霊厳夜話
 
 

第63話 山縣三郎兵衛噂の事
  1、問 權現様は、若年の頃から数限りなく戦場へ臨まれたと、聞き伝へられているが、
      総数は如何程であるか、知っているであろうか。
  1、答 この事について筆者が聞いているのは、權現様は十七才の時、初陣に立たれ
      1615年(元和元年)大坂夏陣の迄の間に多少敵味方に戦死者がある様な
      合戦に逢われたのは、総数四十八回との事で、以前から世間に伝わっている
         事である。
         その他、陣地の支度くで出馬されたのは数限りない。
         これらの場数の為に權現様は、右手の中指三本が老年になっても、真っ直ぐに
         伸びなく、指の節に肉が盛り上がっていた。
         この事は若年の頃から、合戦場へ臨まれる前に、味方の諸勢を激励されるため
         手に持っていた采配((注釈))で、鞍の前輪をたたかれたので、指の節から血が流れ出た
         のを気付かず、帰陣後、薬を付け(なお)り掛けたと思えば、又もや、陣地に立って
         例の様に、打ち破る様であった事が原因である。
         この一事についても、武勇の程が分かる。
  (注釈)
     采配(さいはい)  軍陣で、大将が打ち振って、士卒を指揮するのに用いた具。


  1、問 四十八回の、場数の中には、定って大小の合戦もあった。
      是らは、如何に合戦が上手であっても、一代の間に勝った合戦ばかりでも
         無かった筈である。
      苦戦の様子も承知したいのである。
  1、答 筆者が聞いているのは、權現様一代の間の大合戦と申すのは、江州姉川・
      遠州三方ヶ原・三州長篠・尾州長久手・尾州関ヶ原の五回の合戦である。
      次に一代の間に、難儀な目に出合ったと申すならば、織田信長公へ加勢して
      越前へ出馬の時である。
      江州で浅井備前守長政が逆意で、信長公が越前金ヶ崎表を(にわか)に引払った時
      「羽柴筑前守を、殿に申付けたので、お心を添えて援助される様に。」
      と、信長公から頼まれたが、朝倉義景は多勢に乗じて急に追討して来たので、
      さすがの秀吉公も退く事が出来ず、最早討死にという覚悟で
      「私には、お構いなく、貴殿は早々退くのが最もである。」
         との使いを秀吉公から、二度迄も寄こしたけれど、それに気に掛けられず
         「味方の人数で、朝倉の勢を押へる様に。」と命令された。
         そこへ越前勢が急に攻めて来たので、家中衆が防ぎ切れなかったのを見られて
      御自分で御持筒((注釈))を取られ、朝倉方へ攻め掛けられたので味方の諸勢は何れも
      粉骨砕身を(つく)くし、遂には越前勢を追散らし、秀吉公を連れて引取られた。
      次には、武田方の山縣三郎兵衛が島田の宿に居ると、聞かれた權現様は、
      掛川の城から金谷の台に出馬され、親交のために山縣へ使いを出された。
      山縣は如何様な考へだったのだろうか、騎兵・歩兵合せて六・七百ばかりの
      人数を、旗一流れ((注釈))を差上げて、大井川を渡って理不尽に押し掛けてきた。
      權現様は少しも想像しなかったので、掛川から出発された時、お供の連中も
      平常服であったので、山縣の武者備へと敵対する積りも無く、早々掛川の城
         へ馬を入れた。
      跡を追った山縣の人数は、袋井縄手迄来て、大銀杏の木の下で軍を留め勝鬨
      の声を挙げて引上げた。
      この時の、權現様の退却振りは、実に見事であった。
  (注釈)
     持筒     鉄砲。
    持筒頭    将軍の鉄砲を預かり、戦時には、与力・同心を率いて旗本を
           警衛した。
    旗一流れ   大名・大将の軍旗を持つ旗足軽。 別名旗奉行。三人一組で持つ。


  1、問 その時は、武田信玄と權現様とは、織田信長公の仲裁で和平の時でもあったが、
         法印の家来の山縣がその様な態度に及んだのでは、思い掛けない不届な事で
         あれば、さぞご立腹されたのであろう。
      この事を如何に聞かれておられるか。
  1、答 山縣の軽率な動きの事は、不届者としてご立腹されたのか、諸人が思った。
         權現様は、掛川の城へ入られて、お側衆へ仰しやるには
      「武田信玄は、良い人を多く持っている。中でも山縣に勝る者は、むやみに
         いるものではない。」との仰せで、殊の外賞美された。
      三州長篠の合戦の時、山縣はその上ご当家の陣立で鉄砲に当たり、討死した
         という事を聞かれ、殊の外悲しまれた。
         その事で武田家滅亡の後、甲州表から多数御家へ召抱へられた時も、広瀬
         三科を初め、山縣の同心達は最初に召出され、井伊直政へ預けられた時
         萬千代((注釈))をその方達が世話をして、山縣の武勇に劣らぬ取立てをする様に。」
         と直ぐに仰せ渡した。
      上洛の時に、袋井縄手を通った時は、例の大銀杏の木の下で、お茶を召上
      られたのである。
      金谷表へお供をした人々は、定めて御前へ召されて当時の事を追憶と共に
         山縣の事を噂された。
  (注釈)
     井伊直政   徳川家康麾下(きっか)の武将 直孝の父。 1561〜1602年。
    ()千代(ちよ)    武田信吉。家康の五男。     1583〜1604年。

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