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世良田八坂神社1 平安時代の貞観18年(876)創建。 室町時代に寺尾城にて南朝の尹良親王と世良田政義の娘との間に 生まれた良王が後に津島天王社(愛知県)の神主になり、 良王とその母の一族が津島天王社を勧請した。 |
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世良田八坂神社2 本殿は江戸時代中期の1756年の建立。拝殿は明治10年建立。 部分的に彩色された本殿や大型奉納額が残る。 また、古い神輿が4基が並ぶ。 建武のころには足利、新田両家が尊崇した。 |
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世良田八坂神社3 祭神は素盞鳴尊で、厄除け、方位除けの神として信仰されている。 7月には例大祭「世良田祇園祭」が行われる。 かつては神田祭、秩父夜祭とともに関東三大祭りと称していた。 境内には永寿さまなど多くの境内社ある。 |
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長楽寺1 世良田山真言院長楽寺という天台宗のお寺。 鎌倉時代の承久3年(1221)、新田氏本宗家初代、新田義重の子で 得川氏、世良田氏の始祖となった義季が開基となって、臨済宗寺院として創建。 東関最初禅窟(東日本最初の禅寺)と称し、後には五山十刹に列した。 |
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長楽寺2 鎌倉時代には約6万坪の境内に塔頭寺院が軒を並べ、 多くの学僧が兼学修業に励んだ。 室町時代初期には五山十刹に列し栄えたが、 新田氏の衰退とともに荒廃してしまった。 |
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長楽寺3 江戸時代には天海僧都が住職となり、天台宗に改宗。 境内には世良田東照宮が創建され別当寺となった。 江戸幕府から寺領100石が与えられ、末寺700有余の大寺院になった。 |
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長楽寺4 長楽寺には勅使門をはじめ三仏堂、太鼓門など多くの文化財が残る。 境内奥には文殊山と呼ばれる前方後円墳があり、 この後円墳の墳頂に石塔群があり、長楽寺の開基であり、 徳川氏の始祖である義季以下の墓が残る。 |
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世良田東照宮1 寛永21年(1644)徳川家光の命で、徳川氏の遠祖である 世良田義季の墓があった長楽寺の境内に創建。 明治維新の神仏分離で長楽寺より分離した。 |
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世良田東照宮2 社殿の一部は日光東照宮から移築した。 拝殿は日光東照宮奥殿拝殿として元和年間(1615〜23)に造営され、 寛永17年(1640)、世良田へ移築された。 境内は国指定史跡の新田荘遺跡の一部になっている。 |
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東楊寺1 天台宗のお寺で、本尊は久遠実成無作本仏。 この地は江戸時代には津軽藩の飛び地で陣屋がおかれていた。 津軽藩2代藩主・津軽信枚の側室で、石田三成の三女である辰姫のお墓が残る。 また、陣屋代官「足立氏の墓」の石輪塔も残る。 |
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東楊寺2 辰姫は関ケ原に戦いの後,助命され、津軽信枚に正室として嫁いだ。 しかし、徳川家康の養女・満天姫が信枚に輿入れすることになり、正室を譲り、 藩飛び地のこの地に移り、大館御前と呼ばれ、三代藩主・信義を生み、 享年32才で短い生涯を閉じた・・・ |
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明王院1 呑嶺山明王院安養寺という真言宗豊山派のお寺。 鎌倉時代の総領家の安養寺館跡に建てられた大寺。 寺の境内は新田荘遺跡の一部に指定されている。 |
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明王院2 二王門には四天王の持国天像と増長天像がある。 また、本堂東側には享保4年(1747)に建立された 千体の不動明王を刻んだピラミッド型の千体不動塔が立つ。 本堂裏手には南北朝時代の石仏薬師如来が祀られている。 |
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明王院3 不動堂には二対の不動明王が祀られている。 その一つは8分(約5.5p )の白金製で、 元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、 山伏に化身して、新田一族に触れ回ったという 「新田触不動」として知られている。 |
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明王院 4 明王院の境内は広く、多くの参拝者が訪れる。 安養寺館跡は土塁や掘割等は残っていない。 「安養寺殿」と送なされたのは新田義貞が有力とか・・・ |
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