
第6話 御城内の古来家作の事
1、問 御入国の時、城内に有った遠山時代の屋敷は、早速壊わされ、御殿を新規に
仰付けたのか又は、暫く以前の家作のままで有ったのだあろうか。
1、答 この事を、土井大炊頭殿が家老達へ言われたのを、大野知石が物語として聞いた
事である。
權現様御入国された時、先の城主遠山の城内の家は、いう迄もなく二の丸・
三の丸の外郭に有った家も、そのままに残っていたので、当分城内で家に事
欠くというのは、無かった。
しかし城内の家に、柿葺というのは一ヶ所も無く、やっと日光葺・甲州葺で
取次ぎにして、台所は萱葺で広くしたけれど思っていたより古家で、玄関の
上り段に、船板の巾の広いのを二段に重ね、板敷をしない土間であったの
で本多佐渡守殿が
「是は、余り見苦しいので、他国からの使者も無くも無い。
せめて玄関回りを、普請仰付けるのがよい。」と言ったので、
「その方は余計な企てを言うな。」
と土井大炊頭殿に笑われ、家作の事は、お構いもなく本丸と二の丸との間に
有った堀を埋め、普請を急がせた。
(注釈)
土井大炊頭利勝 江戸前期の幕府老中・大老。佐倉城主。
家康・秀忠・家光に仕える。 1573〜1644年。
柿葺 屋根をふくのに使う薄い板。
船板 船に使用した板。
本多佐渡守正信 徳川家康公の側近。 三河の人。 1538〜1616年。
1、問 その様な、屋敷の御屋形が狭くては、常の儀式には、事が済むものでは無い
が、家中が総出した時は如何であっただろうか。
1、答 その事を、筆者が聞いているのは、お国替えの時、万事を置いて家中の大身
・小身に限らず知行の割の事を急ぐ様にとあって、総奉行には、老中の中で
榊原式部太輔殿を仰付けその下に、青山藤蔵・伊奈熊蔵・その他御用目付衆
などを軽便な陣屋を構え、その所へ妻子を引越させた。
江戸城の御番は、知行所から通い番にする様に仰付けたので、家中の大身・
小身達に拝領の知行所へ、妻子を引越させ、手回しよく、けじめがついた。
小身は、知行所の名主の家、又は寺院などを借り、当分の住居とした衆中も
多かった。
江戸表には、近所迄の奉公をした人々・諸番頭・諸物頭・その他、役人衆は
妻子を知行所へ引越し、自身と人馬を、江戸城附近に小屋場を受取り、小屋
掛けをして奉公した。
1、問 そなたが言う通りでは、旗本・諸御番方の衆は、遠近の知行所から通勤する
のは大変な事である。この件については如何なものか。
1、答 その事について聞いているのは、その時、江戸で御城の近所の町家に番方の
定宿はいくつも有り、知行所の遠近によって、その町家に何日も逗留し自分
の番、他の番という事も無く毎日出勤し、御番帳面には名判さえして置けば
一・二ヶ月分の勤務が済んだ様にすると仰付かった。
その内、次第に、江戸で屋敷を拝領仰付かり、小屋掛けもされ、そこに居て
次々と家作を調へた。
玄関の上り台の船板を、長い間取らせなく、貴人の家の普請も、思いのほか
簡単な様で有ったので、家中衆拝領の屋敷の家作も、身上不相応でなくても
非難する者も無かった。
それらの事は、長崎彦兵衛が物語ったのである。
国替された年の九・十月頃は、家中の大身・小身の侍達の引越も、大方けじ
めがつき、駿府を初め四ヶ国の旧領は、何方へか、引き渡されるとあって、
使者を大坂表へ差し向けた時、関白秀吉公が浅野長政へ言うには
「三河・遠州・甲州などは当然である。
駿府の城迄引払うというのは、更に合点がいかない。
如何様に手回したのか、すべて家康の言い付けた事には、凡人が及ばない事が
多い。」
と言って大いに感じたと、徳永如雲斉の覚書にある。
(注釈)
豊臣秀吉 戦国安土桃山時代の武将。 1536〜1598年。
浅野長政 戦国安土桃山時代の武将。 1547〜1611年。