
第15話 西の丸弁慶堀の事
1、問 今の、西の丸外の堀を、弁慶堀と言うのは、何か子細が有ったのだろうか。
1、答 筆者が若年の頃、或る老人が物語るには、1600年(慶長5年)関ヶ原の
一戦で、勝利された後、上方衆中で藤堂高虎・関東衆では、伊達正宗の両人
が、頭取で、江戸城下で、何れも、屋敷を拝領したいとの事であった。
しかし、權現様が
「何れも、大坂表に屋敷が有るので、江戸表に新屋敷は、必要無い。」
と言われた。
それでも、何としても引受けられる様にとの願いにより、外桜田辺りと今の
大名小路の辺りで、東西の外様大名衆へ、望み次第、屋敷を遣わされた。
加州大納言利長は、先達って、母の芳春院が、江戸へ下向の時、秀忠様から
御城の大手先で、大屋敷の中に結構な家作を、仰せ付かれたので、是を屋敷
にした。
浅野左京太夫幸長の義父の、弾正長政は、外桜田・霞ヶ関という名所の地を、
先達って、屋敷に申請して置いたので、夫を、上屋敷に用い、老父の弾正の
隠居所にしたいと言って、他に添屋敷を申請した。
その時、大名小路の辺りは、葭原であったが、御堀から揚げ土を、引取って、
地形が出来た。
外桜田辺りは、殊の外、地形に高低があり、各土取場に難儀し、夫迄は新城の
外溝の御堀の巾が、十間余り有ったので、屋敷拝領の、諸大名方からの願い
もあり、今の様に、御堀の巾も広がり、底も深くなったので、その揚げ土を
方々へ、引取って地形に用いられた。
その時、外桜田で屋敷拝領というのは、加藤清正を初め、黒田・鍋島・毛利・
島津・伊達・上杉・浅野・南部・伊藤・亀井・金森・仙石・相馬・水谷・秋田
・土方・その他の衆中達に、御当家の代替りが奉公し、初の東西の諸大名が、
入り込んで御堀を普請したので、東西の武蔵坊と言う心で、武蔵堀と言った
のは、誰一人となく、言い習わした事で、確かな名では無い。
浅野左京殿の願いで、拝領した添屋敷に、浅野因幡守が居られた。
或る時、屋敷に井戸の普請が有り地形の下の底から、茨の根が多く出ていたの
を、人々が不審に思っていた処、徳永金兵衛と言う家老が聞かれ、左京太夫殿
が、この屋敷拝領の時、この辺りは、谷の中で有ったのを、掃部頭殿の屋敷前
の御堀から土を取り入れたと、物語ったのを、筆者が若年の頃聞いた。
(注釈)
藤堂高虎 安土桃山・江戸前期の武将。 1556〜1630年。
伊達正宗 安土桃山・江戸前期の武将。 1567〜1636年。
外様大名 主に関ヶ原の一戦後に従事した家臣。
加州大納言利長 前田利長。利家の長子。 加賀藩の祖。
安土桃山・江戸前期の武将。 1562〜1614年。
浅野左京太夫幸長 長政の長子。紀州和歌山藩主。
安土桃山・江戸前期の武将。 1576〜1613年。
加藤清正 安土桃山時代の武将。 1562〜1611年。
弁慶堀 江戸城普請の棟梁弁慶小左衛門に由来。