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観世音寺1 清水山観世音寺という天台宗のお寺。 7世紀後半、天智天皇の発願で、母斉明天皇の供養のため創建された。 完成まで約80年かかり、天平18年(746)に完成供養が行われた。 奈良の東大寺、下野の薬師寺とともに天下三戒壇と呼ばれた。 |
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観世音寺2 最盛期には49もの子院を擁したといわれますが、長い歴史の中で荒廃。 金堂、講堂ともに焼失したが、講堂は延宝8年(1680)、福岡藩主・黒田光之により再建。 金堂は寛永9年(1631)同じく黒田忠之により再建された。 観世音寺の宝蔵には多くの仏像をはじめ文化財が残る。 |
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戒壇院1 奈良時代には観世音寺に戒壇院が置かれた。 戒壇とは僧侶が守るべき戒律を授けるところであった。 本尊は廬舎那仏で平安時代の作で重要文化財に指定されている。 |
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戒壇院2 江戸時代に観世音寺から離れ、現在は禅宗となっている。 元禄16年(1703)、福岡藩主・黒田光之の藩命により、 博多禅宗の管理下におかれ、観世音寺から離れた。 現在は臨済宗妙心寺派の禅寺。 |
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戒壇院3 本尊廬舎那仏は藤原時代の12世紀半ばごろの作といわれ、国の重要文化財になっている。 脇仏、弥勒菩薩、文殊菩薩は共に市の文化財になっている。 本陣内陣は高さ50pほどの石戒壇になっている。 石塔・五輪塔は開山・鑑真和上の供養塔など文化財が多く残る。 |
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坂本八幡宮 元は戦国時代の勧進と伝えられる神社で、祭神は応仁天皇。 坂本地区の守り神で地元の人々によって大切に祀られてきた。 新元号「令和」の起源になった「梅花の園」が行われた。 大伴旅人邸宅跡の候補地の一つになっている。 「初春令月、気淑風和」が「万葉集」にある・・・ |
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大宰府政庁跡 大宰府政庁は7世紀〜12世紀後半にかけて、 九州を統括する行政機関としての役割を果たした。 地理的に日本の外交と防衛の最前線で、アジアの窓口としても機能したことから、 重要な政治の中核として大宰府の中心地に建設された。 政庁は南側を正面とし、南の石段を登ると南門跡で、 さらに進むと中門跡の礎石があり、ここから回廊が回っています。 東西に脇殿が建てられ、正面には正殿の跡地があり、礎石が残る。 |
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大宰府展示館1 大宰府展示館では太宰府史跡の発掘調査によって 検出された遺構の一部保存、公開をしている。 出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化を紹介している。 |
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大宰府展示館2 大宰府政庁跡では当時の遺物が数々出土している。 建築関係では屋根瓦をはじめ、軒瓦、平瓦など、 道具類ではかすがいなど当時の建築道具が残る。 このほか、皿、杯、壷などの土器も・・・ |
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