
第8話 神田明神の事
1、問 御入国の時は、神田明神の社も城内に有ったというのは、如何聞かれているか。
1、答 神田明神の社は、城内に有ったのでは無い。
今の、酒井讃岐守殿の上屋敷の所は、古来から、明神の社地で御入国の時は、
地内は大木が茂り、その中に宮居が有った。
毎年九月の祭礼の時は、例の木立の中に幟を並べて近所の町方から栗・柿を
初め、種々の売買物を持出し、人出が多かったので、殊の外賑やかであったと
小木曽が物語った。
その後、年を経て、この辺は曲輪の内になり、明神の社も今の所へ移り、社地
の跡は、土井大炊頭殿の屋敷になった。
神田門の矢倉も、大炊頭殿に預けられたので、大炊頭殿の代から、遠江守殿の
代になっても、水車の紋所を付けた幕を、張り詰めにしたので、筆者も覚えて
いる。その時、門の外の橋を、大炊殿橋と言っていた。
その言われで、未だ神田祭礼の時は、例の屋敷表門の前に神輿がおり、屋敷
の主から馳走された。
(注釈)
神田明神 東京都千代田外神田にある元府の社。
1、問 神田明神の祭礼の時、神事能興行と言うのは、古来からの様に聞いているが、
近来から初まったのであろうか。
1、答 神田祭礼の趣は、古来から神事能は無かった。
筆者が聞いているのは、京都で関白秀吉公の時代に、暮松太夫と言った者が
いて、殊の外秀吉公の気に入られ四座の者達の触頭の様であったが、子細が
あり、上方の徘徊を止めて江戸へ下った。
その時には、名の有る猿楽達が、江戸下りをするのが少ない時、暮松太夫が
思い掛けなく、下ったので、武家・町家に限らず、乱舞に押し寄せた族は、
何れも、暮松太夫を馳走した。
中でも大伝馬町にいた五霊香と言う町人が、乱舞を好んだので暮松を取持ち
町年寄の佐久間の子供を、暮松の弟子に引付けて、自分の住居の中に舞台を
作り、稽古能の興行を初めた。
その後、相談をして暮松の助成のため、神田の社の中で、神事能を初めた時、
町年寄達の働きで、江戸中から費用を出させ、夫を集めて暮松方へ遣わした
ので、安心して渡世が出来た。
その後、暮松が亡くなり、子供が幼少なので能興行を止めた。
関ヶ原一戦後は、四座の達者も江戸へ下がったので、神田神事能を再興したい
と観世太夫方へ頼んだ。
北条家繁昌の時、北条氏直の能の師匠として、保正四郎右衛門という者を招い
て言われたのは「保正太夫方が病気なので隠居する」と言ったので、小田原に
下り、氏直の舞を指南したのが初まりで、小田原中が残らず保正流となった。
1580年(天正18年)になって、北条家断絶となったので、氏直を助けた
役者を初め町方の乱舞に集った者迄が、残らず江戸に出て渡世した中に、右の
通り暮松太夫が下り、神事能が初まり、小田原崩れの役人達が、右の能に出て
勤めたので、保正太夫を目に掛け、暮松太夫の跡代わりに取持った。
実・不実の事は、分からないが、筆者が若年の時、或る老人の物語で聞いた
趣であった。
暮松太夫の子孫は今は、太々神楽を打つ頭となっている。
(注釈)
猿楽 平安時代の芸能。
四座 大和猿楽から出た能の観世・宝生・金春・金剛。
触頭 奉行から出る命令・交渉を任さどる頭。
稽古能 練習のために能を演じる。
北条氏直 安土桃山時代の武将。 氏政の子。
徳川家康の女婿。 1563〜1591年。
