
第9話 江戸町方
1、問 関東御入国後、町方の
1、答 長崎彦兵衛や小木曽太兵衛が、常に言っているのは、今の日本橋筋から三河町
川岸通の縦堀に掘るのから初めて、夫から次々と縦堀・横堀が出来てその上、
この土を掘端に山の様に積上げた。
それを、諸国から来る人達に願い出し、町屋を割下されたので、勝手次第に
揚げ土を引取って地形を築き、屋敷取りをして表通りには、先ず、葭垣をして
置き、追って家作をして引越をした。
初めは、町家願いをする者が少なかったが、伊勢国の者達が多く来て、屋敷を
望みたいとの、知らせがあった。
その町屋敷が出来た後は、表に掛けた暖簾を見れば、一町の内に半分は、伊勢
屋という書付けが見られた。
北の方は、地形が低く御城内へも遠かったので、繁昌出来ないと、御上へ通じ、
遊女町を許され、葭原の場所を拝領仰付かったので、四方に堀を掘って地形を
築き、家作を調へ、遊女達を多く集めたので、昼の間は、諸人が来たけれど、
その道筋の左右が、葭原の中で物騒であったので暮れには人通りが無く、渡世
が出来ないと願い上げ、女歌舞妓を許可される様にと願ったら、許されたので、
町中に舞台を建て、桟敷を掛けて芝居を初めた。
その頃、京・大坂にも無い見世物とあって、貴賤共に入り込んで、殊の外繁昌
し、細道の左右にある茨原も切り払って、江戸中から出店をし、茶屋も多く並んだ。
後ちに、茨原町から願い出たのには
「今では、宿泊する人も多く渡世が仕安くなり女歌舞妓を止め、芝居の跡
を町屋にしたい」との事で、願い通りとなった。
その後、猿松彦作と言う狂言師が、願い出るには、
「京・大坂に、古来から有る芝居を、許可して下さる様に。」
との事で、許可され、今の堺町を取立て、踊子を集め、狂言芝居を初めた。
筆者が若年の頃の彦作は、年寄りで、狂言を演じていた。
その弟子に猿若勘三郎がおり、この子孫は今でもこの所で芝居をしていた。
踊子達は、何れも前髪立であった処、石谷将監殿が町奉行の時、どこへやら、
振る舞いに行き、その元で、浪人小姓が出て、酒の相手になり、殊の外賢く
立回って見えたので、将監殿が居合せた客へ言うには
「あの浪人小姓は何者の息子であろうか、自分は心安い方で小姓を尋ねて
いる間、世話をしたい。」との事で、居合せた客が言うには
「堺町にある歌舞妓子であれば、そなたが口添えする様な者では無い。」
との事を将監殿が聞かれ、帰宅した後、そのまま与力同心を、堺町へ行かせ
名主へ言付け、今夜中に踊子の前髪をそり落とすように言った。
しかし、元来、若衆歌舞妓と言うのは御免の事である。
踊子の中に、太夫分の一人は前髪を立たせる様にとの事、その夜中に速やかに
今迄の通り、野郎頭とすると同役の神尾備前守殿へ翌朝御城で将監殿がその事
を話した。
(注釈)
御免 お上の許可。
野郎頭 前髪を取り去った頭。