有った時は、三味線を鳴らし、小唄風なものを唄わせ座興を催す
         様であった。
         当時は、例の瞽女(ごぜ)という者は姿を消し、世間一般に踊子・三味線を弾くだけ
         の様になったのは、元禄年間以来の事であったろうか。
         女の子を、踊子に仕立てるのは、親の物入りが掛かるというので、五百石や
         千石程の知行を取った武士を、目当てにしたのではなく、せめても六・七千石
         の知行高より一万石以上の郡主、又は、国主方にも奉公させたいとの願いを
         込めて師匠を選び、物入りをも、嫌がらないで稽古させた。
         一方、それを召し抱えられた主人方は、必ずしも、その踊子を奔走(ほんそう)していた
         ばかりではないが、年若い方々は、心の緩みとなり行きで、行儀も乱れ、酒の
         一つも召し上がり過ぎる様になると、その酔に紛れて不摂生(ふせっせい)頻繁(ひんぱん)になるので
         元来、金銭や物品が余り無く生まれついた方々は、いう迄もなく、例へ堅物
         に生まれついても女と酒におぼれ、その拍子につられて病気でもなり、短命
         になるのは良くない。
         この様な女楽の流行については、孔子は、(くや)みをいったのである。
         一つ、筆者が若年の頃迄は、大名方の奥方にでも表から入られ、鈴の音が
         聞へれば、年寄の女中達が指図し、家柄も良い若い女中達を部屋に入れて、
         殿の目通りには、徘徊させない様にしたとの事であった。
         いつ頃から初ったのであろうか、大名方の息女が婚礼の時、供付きで参った
         女中の中には、例の踊子・三味線弾きを、抱へ集めて供をさせた。
         婚儀が調って、五日も過ぎれば、年寄の女中達の取計らいで、例の踊子を
         初め、座興を催したので、年若い殿達は、これにも増した慰めはなかった
         と言う心になった。
         (それ)から、次第に奥に行かれるのを好んでいるのを、奥方が見ては
         「お二人の仲が、良くなって。」
         と言って、喜び合っているというのは、誠の女の浅智恵というもので、
         結局は、大切な主人へ、毒の(かゆ)を差上げるのと同様な事で、悪いのか
         良いのか、この様な事はすべて三・四十年ばかり前から初まった事で、
         筆者が若年の頃は聞かれなかった。
  (注釈)
     瞽女(ごぜ)    三味線を弾き、唄を歌うなどして、銭を乞う盲目の女。
    元禄年間  1688〜1703年。
    孔子(こうし)    中国の思想家。

第10巻59話